オキナワンロックドリフターvol.49

清正さんからの了承を得たことで、はてなダイアリーにてココナッツムーン公認ブログ『ココナッツムーン通信』を配信することになった。
話は少し遡るが、ココナッツムーンブログ開設を提案した数日後、清正さんから電話があり、新しいスタッフを紹介された。そのスタッフ、ミカちゃんとマヤちゃんは世界青年の船で知り合い、仲良くなり、2人で色々旅し、沖縄に移住したのだという。
「ミカ、マヤ。コサイさんに挨拶して」
清正さんが電話を彼女たちに代わるとものすごくテンションの高い声が聞こえた。
「ミカでーす!!まいきーさんはじめましてー!」
……うわあ。ギャル系の子か。高校時代にギャル系の子らに嫌な思いをしたせいか、つい警戒心を抱きながら私はミカちゃんと話をした。
話していると、語彙力が足りないなあと思うところはあったものの、沖縄が好き、ココナッツムーンが好き、そして清正さんが好きという意見が一致したのでミカちゃんにはココナッツ周辺に起きた身近な出来事やお勧めメニューを送って欲しいとお願いした。
だがしかし。私の説明が足りなかったせいなのか。真夜中に我が家の電話が鳴り、ファックスでメニューが送られてきたのにはさすがに困った。
事情を知らない祖父母が何事か?とうろたえ、さらに祖父母から大目玉を食らうはめになったのは非常に困った。
ミカちゃんには夜遅いし、うちには祖父母がいるからと事情を話し、メールでメニューの写真を送ってもらうことにした。
「マヤです。よろしくお願いいたします」
マヤちゃんは後でミカちゃんに写メールをもらったが、TLCのチリを少しふっくらさせたようなエキゾチックなルックスの女の子だった。
礼儀正しい彼女はミカちゃんのお姉さんのような存在で、東京に在住していた頃にバーテンダーの経験があるとのこと。彼女にはお勧めカクテルの写メールを2週間に1度送信してもらうようお願いした。
「はーい!よろしくでーす」
「わっかりましたー」
電話口で、二人ともよいこのお返事さながらに元気良く快諾していて、横で清正さんの笑いをこらえる声が聞こえた。
私は私で、カクテルの説明文の資料として古本屋から格安でカクテルの辞典を見つけたり、恩納村の観光サイトや沖縄旅行サイトを巡回しココナッツムーン周辺のお勧めスポットを探したりした。
おかげで恩納村の面白いお店やスキューバダイビングの穴場、今はフルーツ栽培はやめられて民宿営業のみになってしまったそうだが、朝にとれたてフルーツが食べられる民宿があることを知ることができたし、カクテルの知識が増えたことで、後に行きつけの店になるカクテルバーで珍しいカクテルをスムーズにオーダーすることができたり、カクテルの歴史を知ることができた。
ココナッツムーン通信の第1回目はちょうど、コザで『アルズプレイス』というライブハウスを営まれていたアルさんがココナッツムーン近くにハーレータビッドソンの関連商品のお店を始められたということで、そこのお店の紹介と、第1回ということでココナッツムーンについての概要と清正さんの紹介を配信した。
かくして、サイトと並行してココナッツムーン通信は配信され、当時の私のサイトはさながら一人ミニコミ誌製作みたいな状態だった。
コウさん、ワイアードさん、アルタイルさん、フランさん達が書き込みにきていた以前に比べて常連客はガタッと減り、しばらく寂しかったものの、何かに楽しく打ち込んでいると自ずといい人が訪ねてくるようだ。
2005年からかれこれ14年の付き合いになり、後に姐さんと呼ぶくじゃくさんという方が、初めて書き込みにきてくださったのもこの頃だった。
「はじめましてー」
ジョージさんのアイコンを使って、そう掲示板に書き込みにきてくださったくじゃくさん。
年が近い女性、しかもディープめのオリジナル紫の話ができる人ははぐれメタルレベルのレアな存在だ。
掲示板で、オリジナル紫の話をくじゃくさんとしていたらかなり長いスレッドができた。そんな日々が戻ったことがとても嬉しくなった。そして、くじゃくさんが来てから私のサイトが少しずつ活気づいてきた。
残った常連さんたちも沖縄ロックやコザやそれぞれの好きな音楽について書き込みしてくださり、初書き込みしてくださった、名古屋で劇団をされているコザリピーターの方とコザの話で盛り上がったりと、亀の歩みであるものの、私が作った小さな庭に花がまた咲き始めた。
そして、セードルさんともメールのやり取りを続けていた。
しかし、2005年上半期は良いことだけではなかった。
2月はじめのことだった。2月にしては日差しが暖かい日の出来事だった。
ふと、休みの日にJETのCDを聴きながら、ジミーさんのことを考えていた。ジミーさんは入院先でどうしているんだろうか。そんなことを考えていたせいなのか、疲れて転た寝していたらジミーさんの夢を見た。
ジミーさんが午後の日差しを浴びながら一番街に佇んでいるそんな夢を見た。
音もなく、しんと静まり返り、人気のない一番街に設置されたテーブルに一人ぽつんといるジミーさんは穏やかな表情で遠くを見ていた。まるでここではない世界の狭間でこの世界を見るような瞳で。
その翌日だった。
仕事が早く終わり、西日の当たる更衣室のロッカーで荷物を取り出し、携帯をチェックすると、メールが1件入っていた。チビさんのマネージャーさんからだった。

コサイさんへ
お元気ですか?コサイさんに残念なお知らせがあります。
ジミーさんが昨日、2月5日に亡くなられました。眠るように亡くなられたそうです。
コサイさんはジミーさんのファンでしたから報告しておこうと思い、メールしました。



あの夢は、虫の知らせだったのだろうか。それとも、ジミーさんからのさよならを意味していたのだろうか。 私は長い間呆然とし、会社の先輩が声をかけるまで携帯を握りしめながら立ち尽くしていた。 頭の中で、僅か1年とはいえ、忘れられないジミーさんの想い出が走馬灯のように回っていた。 JETの黒い扉越しに聴こえたギターの音色、人懐っこい笑顔でシャワーの誘いをするジミーさん、ステージの上での老練の職人のような瞳でギターを弾くジミーさん、オキナワンロックナイトで“I shot the Sheriff”を弾くジミーさん、綺麗な筆記体のサイン、ジミーさんのオリジナル曲“Cool Cats”の艶かしさと70年代へと誘ってくれるようなノスタルジー、ゲート通りで偶然会った時のコート姿のジミーさん、沖縄移住したいなとうっすら語ったら、「帰ったほうがいいよ」とぴしゃりとたしなめたジミーさんのひんやりした声と厳しい瞳、その後の柔らかいながらも寂しげな「帰るところがあるのはいいことだよ、だから帰りなさい」と諭した時の声と笑顔、銀狐の尻尾のような結わえられた髪、最後に会った時の弱々しい笑顔、小さくなった手と身体。 それらが頭の中で延々とループしていた。

(オキナワンロックドリフターvol.50へ続く……)

文責・コサイミキ

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