「永遠」と「瞬間」のはざまに ―堀尾貞治の《千Go千点物語》をめぐって

・作品成立の経緯


《千Go千点物語》は、その名のとおり約1,000点の平面作品からなるシリーズで、堀尾貞治の晩年の代表作のひとつとなりうるものである。「なりうる」としたのは、制作に携わった当事者以外、誰もまだその全体像を見たことがないからだ。実はこの作品集は、初めてその全貌を明らかにするものである。

作品の成立には、奈良県の喜多ギャラリーが深く関わっている。ここではもと具体美術協会の浮田要三やヨシダミノルをはじめ、ギャラリーのオーナーである喜多洋子と溝渕眞一郎が関心を寄せる作家たちの展覧会が行われてきた。もともと彼ら自身もグッドアート展への出品を通じて、ヨシダや堀尾らと交流があった[1]。したがって彼らと堀尾の関係性は、ギャラリーとアーティストに留まらず、いわば表現者同士の共犯関係に、より近いといえるかもしれない。

本作の前日譚として、2013年に同ギャラリーが企画した「箱100個に挑戦」があった[2]。ギャラリーが用意した木製ボックス100個を支持体として堀尾に創作を依頼したものだが、それが「瞬殺」で終わったことに彼らは衝撃を受ける。100個という物量は、堀尾にはあまりに物足りなかった。堀尾貞治という作家が「多量」と「迅速」を身上とすることを、知らない訳ではなかっただろうが、現実にそれを目の当たりにし、次なる課題へと繋がっていったようだ。

2016年、姉が営むディスプレイ会社が、古くなった木製パネルを大量廃棄することを知った溝渕は、それらに絵を描く気はないかと堀尾に持ちかける。箱よりもはるかに大きく、さらに今度は1,000点が目標である。むろん、堀尾はふたつ返事で引き受けた。《千Go千点物語》というタイトルは溝渕の考案によるもので、稲垣足穂の『一千一秒物語』から採られている。短い文章の集積からなる、いわば「永遠」と「瞬間」とが交錯するような文学作品であるが、足穂といえば、堀尾に大きな影響を与えた、もと「具体」の村上三郎が深い関心を寄せていたことが知られている。

同年の2月から10月の間に、堀尾はのべ6日間で1,028点を制作した。単純計算で一日当たり約171点という、とんでもないペースである。パネルは主に展示会などの会場構成に使われていたもので、大型のヨンパチ(1,200×2,400mm)も若干あるが、大半がサブロク(900×1,800mm)である。ただし規格サイズがそのまま使われたのはごく一部で、もっとも数が多いのは溝渕がサブロク板を半分に切断し、スクエア・パネル(900×900mm)に仕立て直したものである。より取り回しが楽なことと、画面の天地(縦横)をあまり気にしなくてよいこと、そしてウォーホルのマリリンなどのシルクスクリーンがこのサイズであることなどが念頭にあったようだ。つまり支持体のフォーマットには、溝渕の美意識が一定程度反映されていたといえる。

作品の成立には、こうした大量の素材の調達が不可欠だったが、さらに喜多ギャラリーの空間的な特徴も重要である。同ギャラリーは、喜多と溝渕の自邸の敷地内に建っているのだが、敷地全体ではかなりの広さがある。制作の記録動画を見ると、ギャラリーの壁面にパネルを立てかけるだけでなく、屋外の地面にもありったけ平置きし、それらに対して堀尾が同時並行的に絵具を塗りたくっていく様子が分かる[3]。ギャラリーの立地は、大和郡山市の、正直いってあまり交通の便がよくない場所である。時に堀尾は画面にオイルをふりかけて火を放ったり、カナヅチやナタで支持体を傷つけたりしているのだが、都市部の住宅密集地では、こうした異臭や騒音を伴う行為は難しかっただろう。これだけの物量をハンドリングし、かつ堀尾が気兼ねなく制作に集中するうえで、喜多ギャラリーは、様々な条件を兼ね備えた稀有な環境だった。

堀尾は2018年11月3日に享年79で急逝しているので、2016年の《千Go千点物語》は晩年の仕事ということになる。前年、顔面に帯状疱疹を発症したことが発端で、堀尾は頭部の痛みに悩まされ始める。体調が思わしくないなか、ドイツやベルギーへの渡航も含む多忙な合間を縫って、この作品は制作された[4]。無理がたたったのか、翌2017年にはメニエール病を発症し、慢性的な耳鳴りのため次第に精神のバランスを崩していく。そう考えると、これだけの規模の作品に集中的に取り組めたのは、実質的に最後の機会だったといえる。


