オキナワンロックドリフターvol.85

城間兄弟と連絡が取れたのは9月だった。
まず連絡が取れたのは俊雄さん。
開口一番、俊雄さんに「心配しましたよ」とつい涙声で言ってしまった。
その頃から、白昼夢のように私の中で、俊雄さんに触れてもすり抜けていくビジョンや、俊雄さんが遠くへ行くビジョンが浮かび、不安に苛まれた。
俊雄さんはぽつんと呟かれた。
「ごめん。もう大丈夫よ、俺はどこにも行かないから」
けれど、不安はインクの染みのように広がっていった。
私はただ、俊雄さんの言葉を信じるしかなかったものの、俊雄さんが『いなくなる』ビジョンはだんだんはっきりと脳内に浮かんでいった。

正男さんと連絡が取れたのはその翌週だった。
正男さんはすまなそうな声で入院までの経緯を話してくださった。
なんだか体がだるいなと掛かり付けの病院を受診したのが不幸中の幸いだったという。即座に大きな病院に転院となり、1ヶ月入院したと正男さんは話された。
「今は処方された薬を飲んで、ウォーキング始めて、ちゃんとバランス良く食べてるから大丈夫よ」
正男さんは苦笑いしてぽつんと呟かれた。
もし、目の前にいたら私は正男さんを強くハグしていただろう。
良かった。正男さんにはどんな形であれ唄って欲しい。他の人がなんと言おうと生きていて欲しい。私はほっとして泣いた。
「事件からずっと引きこもって運動不足だったからよ。これを機会にウォーキング始めたみたいよ。正男」
雑談から正男さんの病状について話が逸れた時、下地さんは電話口でそう話された。
そして、俊雄さんのことを心配すると、下地さんはこう返された。
「ミキは、俊雄が好きなんだね」
私は偽らずに「はい」と答えた。
すると、下地さんはややざらついた声でこう返された。
「あいつはモテるからね。絶対に俊雄に振り回されないようにね」と。
翌年、下地さんの言うことが身にしみる災いが私に降りかかるのだが、それはまた別の話である。
私は下地さんに感謝しつつもやはり俊雄さんの様子が頭から離れなかった。
そうこうしているうちに大学受験の願書受付期間である10月になった。
労働環境はどんどん悪化し、職場の先輩方は腫れ物に触るように私を扱い、同僚たちは主任のとばっちりがこないように私にちくちく嫌味を言い、せせら笑い、主任のミニチュアと化していった。
さらに、以前私が濡れ衣を着せられそうになった時に証言してくださった先輩、涛川さんが部署を異動になり、新しい部署でいじめにあい、退職された。
涛川さんは私が大学受験するのを知っていた。
涛川さんは去り際にこうおっしゃった。
「大学受かったら、こんな所早よ逃げなっせ」と。
私は大きく頷き、去っていく涛川さんを見送った。

困窮とパワハラと受験勉強でふらふらになりながら、私は高校に向かい、卒業証書を受け取り、証書と一緒に願書を郵送し、目減りしていく貯金から受験料を支払った。

願書は受理され、受験票が郵送された。
幸いなことに、積み立て保険が満期になり、その還付金で入学金を振り込める目処もついた。
保険会社の方が我が家にこられ、保険の満期を告げられた時は救われた気分になった。
振込みは合格発表日の翌日で受かってもこれで入学金の心配はすることはなかった。
祖母が担当の方に私の人間関係のトラブルを嘆かれた。
「この子は本当に。ああいう職場ではプライド捨ててバカにならんとでけんのに」
そう嘆く祖母に「余計なことを」と思っていたら、担当の方がぽつんと呟かれた。
「お祖母さん、その職場の人たちと知的レベルが違うからミキさんは苦しいんだと思いますよ。でもね、ミキさん。貴女は必ず受かる。受かったら広い世界が待っているから。そこはミキさんがちゃんと息ができる場所だと思うよ」
社交辞令かもしれないが、担当の方の言葉に救われたのは言うまでもない。
私は担当の方に深々お辞儀をした。
海は広い。そこにはわかりあえる誰かがいるかもしれない。
寄るべのない状況に追い込まれるたびに浮かぶ、神戸行きのフェリーで見た海を思い出しながら、私は何度も心で呟いた。
11月、受験日になった。
受験科目は現国と英語の2教科、小論文、そして面接だ。
私はスーツに袖を通し、受験票を握りしめ、筆記用具等忘れ物がないか確認し、仕上げにメノウさんから戴いた曽我町子さんの形見の品である香水、『女王パンドラ』を軽くふりかけて大学へ向かった。
海は広い、海は広い。だから大丈夫、きっと生きていけると言い聞かせながら。

(オキナワンロックドリフターvol.86へ続く……)

(文責・コサイミキ)

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