18. 管理職を経験したからわかったことⅢ〜勤務表をめぐって
初めての勤務表
2001(平成13)年10月1日、私は主任看護婦から看護婦長。翌年3月1日から男女ともに「看護師」と統一されるまで、女性は「看護婦」、男性は「看護士」と呼ばれていた時代です。
翌年、名称変更とともに、看護婦長は看護師長に。ちなみに、看護部のトップである総看護婦長は看護部長になっています。
管理職になって私が一番苦労したことのひとつが、勤務表の作成でした。部署によっては、主任の段階から、勤務表を作っている人もいます。私の場合、その機会がなかったため、昇格して翌月の勤務表が、生まれて初めて作る勤務表だったのです。
部署の人員は看護師12名+看護補助者1名。これで勤務表を作らねばなりません。前任の管理者は、ベテランの女性。他の病院の幹部に引き抜かれての退職でした。
前任者は部下の希望を入れながら、実にうまく勤務を組んでいて。私も見習わねばと思いつつ取り組みました。とはいえ、休み希望の数は多い人で6~7日。日勤や、夜勤入りの指定もあって、勤務表を作るには非常に困難です。
そこで、初めての勤務表を作る前に、部下には勤務表について、ひとつの選択をしてもらいました。
「休み希望を制限する代わりに、連続勤務や勤務者数のばらつきがない、バランスのよい勤務表がいいか。あるいはバランスが悪くなっても、休み希望が制限されない勤務表がいいか」。これ問うたのです。
もちろん、これは両者が並び立てば、それに越したことはありません。けれども実際には希望を全て入れたバランスのいい勤務表なんて、そうそうできるものではないんですよ。
両方求められても無理。そこははっきりさせておきたいと思ったのです。
そして、問いかけに対する答えは、全員が後者-<バランスが悪くなっても、休み希望が制限されない勤務表>。結果を受けて、少し気楽になったものの、やはり休み希望が重なったところはなかなか勤務が組めません。
「もうこの休みは入れられない。諦めてもらおうか」。そう思って再度見直すと、なんとかなり、なんとかなったと思ったら、1人夜勤が足りなかった。そんなことの繰り返しです。
それでも、10月25日の〆切には余裕を持って作成し、大きな問題なく受け入れてもらいました。
私の勤務表作りの原則は…..
勤務表を作るにあたり、私には、2つ決めていた原則がありました。
ひとつは、たくさん休み希望を出した人の勤務がきつくなるように作ること。
もうひとつは、休み希望を締め切ったら、直ちに作成にかかること。
いずれも勤務表を作ってもらう経験から感じていたことです。
たくさん休み希望を出した人がきつくなるように作る
年間の休日数は決まっており、かつ当時は有給休暇をなかなか付けられない状況がありました。もちろんそんな状況が間違っているのは自明なのですが、かといって、希望を多く出した人にだけ有休を付けるのは、あまりにも不公平になります。
このように、有給休暇で休みを増やさず勤務を作ると、多くの場合、休み希望を多く出した人の勤務は、不自然な夜勤入りや、連続勤務になります。一方、希望を出さない人では、夜勤も日勤がバランスよく入り、比較的無理のない勤務が組みやすいのです。
これをどうしても避けようとすれば、休み希望を出さない人にも無理な勤務を付けねばなりません。しかし、私は敢えてそれはせず、たくさん休み希望を出した人がきつい勤務になるのは、目をつぶりました。
理由は、希望を出さない人にツケを回すと、職場の人間関係が円滑に行かなくなるから。若い頃から、「あの人がたくさん休みを取るから、希望を出していない自分の勤務までがきつくなる」という声を、何度も聞いてきました。
酷なようですが、長い目で見れば、ツケを回さない方がいい。これが私の考えだったのです。
とは言え、あまりにもむごい勤務がついていると、「ここ、私が代わります」と言ってくれる優しい部下がひとりならずいました。「うちの師長は勤務表については鬼だから、みんなで助け合おう」と、思われていたのかも知れません。
それならば、それで本望というか。管理職として大事なのは、部下と仲良くなることではなく、部下同士が不仲にならないことなのです。
休み希望を締め切ったら、直ちに作成にかかる
勤務表を作ってもらう立場にいた時、一番うれしいのは、早く勤務表が出ることでした。
暦通りの勤務ではない私たちにとって、勤務表は実際の生活を決める暦のようなもの。来月の予定を決めるためにも、一日も早く知りたいと思っていました。
さらに言うと、休み希望の〆切のあと、長くまたされるのは、気がもめるものです。そして、待てば待つほど、なんとなく期待値が上がってしまい、出てきた勤務表に満足できなくなる。そんな心理もありました。
今思えば、私独特の感覚だったのかも知れませんが、いずれにせよ、勤務表は休み希望を締め切ったら、その日のうちに作成にかかる。これがマイルールだったのです。
