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『地球星人』

この小説には油断をした。
虚を突かれてしまいました。


『地球星人』を読んでみようと思ったのは、嫁が見てたTVに作者の村田沙耶香さんが出ていたから。新しく著書が出版されたということで、どこぞの女子アナのインタビューを受けているという感じの、要するに宣伝。

村田さんはサブカル女子(?)な服装で、にこにこ笑顔で話をしていた。「ポハピピンポボピア星人」というポップな語感がその笑顔とシンクロして、今度の新作は(『コンビニ人間』とは違って)希望が見える作品になっているに違いない、村田沙耶香さんがどのような「希望」を描くのか、すぐさまスマホをポチって購入。幸い、ぼくのアマゾンのアカウントにはまだアマギフのポイントが残っていた。


序盤は感触がいい。お盆休みに田舎のじいちゃん・ばあちゃんちに帰省してきた主人公の少女(奈月)が眺める、いかにも子どもらしい世界。いとこの由宇との親密さは少し度を超しているようだれど、それとても子どもにありがちな熱病のようなものに思えて微笑ましい...と、読み進めていた。

ところが、帰省から帰宅してからの描写は、度を超していたのがありがちな熱病ではなくて、切迫した逃避であったことを浮き彫りにしていく。


 私は、人間を作る工場の中で暮らしている。
 私が住む街には、ぎっしりと人間の巣が並んでいる。
 それは、もしかしたら、よしおじさんが話してくれた、蚕の部屋に似ているのかもしれない。
 ずらりと整列した四角い巣の中に、つがいになった人間のオスとメスと、その子供がいる。つがいの巣の中で子供を育てている。私はその巣の中の一つに住んでいる。
 出荷された人間は、オスもメスも、まずは餌を自分の巣に持って帰れるように訓練される。世界の道具になって、他の人間から貨幣をもらい、エサを買う。
 やがて、その若い人間たちもつがいになり、巣に籠もって子作りをする。
 五年生になったばかりのころ、性教育を受けて、私はやっぱりそうだったのかあ、と思った。
「・・・・・・由宇は、自分の命が自分のものじゃないと思ったことある?」
由宇は一瞬言葉に詰まり、小さな声で言った。
「子供の命は自分のものじゃないよ。大人が握っている。お母さんに捨てられてたらご飯が食べられないし、大人の手を借りないとどこにも行けない。子供はみんなそうだよ」
由宇は花壇の花に手を伸ばした。
「だから大人になるまで、がんばって、僕たちは生き延びるんだ」

(・・・)

「誰か・・・・・・助けてくれる人はいないの?」
「子供じゃかなわない。力が強い人。大人は自分が生きるので精いっぱいだから、子供なんか助けてくれないよ。由宇だってわかるでしょ」

ぼくは作者の笑顔に欺されました。
でも、よくよく見たらオビには「『コンビニ人間』をはるかに超える衝撃作!」とあるではないか...。

この小説は、『コンビニ人間』の続編。
『コンビニ人間』が子どもを産んで育てたら、どんなふうになるか?


実は、ぼくはまだ本作を最後まで読み通すことができていません。

筆致は淡々としているけれど、描き出される情景がエグい。休み休み、気を取り直しながらでないと、読み進めることができない。

「手に取るなら、心の準備をしてからどうぞ」と申し上げたい。



これも一種のシンクロニシティなのかもしれません。

山田洋次監督の『故郷』が描いた「時代の流れ」を下ってきた、現代の様相がこの『地球星人』。

「自分を守るためには他者を犠牲にしてもいいという選択肢が推奨される(大きな時代の)流れ」に乗って自然破壊に加担して故郷を喪失した人間が、次は、自身が〈人間であること〉を差し出しつつ経済成長という名の【未来】へと奉仕をする

「コンビニ人間」は、そうした奉仕者の一形態。

「コンビニ人間」によって生産された子どもの〔世界〕は、初期設定がすでに【人間工場】になってしまっている...。


【人間工場】のなかで、なにがあってもいきのびる。
それが『地球星人』のメインテーマであるらしい...が、はたして、そんな〔世界〕のなかで生き延びることに、果たして意味などあるのだろうか?


気が重いけれど、読み進めてみることにします。



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愚慫@井ノ上裕之
感じるままに。