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好きとか幸せの価値観は人それぞれっていう当たり前な話。
僕は好きな人の好きなものは知り、知った上でそのものを好きでありたいと思うし、自分の好きなものを知ってもらって一緒に良さを共有できたらなとも思う。
そう思っていた。
実際自分のツイッターアカウントで
好きな人に自分の好きな曲を知ってほしいというのは最上級の愛情表現である
なんて大袈裟なツイートをしたことすらある。
さらに言えば弱小アカウントの中ではいいねが多くついたツイートだったので、
みんなも同じようなことを考えているんだ、僕の考えは的を得たことを言っているんだと思った。
みんな僕と同じように、好きな人とは同じものを好きでいたいのだと思った。
今までの自分の人生を思い返してみると、僕は自分の好きな音楽を聞かれてもいないのに人に紹介しては感想を求め、自分の「好き」が理解されれば(気を使われていたかもしれないが)満面の笑みでいいよね!!なんてほざき、
されなかったら不貞腐れたりしていた。
この事実とは裏腹に、僕の友達の中でも彼らの好きなものを自分は聞いてもいないのに紹介(といえば聞こえはいいが、半ば強制的に提示)されてきたように思う。
そして僕はそれらのほとんどを無視していた。
自分で聞きたいものや見たいものなんて自分で決めるんだから、
黙っておけよ、と今でも思うことはある。
自分がいいと思ったものでも他の誰かからしたら
全くいいものには見えないことがある。ごく普通に。当たり前に。
それでも僕は人に何かを勧めることをやめてこなかったのも事実である。
自分という人間はこういうものを好んでこういう気持ちになりますよ、と端的に伝えられるし、その人がその作品に対してどういう気持ちを抱くのかが分かれば、
その人の人間としてのなりを少しでも理解できると思っているからなのだろうか。
自分でも自分のことは分かりきれていません。
これに通づるものとして、恋愛もあげることができると思う。
ほんの数時間前に見た『カルテット』というドラマの中にとてもいいセリフがあったので紹介させてほしい。
こんなに面白くないもの
面白いっていうなんて面白い人だなって
何回面白いっていうんだよというツッコミは置いておき、
このセリフめちゃめちゃ面白いなと思った。
僕は付き合うなら同じ趣味を持った人がいいなと思っていたし、同じ音楽を聴いて、同じライブに一緒に行けたらななんてことも思っていた。
しかしこのセリフは、自分の理解できないものを面白いと思える人の感受性に魅力を感じると言っている。
つい最近同じようなことを言っている人と会話する機会があった。
恋愛はお互いの価値観の相違を楽しむものであって、お互いの価値観の相違に苛立ちつつもお互いが関係を続かせるために我慢するのは馬鹿らしくないか。と
あまりにも正論パンチすぎて気持ちよかったです。
まあもちろん付き合う上でも人によって幸せの感じ方なんて違うので
我慢して付き合っていくのが悪と言いたいわけではない。
それを好き好んでやっている人もいるのかもしれないし、
本当に価値観が一致して苛立ちもなければ我慢なんてもってのほか、みたいなカップルもいるのかもしれない。いないかもしれない。
そもそも誰だってその人にしか経験できない人生を送っていっているわけで、
つまりその人の人生で経験してきた範疇でしか物事を判別できないんだから
どういう暮らし方、どういう生き方が幸せで、
どの作品は駄作でどの作品は良いなんて意見を人と共有するほど
無価値なものはないと思う。
それでも相手が何を感じて生きているかを理解しようとする心持ち(不断の努力というと良いすぎなのかもしれないが)こそが自分と相手を繋ぐ架け橋となるのだと。同じ気持ちになることは不可能であるという大前提を抱えて生きていきながら。
つまり何が言いたいかというと、自分が生きたいように生きることが良いし、
それは何者にも否定される筋合いはないということです。
どんな意見に対しても多様性と言って思考放棄をしているような考え方に似ていると思われるかもしれませんが、あれは相手の表面だけを見て理解しようとすらしないのに対し、この場合は相手を理解しようとした上で理解できるはずがないという前提のもとに成り立っているので、そこには大きな差異があります。
わかっていても他人に何かをおすすめしてしまうように、
わかっていても他人の人生や相手の趣味思考についつい口を挟みたくなってしまうことはありますが、少しでも相手の人生を受け入れていくことができるようになれば少しは生きやすくなるのかと思います。
無関心に受け流すのではなく、興味を持って頷いて聴いてあげるような、
それこそ相手との価値観の違いを楽しめるようになるくらいまで。