アンニュイ
アイスティーが結露して、男はそれを指で擦る。指が少し湿って、彼はそれを一度紙ナプキンで拭ってから腕時計に目をやる。待ち合わせた時間をもう十分も過ぎている。話があると呼び出したのは、向こうの方だった。
「コーヒーを」
入店の電子音がなって、男が入り口を見ると約束の相手がこちらを探していた。立ち上がって手をあげるとようやく気付いたようで、店員にその席に、と指差して伝えた。ベージュのコートを脱いで椅子にかけると、彼はいいか、と小さい声で尋ねながら座った。いいか、タケル、今から言うことに驚かないで聞いてくれ。
「行方不明ってどういうことだよ! 」
タケルはアイスティーのグラスを立て直してから、数枚のナプキンをまとめて取り、溢れた紅茶を拭った。もう一度店員に詫びてから、コーヒーをもう一つ頼んだ。タケルは時計を見た。まだ待ち合わせてから二分と経っていなかった。
「いや、だから、落ち着いて聞いてくれって」
「落ち着いていられるか、どういうことだよ、お前のとこに行ったんだろ?」
「ああ、一週間前まではな」
「一週間って……。なんで今日までほっといた!」
「ただの家出だって思うだろう、普通は。どうせ実家にでも帰って、三日もしたら帰ってくると思ってLINEで謝った。でも既読もつかないし、流石に遅いと思って、実家に電話かけたんだ。そしたら帰ってきてないって。何人か友達にも連絡したけど、そっちも音信不通。会社にも行ってない。」
「届けは」
「今からだ。付き合ってくれるか」
タケルには心当たりがあった。昔旅行で見つけた小さな町。小さな小さな海辺の町の、小さな小さな時計屋さん。そこのマスターは美味しいコーヒーを淹れるのがとても上手だった。タケルと、彼女が付き合うきっかけとなった旅行だった。その時計屋さんをタケルが外から眺めていると、中から彼女が出て来た。まるで小説か漫画のような出会い。彼女は素敵に笑って、すいません、目があってるような気がして、知り合いでしたっけ? ああ、すいません、この、時計を見てたんです。 えっ、ああ、すいません、恥ずかしい! いえ、俺の方こそ、なんかすいません、中で、何してたんですか? ここの店長の淹れるコーヒー、本当に美味しいんですよ! コーヒー? 時計屋じゃないの? それだけじゃこの小さな町じゃやっていけないから喫茶店もやってるんです。 へえー、じゃあ、俺も頂いてみよう、どうせ暇だし。 ええ、きっと気に入りますよ。ご旅行ですか? え? ええ、まあ。 それ、その大きなスーツケース。 ああ、これね。俺、荷物多い方なんです。生活背負ってないと怖くって。 わかります、いつもそばに置いていないと、いつ消えて無くなってしまうか、わからないものね。 え? いえ、なんでもないんです。
「じゃあ、そこに行ってみよう」
「なあ、お前の心当たりはないのか? 」
「そんなの、全部行ったさ」
「そうか、そうだよな」
「まあ、出会って二週間じゃ、それほど思い出もないよ」
「……そうか」
タケルとマコトは大学時代からの友人で、社会人になってからもよく二人で遊んでいた。お互いに上司の愚痴を垂れたり、最近読んだ小説の話をしたり、恋愛の話なんかをした。タケルはマコトにはかなり多くのことを話した。マコトはあまり話さなかった。
「ハルカは、あいつは最後、なんて言って家をでてったんだ? 」
「なにも。ただあの子はコンビニにふらっと出て行くような風だったよ」マコトはため息交じりに答えた。
「いつもそばに置いていないと、いつ消えて無くなってしまうかわからない」
「え?」
「ハルカが昔そう言ってた」
「なんの話だ?」
「自分で考えろ」
タケルとマコトは警察に届けを出した後、二人でバスに乗った。タケルとハルカの出会った、あの海鳴りの聞こえる小さな町に向かって。タケルはバスの停留所でもう一度時計を見た。案の定、時計は動いていなかった。