章 「ん」
千章(ちあき)は左向きに眠る。左肩を下にして左耳を枕にぎゅうっと押し付けて、膝を折り曲げてひらがなの「ん」みたいになり、手を脇の間に挟んで眠る。それがベストなのだ。それがベストだということに気づいたのは、千章が高校生の時で、インターハイ予選前日の眠られない夜に、なんとか見つけた眠ることのできる体制だった。それから彼女は毎日その「ん」ポーズで眠ったし、素敵な夢を見ることもあった。例えば、目がさめるとあたり一面の花畑の真ん中で立派なドレスを見にまとって、甘い紅茶を飲みながらふうわりとした春の風の中を散歩する夢や、正月の寒い日にコタツの中でイケメンで優しい恋人と特番を見て、二人でしこんだ雑煮を食べて、夜は人気の少ない神社に参詣するという夢だ。
「そういう夢を見るの。だから、お願いだから左向きで眠らせて? 」
章良(あきら)は困った顔をして、構わないよ、と答えた。君がそれが心地よく眠れるなら僕はそれで一向に構わないよ。
「章良はどっち向きで眠るの」
章良はさらに困ってしまった。彼も左向きで眠るのだが、彼はそれでは彼女を抱きしめてあげられないと思った。どうしようかと彼は悩んでから答えた。うーん、別に決まっていないかなあ。
「そう、ごめんね。それはもう決まっていることなの」
うん、わかったよ。と、章良も恋人になったばかりの千章の笑顔を可愛いと思い、一緒に、恋人になったばかりの千章の変わった部分に、少しだけ戸惑った。彼もまた、左向きで眠った時の素敵な夢を思っていた。世界中の猫たちが集まる素敵な香りの湖の上に彼は浮かんでいて、その甘いような酸いような香りに包まれて猫たちと戯れていた。港町で船の行ったり来たりするのを眺めながら、海辺のバーでビールを飲み、それから女と手を繋いで歩く、夕日を反射させる海やそれを乱反射させた街も空も美しい橙色に光っていて、奇跡のような音が響いていた。
「だけど、一緒に眠る時は左向きの方が嬉しい」
どうして? と章良は尋ねた。どうして?
「後ろから抱きしめられるのが好きなの。」
ふうん、と言って少し照れてしまった二人は紅茶を淹れて、次の日のデートの計画を立てた。花畑を見に行って、夕暮れにはバスに乗って海を見に行こう。ちょっと寒いかもしれないから、マフラーも買いに行こう。夕方の一瞬の素晴らしい空を見たら、もう一度バスに乗って少し眠ろう。夜になったら疲れて機嫌の悪い二人を上機嫌にしてもらえるように、神社でお参りして、家でお雑煮を食べよう。
「そんな計画通りにいかないかもね? 」
計画とベッドは倒れるためにあるんだよ、と章良は答えた。そうかな? と千章は言った。良い文章を書くためには、奇跡の音を聞くことが大事なんだ。と章良が言った。千の文章を書くためには「ん」の形で眠ることが必要なの。
「ん? 」
「ん。」
「ん〜? 」
「んー。」
「そういえばね、僕も左向きなんだ。」
「そう。よかった。」