羽賀研二に捧げるラメント
羽賀研二が逮捕された。これで三度目。
正直な話、またかよ!としか言いようがないが、同時にオキナワンロックやコザの街について調べるライフワークの性が賜物か、彼についてふと思いを馳せたくなった。
羽賀研二というと思い出すのは、梅宮アンナとの6年間の交際の末の破局、アンナの父である梅宮辰夫の反対を緩和させるためか誠意大将軍アピール、『ストリートファイターⅡ』のケン役やディズニーアニメ『アラジン』でのアラジン役で発揮された違和感なきアフレコ、初代いいとも青年隊、沖縄リピーターとしては00年代〜06年くらいまで北谷はアメリカンヴィレッジにて経営していたビュッフェタイプレストラン『南国食堂』である。
まず、いいとも青年隊だが、幼少期、笑っていいとものオープニングで踊る彼らをブラウン管越しで観た際、久保田篤、野々村真に比べ、伊達メガネをしても飛び抜けてルックスがいいにも関わらず、羽賀研二を見た印象は「なんかこの人やだ」だった。
幼少期の私の審美眼凄えと我ながら思う。ちなみに、当時の私は「世界ふしぎ発見」にておバカタレントの先駆扱いだった野々村真のほうが親しみやすくて好きだった。
それからちょくちょくテレビやVシネマ等で顔を見かけるもののなんとも思わなかった。
一気にテレビ露出が増えたのは1993年の梅宮辰夫の娘でモデルの梅宮アンナとの交際発覚からだろうか。烈火の如く怒り、愛娘との結婚に反対する梅宮辰夫の顔が連日報道され、げんなりしたのを思い出す。(ていうか、70年代の東映映画や50年代〜80年代の銀座のクラブの歴史にはまり、調べて見ると辰ちゃんこと梅宮氏もあんただって人のこと言えないよとツッコミ枚挙暇なしな経歴だらけで……。良き家庭人になったのはクラウディア夫人との大恋愛の副産物か?)
それに対して立て板に水とばかりに美辞麗句をまくし立てて許しを請う羽賀研二にますますげんなりした。(余談だが、大槻ケンヂの『のほほん日記』にて騒動当時にテレビ局にてすれ違った羽賀研二に挨拶されたオーケンがその人当たりの良さに絆され、紙面にて「梅宮パパ何卒!」とコメントしたのを読んだ時には、オーケン見る目無さすぎ!と頭を抱えた)
その後、『ストリートファイターⅡ』のケン役(現在は声優の岩永哲哉氏、もしくはミュージカル俳優の岸祐二氏が担当)やディズニーアニメ『アラジン』でのアラジン役(2007年の羽賀の逮捕以降は声優の三木眞一郎氏が担当)等声優に挑戦し、「やめてよねー!タレントの吹き替えは声優さんに対する冒涜なんですがー!」とざらついた気持ちになったものの、親戚宅にてまだ幼かった従姉妹のお守りでアラジンのビデオを一緒に見るはめになり、全く違和感のない吹き替えに内心舌打ちしながらも感心した。
しかし、羽賀研二に対して我ながら一体なんなのかという拒否反応を起こす出来事があった。それは1996年の8月、小室ファミリーがまだチャートを賑わせていた頃で、後のKABAちゃんがダンサーとして参加していたユニット、dosの“More kiss“がオリコンチャート上位にランクイン。当時日本テレビがオンエアしていた最新ヒットチャートを実力派歌手や話題のタレントに歌わせる番組『THE夜もヒッパレ』で“More kiss“を羽賀研二、川崎麻世、三浦理恵子がカバーし、披露するくだりである。
曲の間奏のあたりで、羽賀研二が三浦理恵子に跪き、足にキスする素振りを見せたのだ。
その瞬間、急に怖気が走り、食中毒でも起こしたかのような吐き気に苛まれ、トイレに駆け込み嘔吐したのを今でもはっきりと覚えている。
今考えたら、女衒仕種に嫌悪感を覚えたのかもしれない。
それ以来羽賀研二は私の中でとにかく苦手な芸能人になった。
それから数年後、オキナワンロックを通し、沖縄リピーターになり、沖縄の飲食店情報がちょくちょく入るようになった。ガイドブックを集めるようになり、北谷のおすすめスポットとしてちらほら目にするのが00年代初頭から06年くらいまで羽賀研二が経営していた『南国食堂』だった。
1996年の『THE夜もヒッパレ』を見て以来鬼門になりつつある羽賀研二。エンカウントしたら拒否反応からパニック発作でも起こしかねない!しかし、そんな私の心境を知らない、当時私に親切にしてくれた沖縄リピーターたちは03年末くらいはしきりに『南国食堂』を勧めた。
「値段の割にはバイキングの種類あるし、パスタおいしいよー」、「この前アメヴィレ行ったら羽賀さんが客引きしてたよ。頑張っているよね」等評価は良かった。でも羽賀研二にエンカウントしたくなくてやんわり話を逸らした。
雲行きが怪しくなったのは04年くらいか?
