つながれる時代の、つながりについて
「今日はもう、ボッコボコだな!」。神田川が近くで流れる、とある昔ながらの銭湯での話。生きのいいおじさんたちがジャイアンツの試合結果について議論しているのだ。きっと常連仲間なのだろう。僕は富士のペンキ絵を背に、口元ギリギリまで湯に浸かり、そんな会話を聞いている。他愛のない世間話が響き、勢い良く流れる湯の音と共に、ケロリンもカランコロンと踊り出す。それらは、極楽に浸る僕の耳にとても心地よく入ってくる。そんな銭湯が僕は大好きだ。
かたや普段の僕といえば、通勤など仕事の移動はほぼ地下鉄。真っ暗な景色。仕事場は、現代的で無機質で且つ巨大な建物に閉じこもりっ放しだ。しかし下宿先から徒歩10分、軋む戸を開ければ非日常の世界に浸かれる。休日や、何か気分をリセットしたいときは、いつもここで思いにふけていた。自宅の狭い浴室では、頭の中でグシャグシャになってモヤモヤした糸のかたまりを、キレイにほどくことはできない。
そう、なぜか銭湯という場所は、僕にとって異常に落ち着くのだ。銭湯に通いだしたのは大学生の頃。当時の下宿先で一人暮らしを始めてからで、子供の頃は一度も行ったことがない。にもかかわらず、この居心地の良さといったら不思議だし、困ってしまう。それは先祖代々慣れ親しんできた感覚が奥底に息づいていて、ふと顔を出しては自分に重なり合うのだろうか。のぼせそうになりながら、そんな結論の出ない空想にどっぷり浸ってしまうのだ。
ふと、真面目なことも考えてしまう。なかには銭湯を“不潔”と感じる人も、少なくないということ。理由は「他者」への親近感の度合いがどんどん薄まっているからだと思う。時代は「集団」から「個」へ。「個」の意識や行動、強さが尊重されるようになった反面、「集団」としての意識は希薄化する。それは「特定の愛情の伴う他者」の範囲がどんどん狭まっているのではないか。人はついつい、自分たちの尺度に合わないものを、異質や不潔という範疇に追い込んでしまうもの。言ってしまえば、プールだって同じくらい不潔だ。でもプールを不潔と思わないのは、プールに集う人々がその人にとって、「愛情の伴う他者」の範疇に入っているからだ。
今の時代、いつでも、どこでも、誰とでも、他者とつながれる。歴史上最も他者が隣にいるであろう時代。しかし最も他者を好きか嫌いか区別できる時代だ。好きに値する他者か、嫌いになるべき他者か、その判別材料が、その人のバックボーンが、昔じゃ考えられない速度で手に入る。俳優やタレントが一躍脚光を浴びると、瞬く間にその人の過去がとりあげられ、「人となり」がなんとなくわかる。僕も含めてだが、知ると安心するのだ。逆を言えば、判別できないと不安なのだ。「どこの誰だかよくわからないけど、なんか面白いやつ」というような人は、このご時世なかなかいないのではないか。そしてこれは、判別して終わりではない。「好き」と判別したにも関わらず、「好き」として描いた像に当てはまらない言動、行動があると混乱してしまう現象が起きる。誰もが一度は経験したことがあるはずの「勝手に傷つかれて困る」というのに似ていると思う。
いつでも、どこでも、誰とでもつながれる時代の、“つながり”はどうなってゆくんだろう。他者との付き合い方は、どうなってゆくんだろう。ただ思うのは、銭湯が日常として親しまれていた頃と今とでは、人の“困っていること”が違うということ。それは、人が何で“喜ぶ”かも変わってくる。それがいわゆる、“幸せの尺度”となって表されるのだと思う。でも、どんな時代でも、僕らは感情をもった人間だ。優しく、妬ましく、たくましく、脆く、慈愛に満ち、欲深い、人間だ。“欲”で突き動くし、“情”でいくらでも優しくなれる。どんな世の中になろうと、欲求や心情はつきまとうもの。それがプラスに働くかマイナスに働くかで、いくらでも価値観や世界はひっくり返る。一人ひとりがたとえ1ミリでも、プラスの感情でいるだけで世界は変わると思う。どんなに貧しい国でも、紛争が終わらない国でも、独裁国家であっても「I love you」が訳せない国はないのだから。そこに、少なからずの希望を感じる。
生きのいいおじさんたちの野球談義が、今も鳴り響いている。
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