・絵画と非絵画


堀尾は具象/抽象の区別や、絵画/彫刻といったメディアの違いにあまり頓着しない。なかには一時的にしか成立しない、パフォーマンス的な性格の強い作品も多い。《色塗り》や《一分打法》など「残る」作品の場合も、1点ごとはさほど大きくないものがほとんどである。それらに対して《千Go千点物語》が貴重なのは、後に「残る」タイプの作品であり、かつ個々のサイズ感もそれなりにあって、しかも絵画的な性格が強い点である。

ただし《千Go千点物語》は、いわゆる大文字の「絵画」とは、やはり趣を異にしている。前述のとおり、堀尾は絵画や彫刻といったメディアの違いにはあまり頓着しないのだが、そんな彼にあえて「絵画」を制作してもらう試みが、かつて行われたことがある。2010年に神戸のギャラリーヤマキファインアートで開催された個展は、ギャラリーが提供したまっさらのキャンバスに堀尾が描くというものだった。絵画作品がホワイトキューブにすっきりと並ぶ様子は、どちらかというと雑然としがちな、従来の彼の個展とは相当に印象が異なっていた。

まっさらなキャンバスは、絵画を日常空間から切り離して特権化する傾向がある。それに対して、溝渕が用意した木製パネルは、側面には角材が露出し、画面にも展示会の際に貼られた経師紙が残存するなど、より日常性と密に接続している。とっかかりの少ない白いキャンバスやホワイトキューブの空間よりも、どちらかというと堀尾は日常空間のさまざまなノイズに感応し、応答することで作品をつくっていく傾向が強く、こうした使い古しのパネルはむしろ好都合なのだ[5]。部分的に経師紙が残存する、画面のテクスチャーをひとつの手がかりとして、堀尾は筆を走らせていく。溝渕や山下克彦をはじめとするサポート陣は、こうした堀尾の美意識をよく理解しており、まさに阿吽の呼吸でパネルの下準備が行われる。なんとなく、食べ終わると次々と麺が投入される「わんこそば」を連想させるが、彼らのサポートのおかげで、堀尾は「描く」行為に思う存分没入できたのである。


・永遠と瞬間


堀尾の芸術における《千Go千点物語》の位置付けを考えるうえで、彼の創作の核となる二つのシリーズ、《色塗り》と《一分打法》にまず触れておきたい。いずれも堀尾が毎朝のルーチンとして継続的に取り組んでいたもので、発表前提の作品というよりも、まるで野球選手の素振りのような、基礎トレーニングを思わせるところがある。

《色塗り》は1985年から始まったシリーズで、自宅玄関脇の色塗り場で、日常的な廃品など様々なオブジェに、毎朝一色ずつアクリル絵具を塗っていく作品である。古い作品の場合、絵具の層が支持体である木片の何倍もの厚さになっており、まるで絵具の柱のように見える。堀尾がこのシリーズを始めた背景には、当時の彼が陥っていた深刻なスランプがあった。まずは1979年に彼が主宰してオープンした「東門画廊」である[6]。規制のない自由な発表の場を夢見て情熱を傾けたにも関わらず、最初の展覧会への来場者はごく数名に過ぎなかった。理想と現実とのギャップにショックを受け、不眠症となった堀尾は、見かねた職場の同僚から新興宗教へと誘われる。ところが「見えもしない神様をダシにして信者から金を巻き上げている」と教祖に噛み付き、逆に「見えないものを否定するなら、空気だって同じことだ。試しに鼻と口を塞いで一時間ほどそこらへんに転がってみろ」と返り討ちにあってしまう。この一件がきっかけとなり、目には見えないが確実に存在する「空気」の問題が、彼の意識にのぼりはじめるのである。

やがて勤務先の三菱重工の人事異動により、堀尾は原子力見積管理課に配属された。それまでは造船所の原図場など、主にものづくりに関わる業務だったのが、苦手な経理事務となり、さらに立場的に下請け業者に圧力をかけざるを得ないことなどから、仕事が肌に合わず次第にノイローゼ気味になってゆく。やがて1985年1月に発症した急性白内障が、さらに彼に追い打ちをかけた。水晶体の摘出手術により左目の視力をほとんど失ったのみならず、医師からは、右目もいつ失明してもおかしくないと宣告されたのである。いうまでもなく、美術家にとって視力を失うことは致命的である。仮に光を失っても継続可能な方法論として、絶望的な状況のもとで《色塗り》は始められた。それはまた、不可視なもの(空気、あるいは時間)を可視化する試みでもあった。

