拝啓、愛人のいた父へ
「パパ、愛人がいるの。」
僕が高校1年の時だ。母は泣きながらそう言った。愛人の「あ」の字を発した途端泣き崩れながらも、なんとか絞りだすように、言った。それは平日の真っ昼間。僕は不登校で、日中は母といつも二人きり。
兄と妹は普通に学校に行くまともな生活を送っていたが、僕はそんな生活が死ぬほど嫌だった。それなりに社交性があって、スクールカーストの中段くらいには属していて、友達という存在の素晴らしさを知っている人たちには、きっと楽しい世界なんだろうなと、社会からこぼれ落ちた底辺から、“上”を眺めてはそう思っていた。
問題のその日は、ザ・ニッポンの茶の間『笑っていいとも!』を見ながら昼ごはんを食べ、満腹感に浸っていた時のことだった。僕にとってその昼の日課は、大事なルーティン。脳内に、波のように否応なく、そして定期的に押し寄せてくる「将来への漠然とした不安」を忘れさせてくれる、この上ないひととき。
母の告白は、満腹感で1ミリ幸せの上に立っている僕を殴り飛ばした。
変な予感はあった。リビングで昼食を食べる僕のそばで、いつになく母の様子が不自然だったし、何か言いたげにモゴモゴしていたのだから。
母の告白になにも言えず、黙って聞いていた。というか、頭ではかつてないほどに超高速にいろいろな言葉や思いがめぐり散らかすが、散らかり倒してまとまらない。トムとジェリーくらいに、ひたすらグルグルしている。結果、沈黙に至る。
泣き崩れる母の背中のそばで、空いていた窓から風が入り込んだ。
なびくカーテン。その隙間から映り込む、ほどよく青い秋の空の綺麗さといったら。とても皮肉に映った。
告白の一部始終を聞いたが、女性とのお付き合いすら経験のなかった僕には、理解する能力が絶望的に足りなかった。決定的な経験不足による、脳内投影の解像度の低さ。見ようにも、こすりようにも、全く見えてこない。
でもきっとボヤけた視界の先には、昼ドラ的なことが現実に起こっている。というか当事者の息子だから、それなりのレギュラーだ。世の主婦たちを虜にしていたようなドロドロ劇が、TV画面の向こう側でなく、こちら側で起こっている。(当時は、伝説的昼ドラ『牡丹と薔薇』が流行っていた。)
そんな稀有な事態にレギュラー出演している僕は、誉れ高いことなのか。いやそんなはずはない。とりあえず気分は最悪だった。
しかもまともな生活を送っている兄と妹には絶対に言わず、これは母と僕だけの秘密になった。当時中学生の妹にはセンシティブな内容なので言わないほうがいいが、兄には言っても良かったじゃないか。
そこから3~4年後くらいに兄に告げるまではずっと、一人でそのモヤモヤを抱えていた。家で何事もないように、淡々と振る舞っていた。
今日本は近年まれにみる、不倫“ブーム”だ。ブームと言うのも甚だおかしな話だが、ブームと言わんばかりのもつれ合い合戦だ。
でもそんなのずっと他人事だと思っていた。それが一転、レギュラーだ。
いっそ「ショートコント『父に愛人発覚』」、「チキチキ 家族修復大作戦〜!!」ってぐらいなノリでやり過ごせればよかったが、できるわけがない。それ以降の母を見ていればなおさらだ。母の明るく振る舞うすべての仕草の中に、闇が見えてしまう。何事もなく毎日が過ぎる中で、その一点のフィルターを通して暮らす僕は、世界がさらにどんよりした。愛とは?家族とは?人間とは?・・・。
父の愛人発覚。この事実は、今でも僕の心にわだかまりを持たせている。
それは、愛人のいた父は、僕を愛していたのだろうか、ということだ。
もちろん兄弟、母についてもだが。
そもそも僕は、この事件の前からどんどん父を遠ざけるようになっていた。思春期の頃には、会話という会話はほぼなかった。言ってしまえば、本当に嫌いだった。
超がつくほどの亭主関白の父。九州男児で元ラグビー部で屈強だった父。本人曰く、胃痛と頭痛を知らないらしい。ちょっと度を超えている。
しつけも厳しかった。小さい頃はよく引っ叩かれた。絶対に謝らない。自分の中に確固たる正義や自信があって、それに反していると誰ふり構わず怒鳴り散らした。
ストロングスタイルな猪突猛進型父には誰も逆らえなかったし、思春期になるにつれて話すことがなくなった。なにを話したらいいのかわからなかった。
