「泥のついたピン札」をご存知ですか
タイトルでピンと来られるかたも多かろうと想像します。
そう。『北の国から』です。
「泥のついたピン札」でわからない方も、『北の国から』といえばきっとどこかで聞いたことはあると思います。
DVDマガジンなんて、出てるんですね(笑)
「泥のついたピン札」のことは、すでにご存知の方には今更でしょうけれど、後に続く目論見もありまして、説明させていただきます。
『北の国から』は、破格のドラマです。
22年間続いたというのもそうですが、出演している主だった俳優がずっと同じということでも破格。最初は子どもだった者も22年の間には大人へと成長していきますが、ドラマのなかでも本当に大きくなっていく。
まあ、当たり前のことなんですけれど、ドラマというフィクションの性質からすれば規格外でしょう。
『北の国から』の主人公は父と息子と娘の3人。名前は五郎、純、蛍です。
動画の最初で「電気がなければ暮らせませんよ!」と純が五郎に激しく抗議していますが、それは至極真っ当なものでしょう。今の時代、電気どころかネットがなければ暮らせません。
『北の国から』の放映が開始されたのは、昭和56年。そのあたりだと、まだ辛うじて「電気のない暮らし」の面影が社会の中にも残っていたのかもしれません。ネットがない時代を知っているぼくのような世代の者が「ネットのない暮らし」に戻ろうと決意さえできれば(できませんがw)具体的なイメージが湧くように。
けれど、デジタル・ネイティブにはちょっと想像がつかないかもしれません。同じような世代格差が電気についてもあったのは間違いないはずです。
それにしても、電気ネイティブではないにしても、便利な暮らしに馴染んでいたはずの五郎が、なにゆえ電気を捨てる決意をしたのか?
不倫をした妻への意趣返しだったんですね。
イケてる妻がイモ臭いダンナに愛想まで尽かしていたかどうかはさておき、イケてる男とできてしまったと。このあたりは時代が変わっても変わらないようですが。
それで意地になったイモ男はイケてる暮らしを捨てる決意をした。自分だけなら拗ねて帰るだけですが、子どもを巻き込めば意趣返しにすることができる。それに純は抗議しつづける...。
純も、純の母親も、「ハードゲーム=糞ゲー」思想の持ち主。『北の国から』は、そうした時代思想で覆い尽くされそうになっていた、つまりはまだ辛うじて覆い尽くされていなかった時代の、時代思想へのアンチテーゼだということができると思います。
そのアンチテーゼの体現者が田中邦衛演じる黒板五郎です。浮気されて目が覚めたと。柔軟な子どもたちはやがて、時代と格闘する父親を尊敬するようになり、みずからも「ハードゲーム」の中に身を投じていく――というようり巻き込まれていく。
『北の国から』は、ぼくはもちろん大好きなドラマですけれど、同時に大嫌いなドラマでもあります。「巻き込まれていく」のはフィクションのドラマですから不可欠な要素ではあるんですけれど、あざとい感じがしないでもありません。これでもかというくらいに、降って湧いてくるように。災難が降りかかってきます。
「泥のついたピン札」のエビソードも、そんな災難のひとつ。
最初は「いい話」なんですけれどね。
幸い転じて禍と為す、と言えばいいか。
ということで本題ですが、申し訳ありません。続きということで m(_ _)m