他方の《一分打法》は、1997年に始まった一種のドローイングである。毎朝の色塗り場での作業を終えると、堀尾はアトリエにあがり画用紙の束と向き合う。そして様々な画材を手当たり次第に動員し、猛烈な勢いでドローイングを仕上げていく。《一分打法》という名称は、堀尾と同じファーストネームを持つ往年のホームラン・バッター、王貞治の独特なバッティング・フォーム「一本足打法」をもじったものである。実際には一分どころか、一枚を数秒で仕上げてしまうことも少なくない。思考が介在する余地を極力排除するため、ここでは「多量」と「迅速」が極端に重視される。

《色塗り》と《一分打法》は堀尾の創作活動の核であり、車の両輪のようなものである。こうした基礎トレーニングの裏付けがあればこそ、彼は身ひとつでどんな状況に放り込まれようとも、作品をつくることができた。《色塗り》は堀尾の命が続く限り、原理的に終わることのない作品であり、他方の《一分打法》は、限界まで制作速度をあげること、つまり限りなく瞬間へと向かう営みである。つまり堀尾の芸術は、「永遠」と「瞬間」の両輪のうえに成り立っているといえる。

《千Go千点物語》は、基本的に《一分打法》を大型化したものだが、後者では堀尾が全工程をひとりでハンドリングしつつスピードをあげていく関係上、取り扱い可能な作品のサイズにはおのずと限界がある。他方の《千Go千点物語》の場合は、まず支持体=パネルの存在が大前提である。画用紙よりもはるかに大きく、また重さもあるため、制作スピードを確保するにはパネルの移動、画材の用意に経師紙の剥ぎ取りなど、周りを固めるスタッフの存在が不可欠となる。そういう意味では、この作品は堀尾と喜多ギャラリーという場、そしてサポート・スタッフとのコラボレーション的な性格が強い。

特にパフォーマンスの場合によく起こるのだが、作品が堀尾のものなのか、参加者のものなのか曖昧になることがある。その中心に確実に堀尾はいるのだが、彼自身も作品の帰属にあまり頓着せず、むしろ結果が「おもろい」ことが最優先される。自意識が希薄化し、彼我の境界が流動的な状況において、しばしば作品は産み出される。《千Go千点物語》の場合、「描き手」としての堀尾の位置付けは明確なのだが、やはり溝渕や山下をはじめ、堀尾が信頼できる人たちとの共有空間が、表現が生み出される前提となっている点には留意しておきたい。

前述したように、堀尾の芸術は「永遠」と「瞬間」の両輪のうえに成り立っている。《千Go千点物語》では、大画面であるにも関わらず、強引に制作スピードを高速化することで、限りなく「瞬間」が志向される。そして「千」という桁外れの物量は、ある意味「永遠」のメタファーなのではないか。ここではコンポジションなどの知的操作が介在する余地は限りなく排除される一方、なにか宇宙的とでもいうか、人智を超えたものへの接続が希求されているようにも感じられる。


・オートマティズム


そうした堀尾の創作姿勢を形作った、いくつかの要因が考えられる。ひとつは、初期「具体」におけるオートマティズムの問題である。堀尾が「具体」に加入した'60年代後半、彼らは美術集団としてすでにエスタブリッシュされた存在だったが、実質的な活動のピークは、むしろ'50年代後半だったといえる。より実験的な作品が数多く生み出された当時、多くの作家たちが制作プロセスにオートマティズムを導入していた。嶋本昭三が絵具を詰めた瓶を画面に投げつけ、炸裂させて描いた作品などはその典型的なものである。一瞬で大画面を埋めることができるので、躊躇わずにどんどん量産し、そのなかから「今までにない」絵画を「選別」することに、彼は意を尽くした。