そして超仕事人間でもあった。バリバリの営業マン。バブル世代ど真ん中で、流行語にもなったリゲインのcm「24時間戦えますか」に感化されていたに違いない。ジャパニーズビジネスマンを体現した存在だった。
週の半分以上は出張でいなかった。帰りも遅いし、小さい頃から平日はほぼ会っていなかった。そんなだから、僕の誕生日すら覚えていなかった。気づいたら過ぎてるとかじゃなく、いつが誕生日かを忘れていた。
ある時は、僕が風邪がしんどく家でだるくしていたら、「ただの花粉症だろ!」と一蹴された。診断結果はインフルエンザだった。
父のストロングスタイルなエピソードは、挙げればきりがない。
そんな感じの昭和インストール型父なので、思春期の自分からすると、父から感じられる愛というものはなかった。それよりも、恐い、厳しい、いてほしくないという感情で埋められていた。
それでも、10代の子が父に思うことなのか。「大嫌いな父のことなんて!」と思いながらも、心のどこか隅っこに、好きでいたいと思う僕がいた。愛されているんだよなという確証が、行動なり言葉なりで感じ取りたかった。
当時の自分には、はっきりと「愛されたい」なんて言語化できる客観性もなかったが、なんとなく自分をふわっと包みこんでくれる温かい“なにか”を感じ取りたいと心の隅で思っていた。
だが、父の僕に対する行動や言動は毎度のごとく、その“なにか”をグシャグシャに丸めて、燃やして、灰にした。
二人の子どもを授かった今、このわだかまりについて向き合うことが多くなった。不思議なもので、ふと親のことを思い出すとき、母との思い出よりも圧倒的に父との思い出がバッと頭をよぎる。
きっと絶対的な愛を感じられていた母には安心感を抱いているのだ。反対に、父には潜在的に不安を持っているのだろう。
絶対的な愛は、平穏な日々をくれるんだなと、父から学んだ。
果たしてこのわだかまりは成仏するのだろうか。仮に一生付き合っていくにしても整理がしたい。そんなことを思い、渡すことのない父への手紙を書いてみた。
渡したいとも思わない。そんな、変な手紙。
***
お父さんへ。
お父さん。俺たぶん全部知ってる。高校の時から。
浦安にいる人のこと。浦安にももうひとつの“家”があったこと。
お父さん含め、お母さんもその人も、同じ会社の同僚だから、お母さんも相当ショックだったと思う。
本当はその人と結婚したかったこと。
その人が最愛の人だったこと。
よりによってそれを昔、お母さんに告げたこと。
全部知ってる。
大学生の頃、デートで浦安のほうにある夢の国に行くたびに思ってた。
お父さん近くにいるのかなって。
なんとも言えない、この気持ちはなんだろうと。
恋とモヤモヤが同時に押し寄せてくるこの感じは、なんと形容すればいいのか。
さらに言うと、お母さん、俺が高校生の時から愚痴ってたよ。
父さんのアソコなんて小さいくせにって。
それを聞く息子の気持ちよ。
母親にそんなことを言わせてしまう、あなたの行動よ。
知らないだろうけど、離婚の危機だってあったんだよ。
俺と兄が、離婚しても大丈夫って母の背中を押したから。
でも子どもの安定を選んだお母さんのおかげで今に至ってる。
なんも知らないだろうけど。
でも、決して帰りたくなるような家ではなかったなとも思う。
同情したいわけではないのだけど。
すぐ怒るし、すごく厳しかったから、思春期の頃には兄弟みんなお父さんとは話さなくなってたし。
しかもお父さん以外の家族は仲が良かったから、なおさら距離を感じてただろうね。
しかも忙しく、週の半分以上は出張する日々。
(どのくらい浦安出張だったのかは知らないけど。)
そんなだから、お父さんがいる日はもう通夜みたいだったね。
無言の食卓。テレビの音だけが鳴り響く。
逆にお父さんが寝たあとは大盛り上がり。
やっといなくなったってばかりに、はしゃぐみんな。
リビングで僕ら兄弟は羽根を伸ばしてお母さんと一緒におしゃべりしてた。
お父さんのことをおちょくって笑いにもしてた。
リビングの真上の部屋で寝てたお父さんは、自分がいなくなった途端に響く笑い声とか、絶対聞こえてたよね。なにを思ってたんだろう。
子どもたちが渡す誕生日プレゼントだって、お母さんのとは明らかな格差があった。
渡さないこともあったね。
他にもひどいことを上げたらキリがない。ごめん。
僕らは傷つけて、傷つけられて、半ば諦めていたね。