だんだん沖縄に馴染みの店ができた04年春くらいからリピーターや地元の人たちの評価が変わってきた。
「種類減ったし、あんまり美味しくない。それならたいよう市場(00年代に店舗を増やしていたビュッフェタイプレストラン。現在は中部徳洲会病院内にてカフェがあるのみ)やだいこんの花(ヘルシー志向のビュッフェレストラン、現在は閉業)行ったほうがいい」だの、「デザートに大学芋が出てきたのは笑ったww しかもきちんと解凍できてないのかすごく固かったの!あれじゃあすぐ潰れる」だの掌返したように評価が下がっていった。
そして、それから3年の月日が流れ、羽賀研二が恐喝容疑で逮捕される報道が流れると『南国食堂』(当時既に閉業)が沖縄中部でライブをする沖縄ミュージシャンたちのMCのネタにされた。
羽賀研二が苦手なのは変わらないが、死体蹴りのようなMCを聞きながら、やるせない気持ちになったのは覚えている。
それから羽賀研二は塀の中の人となり、話題にすらならなくなった。受刑者となったからか、あの人は今!等懐かしの人を捜索する番組内で元いいとも青年隊の久保田篤を野々村真が捜索するコーナーでいいとも青年隊が端的に紹介されていたが、レコードのジャケット写真は羽賀の箇所はボカシ処理されていて、アンタッチャブルな存在扱いされていたのを記憶している。
そして2021年に羽賀研二が出所すると、知人のウチナーンチュたちや島ナイチャーたちの間で羽賀研二の目撃情報が散見されるようになった。
羽賀研二、芸能界に未だ未練があるのかYouTubeの人気ユーチューバーたちとのインタビューに応じたり、自身のチャンネルを開設したりし、YouTubeアプリを立ち上げるとおすすめ動画にちらほら羽賀関連の動画が出てきて勘弁してくれと思った。
ただ、例外として自主的に観たくなったのは『街録チャンネル〜〜あなたの人生教えてください』(https://youtu.be/S8ZnmDT_ABY?si=ZvbE6hMcaphKS4z6)というチャンネルでの羽賀研二ロングインタビューだった。
梅宮アンナとの艶聞で話題の人となった90年代、何かの番組で自身の生い立ちを端的に語っていたのを見た。彼もまた基地の街の落とし子だよなとオキナワンロックやコザの街を20年近く調べた故の好奇心から動画を観ることにした。
インタビュー動画を観た感想は口の巧さもさることながら、痛いとこを突かれた途端に話を逸らして煙に巻く様がペテン師のテンプレートだなと思い、1996年程ではないにしろ吐き気がこみ上げた。柴門ふみはエッセイ集『愛についての個人的意見』にて詐欺師は自身が不利になっても持論を主張する。さながら金魚鉢を割った子どもがこじつけのような言い訳をひたすら主張するかのようにと語っていたが、羽賀が事件について問われた際の言い訳がましさがまさにそれだよなと痛むこめかみを押さえながら思った。
しかし、たった2つだけ真実味がある話があった。
ひとつはコザにて受けた幼少期から十代における迫害である。同級生たち、数年上の少年たちからこう揶揄され、羽賀研二、いや、當眞美喜男少年はいじめを受けたそうだ。
「アメリカーのテケテケテケ!」
ベトナム戦争時アメリカ兵がマシンガンを撃つさまに準えて暴言を吐かれ、袋叩きにされたという。沖縄でハーフとして生まれた故の仕打ちを語る際の羽賀は普段の標準語ではなく、中部訛りのウチナーグチだった。そして、羽賀の瞳から黒い光がちらついていた。
私は03年から、サイトでのエッセイ掲載や大学のレポート作成の為にこれまで複数の混血のミュージシャンたちにインタビューを敢行した。多かれ少なかれ、過去を語る彼らには瞳の奥に黒い光が過っていた。羽賀もしかり。全体的に欺瞞や弁明だらけの羽賀のインタビューの中でこれだけはずしりとした真実味と当事者故の癒えない生傷が見えた。
もう一つはバスケットボールの才能を開花させ、福岡大学に進学が決まった矢先に、コザを歩いていたら、東京からきた芸能事務所スカウトマンにスカウトされ、一番街の喫茶店にてクリームソーダをご馳走になったエピソードである。
スカウトマンと向かい合い、クリームソーダを飲んだことを眩しそうに語る姿は癪だけれど當眞美喜男少年にとってクリームソーダが貧しさ故に飲めなかった憧れの味だったことがひしひし伝わり、ついこちらもクリームソーダが飲みたくなってしまった程だった。悔しいが。
いやいや、あんた高校時代カツアゲしまくっていたとコザンチュたちからさんざ悪評聞いたぞ!カツアゲした金でクリームソーダ飲んだことあるんじゃないのか!
というツッコミが脳裏に渦巻いたものの、憧憬と懐かしさに目を細めながら、その時のクリームソーダの旨さを語る羽賀の表情が目に焼き付いて離れなかった。
この2つだけが、欺くことが息をするように当たり前の男のインタビューの中で重みが伝わるものだった。
そして、9月の終わりに羽賀研二の3度目の逮捕の報道をネットニュースで知り、無性に飲みたくなったのはクリームソーダだった。
羽賀研二は未だに苦手だし、もし沖縄で出会いそうになったらなんとかして避けたい。
しかしながら、通勤の合間にアミュプラザ熊本内のカフェでクリームソーダを頼み、鮮やかな緑色のソーダをぼんやり眺めながら思ったのは、羽賀研二、いや、當眞美喜男にとって、一番街で初めて飲んだというクリームソーダは、貧しさから脱却するチャンスと希望の味だったのだろうか、どす黒い野心と欲望の足がかりの味だったのだろうか。
少しそれが気になりながらクリームソーダを勢いよく啜った。
(文責・コサイミキ)