初期「具体」においてオートマティズムが積極的に活用された背景には、リーダー吉原治良の「人のまねをするな」「今までにない絵を描け」という金科玉条があった。「今までにない絵」を描くことは、しばしば「今までにない描画方法」の探求へと結びつく。自我の限界を超えた、予想外の結果を得るのにオートマティズムは有効な手段だったが、「今までにない絵」が誕生した瞬間、それは宿命的に「すでにある絵」になってしまう。オリジナリティを絶えずキープするには、さらに新たな方法で、まるで麻薬のようにオートマティズムを摂取し続けなければならない。やがてそれは、絵画制作におけるいち「技法」に、どうしても収斂してしまう。

おそらく堀尾は、諸先輩の背中をみながら、初期「具体」におけるオートマティズムの利点と限界とを本能的に嗅ぎ分けていたのではないか。とはいえ、自我の限界を乗り越えるダイナミズムのみを抽出し、それが単なるいち「技法」に収斂するのを避けることなど、果たして可能なのだろうか。


・多量、迅速、無名性


そのことを考えるうえでキー・パーソンとなるのが、叔父の堀尾幹雄である。国鉄に勤務するかたわら民芸運動に尽力し、大阪民芸協会の理事を務めた人物で、やはり民芸運動の中心人物のひとりであった陶芸家、濱田庄司とは親交が深く、数多くの作品を収集した。約200点に及ぶ堀尾幹雄コレクションは大阪市立東洋陶磁美術館に寄贈され、同館の日本陶芸コレクションの中核をなしている。

堀尾は当初、民芸のことを、現代美術とは対極的な古臭いものと考えていた。しかしある時、叔父が一切の先入観や既成概念に囚われることなく、モノのよしあしを見分ける嗅覚を持っていることに気づく。なにも大家の手になる作品に限らず、安物の景品のコップであってもそれは同様だった。彼はまるで獲物を狙うハンターのように、日常のなかにある美を見逃さなかった。

民芸運動はしばしば単なる骨董趣味と混同されるのだが、本来のコンセプトは、いわゆるエスタブリッシュされたファイン・アートに対するカウンターともいうべきラディカルさを孕んでいる。1925年、柳宗悦らによって提唱された「民芸」は、「民衆」の「芸術」を意味する造語である。従来の美術史が作家の個性を中心とする視点から語られたために、正当な評価から抜け落ちてきた領域があるのではないか。そういう問題意識のもと、大家の手による希少な作品よりも、名もなき作り手が倦むことなくつくり続ける平凡な普段づかいの器物のなかに、柳は美を見出した。

「多く作る者はまた早く作る。(…)多き量と速き速度と、このことがなかったら器の美は遥かに曇ったであろう。そこに見られる冴えたる美、躊躇なき勢い、走れる筆、悉くが狐疑なき仕事の現れではないか。懐疑に強いものは、信仰に弱い。もし作り更え、作り直し、迷い躊躇って作るなら、美はいつか生命を失うであろう。あの奔放な味わいや、豊かな雅致は、淀みなき冴えた心の現れである」[7]

「民芸」のコンセプトに関する柳のテキストは、驚くべきことに《一分打法》や《千Go千点物語》の評論と見做しても、全く違和感がない。堀尾の産み出す作品が極端に多いこと(多量)、迷いのない制作スピードの速さ(迅速)、そして作者が誰なのかしばしば曖昧になる状況(無名性)は、実は「民芸」の理想と通じる部分が大きいのである。

晩年の柳は、「民芸」をめぐる思考の果てに、浄土真宗における「他力」の思想にたどり着く。親鸞が開いた浄土真宗の特徴は「他力」と「易行」にある。阿弥陀如来の本願は絶対的なものであり、その前では善悪をはじめとする人間の価値観はまったく無意味である。そんなことと無関係に、凡夫である我々は阿弥陀によって救われることが決定づけられているのであって、そのことをそのまま受け入れるべきである。「他力本願」ということばは、よく単なる「人任せ」と誤解されるが、本来は自分が徹底して無力であることを認識し、阿弥陀の絶対的な慈悲を受け入れる、という姿勢をさしている。そのためには阿弥陀の名号である「南無阿弥陀仏」を無心に唱えるのが唯一の道であり、なんら高度な知識も、つらい修業も必要としない。古来、仏教は国家権力と結びつき、主に支配階級を中心に支持されてきたのだが、誰にでも実践可能な敷居の低さにより、浄土真宗は広く一般庶民に浸透していった。