勤務表を早く出すのは、部下のためだけではありません。作成する私自身も、早くに出せば圧から修正する時間の余裕ができる。これも大きなメリットでした。
人間だから、誰でも間違いはあります。そして私は、そそっかしく、かなり間違いをやらかす方でした。
特に、いろいろな希望が重なり、考えに考えて希望を通し、ようやく組めたと思った時が、要注意。あとから間違いを指摘され、ボー然としたことは数知れず。
「ここ、私は休み希望していません。希望は翌日です」
「この日、夜勤がひとりしかいません」
「平日なのに、日勤が2人です」
「夜勤が3人ついてます」
天を仰いだ後、さっそく修正にかかります。この余裕がほしいからこそ、私は早く勤務表を出していたのでした。
年末年始の思い出
勤務表についてはエネルギーを注いだだけに、いろいろな思い出があります。中でも、ある年の年末年始、休み希望の調整がつかなかった時は、本当に苦しかったですね。
年末年始の勤務は誰もがいやというわけではありません。
多くの病院で、この期間の勤務には、特別手当がつきます。また、混み合う時期をずらして連休を取りたい人も少なくありません。ですから、部署によっては、正月勤務が取り合いになったほどです。
それでも、子どものいる職員では、なかなかそうもいきません。当時私が管理者だった病棟は、30代の看護師が主力。既婚者が多く、わずかながら子育て中の人もいて、年末年始の休み希望は、重なりがちでした。
休みたい人たちの話し合いで、かなり調整はしてくれたものの、なんとかなっていたのは、いつも必ず年明けを病院で迎えてくれる、シングルの女性看護師のおかげだったのです。
ところがその年は、彼女が早々に、大晦日からの3連休を希望しました。その結果、大晦日から元旦にかけての夜勤者が1名、どうしても決まりません。
これはひとりひとりに事情を聞きながら、私が調整するしかない。そう思って私が最初に声をかけたのは、シングルの女性看護師でした。
大晦日の夜勤入りがどうしてもひとり足りないことを話すと、彼女は申し訳なさそうな表情で、こう言いました。
「私が休めば大変なのはわかっているんですけど、私ももう4年間大晦日と元旦は働いています。今年は里帰りをして、親孝行もしたいなと……」
彼女の言葉を聞いて、私は本当にそうだよなあ、と思いました。そして、配偶者や子どものいる人は後に回して、彼女に最初にアプローチした自分を恥じたのです。
翌日私は、大晦日の休みを希望している部下を集めて、提案しました。
「大晦日、休みを希望している誰かに夜勤をやってもらわないと、どうにもなりません。今回はじゃんけんで負けた人にお願いします」
場がざわつき、「それぞれ事情が……」と、子育て中の人が言いました。
「もちろん、そうです。事情はあるでしょう。それはわかっています。ただ、休みたい理由に、軽重はありません。家族と過ごす理由もあれば、何年もやってきたから今年こそは、という理由もある。どちらももっともです」
私の言葉に誰もが押し黙り、その場でじゃんけんしろとまで私は言えず、明日まで待ってだめならじゃんけんかあみだくじと、私が決めました。
そしてその日の夜。シングルの彼女は、「元旦の夕方に帰京できればいいので。一働きして、明けで帰ります」と言って帰って行きました。私はその後ろ姿に、手を合わせずにはいられませんでした。
年末年始の勤務表が出ると、今も彼女のことを思い出します。
じゃんけんとあみだくじの下では全ては平等なのです。
管理者自身が問われる勤務表
彼女の翻意は、私に大きな示唆を与えてくれました。全て叶えられないとしても、大切なのは、ひとりひとりの希望を正当なものとして尊重しようとすること。当たり前のように自分が譲ることに、彼女は傷ついていたのではないでしょうか。
マンパワーにゆとりのない職場では、子どもを理由とした休みが多い子育て中の職員をフォローするのは、どうしてもシングルの職員になりがちです。
私の職場は、そのあたりを皆気遣い合ってやれていた方でしたが、それでもやはり、無理はかかっていたのですよね。本当に申し訳なく思いました。
最終的には、また彼女に譲ってもらったのですが、それが決して当たり前ではないことを、皆が再確認した出来事でした。
私はあのまま看護師長として同じ病院に勤務していたら、2024年3月末で定年退職の予定でした。そんな将来を疑っていなかった頃は、「私は、2024年4月の勤務表を最後に定年退職ね」などと、軽口を叩いたものです。
実際には、私が最後に作った勤務表は、2009年4月の勤務表でした。そこには、私の後を引き継ぐ管理者の名前が最初にあり、ずいぶん早くこの日が来てしまったなあ、と思いつつ、公表しました。
今思い出しても、勤務表を作るあの時間は、部下を思う時間であり、自分の意識を問う時間でもあったと思います。かけがえのない貴重な体験ができたことを、心から感謝しています。