オキナワンロックドリフターvol.63

沖縄旅行の最後の夜。
素浪人氏に複雑な感情を抱えながらオーシャンを去り、7th Heaven Kozaに寄るとジェイソンがカウンターにいたので会釈した。
「おまえ、又きたのかー」と、言いながらもジェイソンは歓待してくれたのでカルアミルクを所望した。千円払い、お釣りはジェイソンにチップとして渡した。
「ありがとねー」とジェイソンはウィンクをした。
最近の7th Heavenについて尋ねたところ、8-ballはavexからメジャーデビューし、大忙しだという。
何よりだなと思いつつも、音楽活動が進むにつれ、一部メンバーのみ引き抜きとかあるかもしれないなとうっすら思いながらカルアミルクを飲み干した。
「ジェイソン、またね」
「またなー」
手を振るジェイソンは、かき氷のシロップ色ではなくレモンシャーベット色の髪をしていた。
それが、現段階ではジェイソンと最後に会った夜になった。翌年、すぐにジェイソンは7th Heavenを退職したので疎遠になってしまった。SNSでジェイソンを見つけ、連絡がつくまでの13年の間、私はジェイソンの消息がわからなかった。

閑話休題。ジェイソンのカルアミルクのお陰で心が軽くなったものの、まだ素浪人氏の発言の余韻が残っているのとまたしばらくこれない寂しさから宿に戻って眠るのが惜しくて街を歩いた。
まず、ゴヤ十字路からまず嘉間良まで歩いた。
アルゼンチン料理店マリアのあった場所を凝視した。
店はがらんどうで店前でロティサリーチキンを焼いていた場所の面影はなかった。
いつか行こうと思っていたのに。アルゼンチーナのマーマー、マリアさんのパスタやパイは食べられないのか。
あのマリアさんとかわいい息子さんは今どうしているのか。北風の寒さが寂しさを呼び起こし、きゅっと唇をかみ締めた。
そして風の噂に中乃湯もなくなることを聞いた(※現在も営業しております)。
古びた趣のある風呂やーを切り盛りしているシゲさんはこれからどうするのだろうと思いながらため息をついた。
引き返して再びゴヤ十字路に向かった。
コザ・ボウルからかすかにボウリングに興じる人たちの嬌声が聞こえた。
少しほほえましい気持ちになった。
中の町の歩道橋沿いはは再開発のためにがらんどう。
バラック小屋のような一杯飲み屋ジャンクボックスも閉鎖され、俊雄さんとの対面の場だったモスバーガーも移転のために今はない。
あと二年したら再開発が終わるという。
どうなるのだろう?
そんな思いは観光客のノスタルジーとエゴとはわかっていても渦巻いていく。
ゲート通りに変わってしまった。
南京食堂も19th ホールも今はない。
だが変わらず店を続けているところもある。
その変わらなさにこれまた観光客のエゴとノスタルジーとわかってはいても安堵する私がいる。
歩道橋を渡り、園田へ向かった。
かつてディスコが乱立した街は面影もなくすっかり静まっていた。
80年代に栄華を誇ったピラミッドは機能を停止したように薄暗く、店の前のスフィンクスがさびしそうに聳え立っていた。
書店『紀ノ屋』跡地にはステーキハウス四季が移転して従業員が店の後片付けをしていた。
メキシカンハウスリマは改装準備にいそしんでいた。
安堵したのもつかの間、諸見里沿いにあるクラブユニティーもしんと静まり返っていた。
店に描かれたサイケな絵も心なしか色あせていた。
モスコーミュールがうまかったクラブ「アルカトラズ」は閉店して、なんとその場所は「ザ・ベストテン」なるカラオケバーに変わっていた。
これには呆気にとられてしまった。
そして園田の山根ビルをうろついた。
アイランドがあったそのビルではエレベーター前にてあどけない顔に化粧を施した少女が携帯をいじっていた。
どうやら風貌を見た感じ、飲み屋に勤めているようだ。
ふてくされ顔で携帯をいじっている少女の前を通り過ぎて南へ向かった。
コザパトロールの終点は島袋三叉路。
それまでの道のりで新しい発見をした。こんな場所にも萌え産業が。園田から久保田までの道のりの際にフィギュアショップを見つけた。
店先に陳列されたアスカ・ラングレーやプリキュアのフィギュアに時の流れを見て苦笑した。
寂れた街並みに不釣合いなしゃれたバーもあった。
どこかトム・クルーズのカクテルに出てきそうなその店は今度来沖するときの楽しみにとっておくことにした。
小さな楽しみが一つ増えたことにほくそ笑んだ。
歩き、歩き、真夜中の静まったゴヤ十字路から島袋三叉路までの道のりを歩く際にふいに心の中に歌が流れた。
沖縄のロックでも民謡でもなく、心の中に流れたのははっぴいえんどの「花いちもんめ」と「風をあつめて」だった。
この歌が収録された「風街ろまん」は生粋の東京人である彼らが閑静だった港区の高度成長期による変貌とノスタルジーを「風街」という架空の街に託し、はっぴいえんどならではのやんわりとしたメロディと松本隆氏の美麗な日本語で織り成されたアルバムだ。
なぜかこの曲たちが心をよぎり、気がつけば鈴木茂氏、細野晴臣氏のボーカルにあわせて口ずさんでいた。
振り返ると、再開発のためとはいええぐれたようになっている330号線沿いの中の町がとても痛々しく見えた。

終点は島袋三叉路。
写真家砂守勝巳氏のルポルタージュ『オキナワンシャウト』の第一章の冒頭で俊雄さんがフィリピン人の父親フローレンス・モンテメイヤー氏とここで別離した。そしてその別離は永の別れになったことが描かれていた。1958年のことである。この島袋三叉路で幾組もの親子が別離をし、幼いハーフの少年少女たちは父親の帰りを待ったのだろうか。遠くから既にネオンが消えたプラザハウスを眺めながらふと思いを馳せた。
歩き疲れてはしたなくもぺたんと歩道に座り込み、薄暗い三叉路をただじっと眺め、時に見捨てられたように放置された古びた建物を見ていた。長い間ずっと。
そしてしばらくそうして街並みと去り行く車のテールランプを眺めていた。
時は午前2時を回っていた。
立ち上がり再び中の町まで歩こうと引き返した瞬間、幻を見た気がした。
私が触れたことすらないAサイン時代のコザの、きらびやかかつ儚い街並みを。
瞬時だけその眩い幻を見た。

(オキナワンロックドリフターvol.64へ続く……)

(文責・コサイミキ)

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