柳が研究対象として重視したのが、浄土真宗の篤信者の列伝『妙好人伝』である。同書には、社会の底辺に生きる無学文盲の身でありながら、宗教的直観に目覚めた篤信者たちの姿が描かれている。収録された約150名について、誇張や脚色はあるとしても、原則的にすべて実在の人物とされている。彼らの言動は荒唐無稽で、しばしば常識から逸脱する。例えば「江州治郎右衛門」は有能な馬子であったが、侍を乗せた馬をひいていた際、つい「南無阿弥陀仏」と唱えてしまうのだった。葬式を連想させて不吉なので、武士は何度もやめるようにいうのだが、それでも念仏が口をついて出てしまう。堪忍袋の緒が切れた武士は刀を振りかざすが、まさに首が刎ねられる瀬戸際に至っても、治郎右衛門の歓喜の念仏は止むことがなかった。ついに武士はその純粋さ、迷いのなさにうたれ、自らも信仰に目覚めたという。

1992年、堀尾は職場の同僚であった周治央城とともに大型木版画シリーズ《妙好人伝》に着手、以来10年以上の歳月をかけて全150点を完成させた。サブロク判のベニヤ板に堀尾が描いた図像を周治が彫り、墨汁を塗った版木のうえにとりのこ和紙を敷いて、二人がかりの足踏みで刷る、というものである。発端は、周治が趣味で木彫りをすることを知った堀尾が共作を提案し、1991年に周治の地元である加古川風景を主題とした木版画展を開催したことだった[8]。打ち上げの宴席で両名は、こんどは桁外れに大きい版画を、しかも大量につくろうと盛り上がる。そんな折、たまたま知人からもらった土井順一の『妙好人伝の研究』のコピーが、堀尾の眼に留まった[9]。奇人変人の列伝はイメージ化、シリーズ化にまさにうってつけだったが、当時の堀尾は、同書と親鸞の他力思想や柳宗悦との関係には全く無自覚だった。

《妙好人伝》は「具象」的かつ「残る」タイプの作品であり、サイズや数量の面でもまとまったボリューム感がある。2003年に芦屋市立美術博物館のホールで、当時完成していた100点および版木による展示を行ったことがあるが、まさに宇宙が鳴動するかのような大迫力に圧倒されたのを覚えている[10]。堀尾の原画は、およそ彫りやすさを考慮したようなものではなく、いつも通りの猛烈な殴り描きである。一方の周治は、趣味で木彫りを嗜んでいたアマチュアに過ぎない。ある時彼はそれを恥じて、本格的に木彫を学ぼうとしたところ、堀尾から全力で止められたというエピソードが伝えられている。技術的な問題よりも、荒れ狂う線描を忠実に彫る「だけ」という無心の状態が、堀尾には重要だった。もしかしたら、それは「南無阿弥陀仏」と唱え続ける、祈りにも似たものだったのかもしれない。ここでは、制作工程のすべてを自分で制御するのでなく、重要な部分を他者に委ねること、いわば周治というブラックボックスを介在させることで生じる化学反応こそが、作品の核心を成している。

木版画《妙好人伝》は、堀尾の大きな特徴である「多量」と「迅速」、そして「無名性」が、極めて端的に表れた作品である。その題材が、たまたま「他力」を重視する浄土真宗の文献であったことは、偶然というにはあまりにもでき過ぎとも思える。


・スピノザと親鸞


「具体」には実に個性的な作家たちが集っていたが、なかでも堀尾に大きな影響を与えたのが村上三郎である。1972年に「具体」が解散して以降、作家活動を継続した者がいる一方、フェードアウトしてしまった例も少なくない。どちらかといえば村上は後者であり、特に'80年代以降は「具体」の回顧展に参加したり、芦屋市展に小品を出すなどのほかは、ほとんど積極的な発表を行っていない。しかしその一方で、単なるリタイヤとは簡単に切り捨てられない、一種独特な存在感を放っていた[11]。だからこそ1996年に彼が急逝したとき、それがまるで彼の最後のパフォーマンスであるかのような印象を、多くの人に残したのである。

白髪一雄や田中敦子、元永定正らが、「具体」で鍛えられるなかでそれぞれ独自の制作手法を見出し、生涯絵画を描き続けたことに対して、村上はもちろん一定の評価を与えていた。その一方で、自我の発現としての芸術表現に対して、彼はどこか懐疑的だったようにも見受けられる。さらに村上は、作品をことば=意味の体系において把握するよりも、むしろ意味や概念に汚染される以前の、生々しい存在の有り様をそのまま受け入れることを重視していた。以下は初めて嶋本昭三の作品をみた時の回想である。

