火星人と花の色【9】
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「それで、次の秋が来る前に彼女は死んだの」
遮断機の降りた踏切に向かって、とん、と歩いて行ったの、と彼女は言った。僕はまた、彼女の足の裏を見ていた。綺麗だと思った。とん。とん。
「私はその年の十月が終わるまで学校を休んで、逃げたの。沙羅のために泣くことで、彼女が過去になってしまうのが怖かった。寒い季節が来て、それから私はようやく彼女の死んだ踏切に行ってみたの。そこで私は彼女と会って話をした。嘘じゃないのよ? 信じてね、声って聞こうと思えば聞こえるのよ? 沙羅は私に、やっと来てくれたの、って言った。ごめんね、私はあなたを救えなかった、と私が謝ると、沙羅はね、私はもう先に進めない女なの。ここが最高潮、これ以上ないのよ。もうこれ以上ないの。心の中のどす黒いものが押し寄せてくるの。もう一歩も歩けなかった。踏切はいいわ、とん、と入ってしまえばおしまい。ジ・エンド。私を後ろから包むみたいに抱いて、耳元でそう言った。私の話し方は沙羅の真似。私はあれから、沙羅になったの。沙羅より素敵で、沙羅より強く生きるために。私は沙羅の振りなの。私のこれからは沙羅への贖罪の旅なの。ねえ、沙羅って、呼んでみてよ?」
僕は、だいぶ困惑していたと思う。でも、とにかく僕は午前中の太陽にせがまれるようにして、沙羅、と彼女に呼びかけてみた。
「沙羅」
彼女の、少女の目が、輝いた。彼女は再びスリットを脱ぎ捨てて、僕の背中から華奢な腕を巻き、耳元でウィスキーみたいにとろりとささやいた。
ねえ、私、ずっとこのままで居たい
「沙羅」僕はもう一度言ってみた。彼女の吐息が熱くなる。聞き覚えのある声と、知っている目がそこに浮かんでいる。18歳の少女は、あまりに透き通っていた。瑞々しい肌が僕の目を灼いた。僕は彼女の唇にキスをしたいと思った。僕は彼女との抱擁を緩め、顔を近づけた。桃の甘い香りが強くなった。同時に、世界中が息をひそめた。彼女が僕に巻いた腕が、温かかった。
「ダメよ」
33歳の美しい目だった。悲しい顔だった。ダメよ、彼女はもう一度言った。僕は、うん、と言った。輝きを失った冷たい目に温度を失った涙の粒が重力に耐えていた。太陽が中空にあるのが見えた。もう、地球人の時間が始まっていて、僕はベッドから出るか、眠るかしなければならなかった。僕は眠ることを選ぶ。火星人たちの時間にはきっと、目を覚ましてまた酒を飲むのだ、と僕は思った。きっとそうだ。
「眠っちゃダメ」彼女が耳元で言った。僕は彼女を見た。
ねえ、またさっきの曲をかけてくれない?
もう、私たちはこれで、ここでおしまいなの
ジ・エンド。それは、僕が沙羅の話を聞いたから?
時間が流れることを忘れていたの
でもここでは時間がゆっくりと流れている気がする
時間は均一に流れるの
沙羅は、素敵な子だったんだね?
地球で一番ね。私は完全な沙羅にはなれなかった
そして彼女は弱かった。地球で一番
そう、蟹の関節みたいに。彼女が言った。
ライオンの心みたいに。僕が言った。