でも当時の俺は、屈強な父が悲しいと感じてるとか、微塵も思ってなかった。
全く別の生き物ってくらいにわかり合えない人だと思ってた。
この人の血は緑なんじゃないかってくらいに思ってた。
でも自分が父親になった今、そういう家だったら、帰りたいとは思わないなと。
お父さんはお父さんでだいぶ我慢してたんだろうなと。
ある時、お母さんとのケンカで「俺は金だけ持って帰ればいいのか!」って怒鳴ってたのもよく覚えてる。
お父さんが同じ人間だと知るのは、だいぶ大人になってからだった。
家族旅行はいつもスキー。あなたが好きだから。
毎回毎回ひたすら雪山の景色っていうのが、つまらなかった。
自己満で旅行しやがってって、正直思ってた。
でもだいぶ経ってからお母さんから聞いた。
旅行のあとは必ずお母さんに「みんな楽しかったかな?」と聞いていたらしいね。
僕らの気持ちを考えてるなんて微塵も感じられなかった。
わからなすぎるよ。お父さん。
35年ほど努めた会社を定年退職で辞めるとき。
デスクの荷物をすべて持ち帰ったときのこと。
その中にひとつ、ボロボロになった薄っぺらい座布団があった。
自分の会社の椅子に敷いていたらしい。
会社で使うには相応しくないようなPOPでヘンテコな柄。
まるで子どもが作ったような。
それを見たとき、なにこれ?って思ったけど、思い出した。
膿が流れでるように一部始終が再生された。
それ、俺が小学生のときに家庭科の授業で編んだ座布団だ。
「おしごとでつかってね」と呑気に渡していた。
ボロボロになるまで使って、それを嬉しそうに俺に見せてきたね。
知らなかった。そんな大事に使ってたなんて。
時折、お父さんとの思い出がドバっと頭の中を駆け巡る。
一人でランニングをしているときにふと。
追い込みながら走っていて、もうきつい。そろそろ終わりにしようってとき。
バッと景色が小学生の頃のマラソン大会に。残り数百メートル。僕は上位につけていた。
すると遠くの方から叫び声。父だ。
「ラストスパートだ!このままいけ!」
ストロングスタイルな猪突猛進型のお父さんらしく、一人大声で誰ふり構わず僕を追っかけながら応援していた。
それをふと思い出したとき、走るのをやめ、ぜいぜいする呼吸とともに、額と目から水分が溢れ出た。
嫌いすぎてだいぶ盲目になっていたのだと気づいた。
一つ思い出すと、他にもいろんな記憶が溢れるように頭を駆け巡った。
閉ざされていた扉の前で、ずっとそこから出たがっていたかのように。
幼少期、ヒゲの濃い刺々しい頬にズリズリされるも、痛くて仕方なく拒絶していた。「パパやだ〜」と。その時の父の顔は、笑ってた。
休日。父と二人。父が漕ぐ自転車のうしろに乗りながら必ずコンビニに立ち寄っていた。「ほれ、アイス選べ!」と。
溢れる思い出が、脳内を鈍器で殴りつけてくる。
お父さん、わからないよ。わからなかったよ。愛が。不器用すぎるよ。
もっと、お母さんと同じように、お父さんも
温かい“なにか”で包んでくれているってわかっていたら。
もっと、もっと、僕らは変わっていたかもしれないのに。
リビングで盛り上がる会話の中に、お父さんもいたかもしれないのに。
「アイス買ってくれてありがとう」って、ちゃんとお礼してたかもしれないのに。
マラソン大会で入賞したうれしさを、もっと分かち合ってたかもしれないのに。
お父さんの誕生日は、もっと賑やかだったかもしれないのに。
スキーの帰り、「楽しかったね」って言い合ってたかもしれないのに。
浦安に入り浸ることもなかったかもしれないのに。
お父さんと彼女の話とかしてたかもしれないのに。
一緒にお酒を飲んで、仕事の悩みとか相談してたかもしれないのに。
***
僕は今、6歳になる娘と、1歳になる息子と妻とで暮らしている。
娘に頬ずりをしては、拒絶されている自分がいる。
プールの帰りのアイスは、一緒におしゃべりでもしながら食べよう。
マラソン大会のときには、誰ふり構わず応援しよう。
入賞してもしなくても、ご馳走を一緒に食べよう。
旅行の帰りは、一緒に楽しかったねって言い合おう。
彼氏が家に来ても、気さくに振る舞おう。
相談されるようなことがあったら、どんなに忙しくてもひと晩中でも付き合おう。
温かく包みこむ“なにか”が、逃げていかないように。
おわり。
というより、始まりだ。