「1952年、或る会場で、黄一色の大画面の前に、私は呆然と立ちつくした。小児のなぐり描に等しい激しい筆触で殆ど塗りつぶされた色の塊りだけが、其処に在る。

こんなものが絵画と言えるかどうか。然しそう思ったとき、私はその絵の前に立った瞬間のガーンと殴られたような強烈な衝撃を失い始めていた。従来の絵に対する知識で貶そうとしている。言い訳をさがしている。そんな自分に気付いた。が、こんな理屈は無用だ。その衝撃の内包するものは何なのか[12]」

こうした問題意識は、「具体」の作家たちが、子どもの絵に深い関心を抱いていたことにも関係している。発達過程にある子どもたちは、眼前の「もの」と「ことば」とを、まだうまく結びつけることができない。逆にいうと、目に飛び込んでくる色や形はすべて未知のものであり、あらゆる存在との出会いは驚きと発見に満ちているだろう。彼らはそうした子どもたちの眼差しに、ある種の理想を見出していた。

堀尾が村上から継承した最大の無形資産があるとしたら、こうした「世界と向き合う姿勢」のようなものだったのではないか。それが端的に表れているのが《四角連動》シリーズである。我々が何らかのバーチャルな空間を考えるとき、その基本的なフォーマットは原則として水平、垂直によって規定された矩形である。「絵画」がその典型だが、それは自然界には存在しえない、極めて人為的な、また人間の知覚と密接な関わりをもつ形態である。堀尾はふだん道を歩いている時にも、窓枠やドア、建築物から換気口に至るまで、日常のなかに無限に響きあう四角をスケッチしたり、時には山下克彦が撮影した写真にコラージュを施すなどする。無数の矩形から意味や機能を剥奪し、純粋造形に還元しようとする営為は《四角連動》と総称されるが、「連動」ということばが示すとおり、ここでは矩形相互の関係性が問題視されている。それは世界を分節化して切り取るための矩形を、再び世界の全体性のなかに還元しようとする試みなのかも知れない。我々の思考は、様々な言語や概念によってすでに汚染されており、もはや子どもの無垢な視線を取り戻すことはできない。それでもなお、限りなくそこに近づく方法があるとしたら、それこそが彼らにとっての「美術」だった、とはいえないだろうか。

しかし両者は、あまりにも対照的である。「芸術の徹底した形ではね、何もせんとポカーンとして、ぐうたらに酒飲んでね、寝て暮らしても、すごくええと思うよ[13]」とうそぶく村上は、どちらかというと沈思黙考へと向かう傾向が強かった。一方、吉原が「寡黙な日常と、激しい作品と、入念な準備と、一瞬の解決と、いつも、彼の作品を、間歇泉のようだと思う[14]」と述べたとおり、油断していると突如爆発的な創作があり、一瞬にして鮮やかに作品が成立してしまう、そんなスリリングな一面もあった。

それとは対照的に、「年間100回の作品発表」を豪語する堀尾は、狂気を感じさせるほどに活動的だった。それはまさに、絶えざる実験の繰り返しである。参加型のパフォーマンスの場合でも、大まかなコンセプトが示されるのみで、細かな指導などは一切ない。「もっと速う、元気よく!」と、ひたすら全力疾走が要求される。枠組みやシステムだけが与えられ、演出やコンポジションが介在する余地は徹底的に剥奪される。既存の何かをなぞることが不可能な状況下では、その時間と空間を新たに生きるしかない。結果がどうなるかは、堀尾自身にさえ予測不能である。こうした両者の違いには、関西学院大学哲学科出身の村上と、中卒で家族を支えるためにサラリーマンとして働き続けた堀尾の、いわばインテリとブルーカラーという対照的な気質が、それぞれ反映されていたのかもしれない。

村上は一貫してスピノザの哲学に深い関心を寄せていた。その根底には、「神」に対する独特な認識がある。「神」は「絶対」かつ「無限」であるから、外部を持たない。いわば「自然」のようなものであるはずで、その中にある万物は自然の法則に従い、自然法則には外部=例外は存在しない。対して我々人間は「有限」である。空間的には皮膚によって外部と区別され、時間的にも寿命という限界を抱えている。必然的に、人の姿をした「神」が超自然的な奇跡を行う、などということはあり得ない。

