
自分の中にこびりついている「理想の母親像」の呪縛に気が付いた話
保育園の保護者会で見えてきた「母親側の平日ワンオペ」の増加について、前回記事を書いた。
その後もずっと考えていて、ふと気づいたことがある。
リモートから出社回帰という世の中の大きな流れももちろんある。
でも、そこには自分たちの中にある無意識の中の「ジェンダー役割の刷り込み」が、母親とはかくあるべきという考え方を形作っているのかもしれない。
母親側だって仕事も大切だし、どうしても休めない会議やプレゼンだってある。
このご時世夫婦で平等に育児も家事も分担するのは当たり前だと思っているのに、保育園や学校の行事があれば、夫のスケジュールを確認する前に自分の予定を調整してしまう。
「私が行くよ」と、なんとなく言ってしまう。
でも「母親だから」と、自分で自分の首を絞めていないだろうか。頑張ればどうにかなると思い込んでいないだろうか。
他人に任せることに罪悪感を感じていないだろうか。
なぜ私がこんなことを思うのかと言うと、思えば1人目の0歳の時に私自身、そういう身の丈に合わない理想の母親像は捨てたと思っていた。
1人目が0歳の時、私は早々に完璧を目指すことをやめた。
離乳食には市販のベビーフードも使うし、時短家電は極力導入。
餃子は自宅で包んだことなど一度しかなく、冷凍餃子を焼くだけがデフォルトだ。掃除も毎日できないし、トイレ掃除でさえ3日に1度。
苦手な家事を極力減らして、自分が、ストレスなく育児ができるようにしてきたつもりだった。
でも、仕事に復帰してみて気づいた。
子供が熱を出したら真っ先に電話が来るのは母親の方だし、会社で飲み会があっても「でもママだと夜は難しいか」と言われてしまう。いつの間にか、世間から向けられる「ママ」の役割に、自分から迎合していた。
父親が出張で数日不在になる時、それは「仕事だから仕方ない」で済む。
でも母親が夜のミーティングで「夫にお風呂もご飯も寝かしつけもお願いした」と言うと、周りから「え~大丈夫?」という心配の声が上がる。
この非対称な反応の背景には、私たち30~40代世代が子供の頃に受けた影響が色濃く残っているのではないだろうか。
まだまだ多くの人が専業主婦の母親に育てられ、「食事は母親が作る」「育児は母親の仕事」という環境で育った。そこで刷り込まれた「理想の母親像」は、時代が変わったといえど自分が親になったときにどんな子育てをするか、どうやって仕事と家庭を両立するか、少なからず影響はあるのだろう。
夫婦で協力して子育てをしたいと思いながら、なぜか自分が引き受けてしまう。いや、周りの空気も、自分の中の「ママだから」という思い込みも、いつの間にか「母親が頑張るのが当たり前」という方向に私たちを導いているのだ。
私たちの中にある「理想の母親像」の呪縛。
「母親だから頑張るんだ」という無意識の思い込み。
時代は変わり、育児や家事は両親で担うものになった。それなのに、私たちの内側にある「理想の母親像」は、まだ心の奥底で、昔のまま残っているような気がする。
それは、きっと一朝一夕には変えられないもの。
自分自身が経験し受け継いできた価値観は、知らず知らずのうちに、私たちの行動や選択の中に根付いている。
でも、少なくとも気づくことはできる。
自分の中の「こうあるべき」という声に、ふと立ち止まって耳を傾けてみる。
その声は本当に自分の声なのか、それとも誰かから受け継いだ声なのか。
その小さな気づきの積み重ねが、いつか新しい景色を見せてくれるのかもしれない。