「神即自然」といわれるスピノザの考え方は汎神論に近く、人格神の否定という意味では無神論的な側面もあった。そこから導き出される「善悪」の概念もまた独特である。我々は絶対無限の「神」の中に含まれているのだから、全ての個体はそれぞれに完全であるはずだ。必然的に、それ自体として善いものも、悪いものも存在しない。「善悪」が発生するのは、あくまでも物事の組み合わせの結果に過ぎない。果たしてどの「組み合わせ」がうまくいくのか、個々人の差異や状況に応じて絶えず「実験」することを、スピノザは求める。それこそが、彼がいうところの「倫理」である。

さらにスピノザは、我々人間の「自由意志」を否定する。全てのことには原因があり、因果関係で結ばれているのであって、我々が自発的に何かをしたと思えるのは、単にその原因を認識できていないからに過ぎない[15]。村上が好んで引用したスピノザのことば「偶然を必然として思惟すること、それが理性の本性である」は、まさにこのことを指している。アーティストとしての村上の生涯は、《入口》(1955年)、《通過》(1956年)、《出口》(1994年)という3つの紙破り作品によって、鮮やかに完結している。そんな彼の人生もまた、あまりにも出来過ぎに思えてしまうのだが、スピノザのことばに想いを馳せる時、それはむしろ運命だったのかと、妙に納得してしまう。

実は、村上が興味を抱いていたスピノザの哲学と、堀尾と関係の深い親鸞の思想との間には興味深い共通点が見受けられる。スピノザにおける 1)人格神の否定、2)人間の価値基準による善悪の否定、3)自由意志の否定は、親鸞が唱えた 1)偶像崇拝の否定、2)悪人正機説、3)他力本願に、それぞれ極めて近いように思えるのだ[16]。知的な思索を持ち味とする村上と、行動主義・実証主義的な堀尾はまさに対極的なアーティストだったが、両者の目指すところは案外共通していたのだろうか。それは同じ山の頂を目指しながらも、各自がその体質に応じて、それぞれ別のルートを辿るようなものだったのかもしれない。ただし彼らは、既存の思想を作品化したわけではない。むしろ両名とも、直感的に行動してみて、自分が「やってしまった」ことの意味を事後的に考察する傾向が強い。トライ&エラーの過程で、それぞれがスピノザや親鸞の思想に共鳴していったというのが、より実情に近いのではないだろうか。


・結び


本書の刊行にあわせて、神戸市のBBプラザ美術館で「千Go千点物語」の展覧会が予定されている。スペース的に全点の展示は無理としても、まとまったボリュームで作品に触れることのできる、貴重な機会となるのは間違いない。この展覧会に関して、個人的に次の二点に注目している。

ひとつめは、同展が、堀尾の没後に開催される初めての美術館規模の個展だということだ。それは必然的に「堀尾亡き後の堀尾展は可能か」という課題に直面せざるを得ない。生前、堀尾が作品を発表する場合、アトリエで仕上げたものを搬入して展示するだけ、というケースは稀であった。2002年の芦屋市立美術博物館での個展が典型的な例だが、堀尾は毎日パフォーマンスを行い、その結果や痕跡が展示となり、日々劇的に変化しつづけた。仕方のないことではあるが、あまりにも作家本人のプレゼンスが強かっただけに、果たしてその不在は展覧会にどのように影響するのだろう。

もうひとつは、あたりまえのことだが、ついに《千Go千点物語》をきちんと鑑賞できる、ということだ。そういえば2000年代に堀尾と呑んでいた際、何も改めて特別なことをしなくても、美術は充分可能なのではないか、と発言したのが印象に残っている。「冗談やなくて、そう実感するんや」といいながら、彼はバー・カウンターのうえの割り箸やコップなどの位置を少しずつ移動させる。ほろ酔いでリラックスしていながらも、視線は注意深くものたちを追い続ける。その様子をみて、仮に老化で身体の自由がきかなくなったとしても、彼は何らかの美術的実践を行うに違いないと思った。果たしてそれがどんな表現となるのか、むしろ興味深く感じたほどだ。現実の幕切れは予想とは異なっていた。しかし《千Go千点物語》は、心身ともに病魔に蝕まれつつあった晩年の堀尾が、持てる限りの精力を注ぎ込んだ作品であるのは間違いない。そこには、彼が到達したひとつの境地が示されているのだろうか。それをこの眼で確かめることを、期待と不安をもって待ち望んでいる。

(やまもと・あつお/横尾忠則現代美術館 館長補佐兼学芸課長)


『堀尾貞治 千Go千点物語』一般財団法人 堀尾貞治記念会(2023)


[1] Good Art展は1979年、吉田孝光が中心となって始められたグループ展。第1回は京都市内のギャラリーサードフロアで開催され、のちに京都市美術館を会場として今日まで続けられている。パフォーマンスなどの実験的な表現も積極的にとりいれたこともあり、やがてもと「具体」のヨシダミノルや堀尾貞治、および彼らに近い作家たちが参加するようになる

[2] 「箱100個に挑戦」は2013年2月に喜多ギャラリーで開催された。2月14日の午前中に堀尾は現地で制作を行い、同日の夕方にオープニングが開催されている。ライブ・ペインティングと展覧会が一体になったような性格は、「千Go千点物語」にも共通している

[3] https://www.youtube.com/watch?v=NVALNMHqqZ0

[4] Process, Performance, Presence(2016年6月11日〜8月21日、Kunstverein Braunschweig, Germany)

A Feverish Era in Japanese Art(2016年10月14日〜2017年1月22日、Bozar. Centre for Fine Arts, Brussels, Belgium)

[5] なるべく白紙の状態で、与えられたその場の状況に臨み、即興的に制作する態度のことを、堀尾は「場に沿って」と表現した

[6] 神戸市の歓楽街、東門筋にあった東門画廊(1979〜1985)は、かつてない実験的なスペースとして次第に活況を呈していった。原則として堀尾が作家を選び、家賃実費相当の格安料金で若い作家たちに貸し出した。堀尾自身の個展のほか、画廊内に水田を持ち込んだ竹村一博(1979)、榎忠による架空の酒場「バー・ローズ・チュウ」(1979)、人糞による絵画やオブジェを展示した岩尾浩、小泉雅代、岡山直美による新素材3人展(1982)など、数々の実験的な展覧会が開催された。

[7] 柳宗悦「工芸の美」『大調和』1927年4月号 『民芸四十年』岩波文庫版(1984年11月刊)に再録

[8] 木版展 周治央城、堀尾貞治 二人展(1991年3月21〜26日、ギャラリー・サロンド・カノコ、加古川)

周治央城(彫師) 堀尾貞治(絵師) 木版展(1991年10月3〜15日、画廊喫茶ロッコー、神戸)

[9] 土井順一『妙好人伝の研究 新資料を中心として』百華苑、 1981年3月1日刊

同書は副題に「新資料を中心として」とあるとおり、新たに発見された写本や刊本の資料を通じて、その成立史に新たな光をあてようとする研究書である。それは今日一般に流布している『妙好人伝』に比べて、当然ながら遥かに少ないエピソードしか掲載されておらず、また同一人物であってもひらがな、カタカナ表記の違いをはじめ相当に異なるバージョンが収録されている。結果的に木版画《妙好人伝》は、初期作品は土井順一の著作に収録された新出資料、後は一般に流布された定本に準じるという、一貫性を欠いた構成になっている

[10] 木版画展 妙好人伝 堀尾貞治(絵師)×周治央城(彫師)(2003年9月6日〜11月24日、芦屋市立美術博物館)

[11] 晩年の村上三郎の言動については下記を参照されたい

坂出達典『ビターズ2滴半 村上三郎はかく語りき』せせらぎ出版、2012年7月20日刊

[12] 村上三郎「『具体』は『具体』である」 白川昌生編『日本のダダ』書肆風の薔薇、1988年所収

[13] 「具体と具体後 その2 村上三郎インタビュー」『Jam & Butter(モリス・フォーム機関誌)』⑰、1973年)

[14] 吉原治良「村上三郎の場合」村上三郎個展(1963年4月1〜10日、グタイピナコテカ)パンフレット、1963年

[15] 村上三郎とスピノザとの関係については下記を参照されたい

山本淳夫「存在には理由はない 村上三郎の芸術について」『兵庫県立美術館研究紀要 No.17』2023年3月23日刊

國分功一郎『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』講談社現代新書、2020年11月18日刊

[16] 既存の教団組織から異端視され、追放された点も両者に共通している

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