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希望という名のバラの花

伊坂幸太郎の『アイネクライネナハトムジーク』を読んでいたら、以下のような事件(?)が描かれていました。

ファミレスで店員が客からクレームを受けている。

笹塚朱美はひたすら耐えていた。嵐が過ぎるのを待つ、とはまさにぴったりの表現で、とにかく目の前の男が苦情を言い飽きるなり、息切れするなり、この場から立ち去ってもらうのを待つしかなかった。

けれど、嵐はなかなか通り過ぎない。すると一人の若い男が横から声をかけてくる。

「いえ、あの人の娘さんにそんな風に強く言うなんて、命知らずだな、と思いまして」

若い男にこんなふうに言われた高齢の男は、若い男の言葉をブラフだろうと思いつつも、万が一を考えてしまう。そうして嵐は過ぎ去ります。

クレームをまき散らして高齢の男の心に生じた現象を名指しするのにちょうどぴったりの言葉があります。「忖度(そんたく)」という言葉。


『アイネクライネナハトムジーク』のここのところの描写は、「忖度」が働いていくときの人間の心理をうまく描写しています。

目的論を唱えるアドラー心理学に沿うなら、不満や怒りは何らかの原因があって生じるのではなく、もともと抱えていたものが何らかのきっかけがあって吹き出す。

「吹き出し」には対象となる者が必要です。心理学の別の言葉でいえば、防衛機制の「置き換え」ということになるのでしょう。要するに「八つ当たり」には相手が要る。

「八つ当たり」をするにあたっては、立場が重要です。仕返しをされるかもしれない相手にやってしまったのでは「八つ当たり」の目的が果たせない。

当初、高齢の男は客という立場にたって「八つ当たり」を遂行していたところが、若い男から「仕返し」の可能性を示唆されて「忖度」を働かせた。

「忖度」とは、立場に応じて「吹き出し」のあり方を変えることと言えばいいでしょう。弱い立場の相手には「八つ当たり」。強い立場の者には一般に言われる意味での「忖度」。


安易な連想です。
「忖度」というとお役人。
それも財務省だったりします。

そしてさらに、財務省役人といえばハラスメント。

再度重ねて起きますが、この連想はごくごく安易なものです。
どうぞ、斟酌してくださいませ。

広い意味での「忖度」には、「八つ当たり」と狭い意味での「忖度」のバリエーションがある。
さらに「八つ当たり」にもいろいろなバリエーションがあって、それらは「~ハラスメント」と言われます。

また、ハラスメントにはセカンドハラスメントというものもある。ハラスメントを受けた者がさらに叩かれてしまうという現象です。これもまたハラスメントのひとつのバリエーション。

セカンドハラスメントも「八つ当たり」です。直接関係がない者が、自身が抱える不満や怒りを適当と思われる相手に吹き出す。「不倫叩き」と同じ構造です。


ここで考えてみたいのは、ハラスメントをする側ではなく受ける側。もちろん叩きたいわけではありません。そうではなくて、なぜハラスメントを受けるところへ行ってしまうのか? という疑問。

件の女性記者は、雑誌に告白するまでにすでにいくどもハラスメントを受けていたということ。限度を超えたので告白に至ったわけで、その行動は勇気ある評価に値するものだと思います。

でも、おそらくは相当な精神的ダメージも受けているだろうと思います。取材先でのハラスメントに加えて、自身が所属する場所でもハラスメントを受けてしまった(であろうから)。

そんなダメージを受けてしまうところまで、なぜ行ってしまうのか。これは下手をすると、電通のときのようなところにまで行きかねないものです。


『星の王子さま』は優れた文学作品です。とても優しい作品として多くに人に愛されている。

ただ、ぼくのようなオッサンにまで達してしまうと、この世の中には優しさがとても残酷なことになることがあるということも知ってしまっています。

あまり知りたくない事実ですけれど。

『星の王子さま』は、受け取りようによっては、そうした残酷さを露わにする作品でもある。事実、王子様は最後は自殺をしてしまうのだから『星の王子さま』を残酷なほうの作品だとしても、間違いだとは言い切れないはずです。

『星の王子さま』は美しく、悲しい物語である。それは読む者の心に迫る力を持っている。それと同時にこの本は、謎に満ちた物語である。

多くの読者は、この謎を、謎のままに残しておきたいと思っているのではないだろうか。確かにこの謎めいた雰囲気が、同書の魅力となっているのは事実である。

しかし私は、この謎の一つひとつを、深く考えてみたいと思う。というのも、この本は、著者アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの残した貴重なメッセージであり、その深い意味を、恐れずに真剣に受けとめることが、同書を愛する者として、避けては通れないことのように感じるからである。またそれは、最後に毒蛇に自らを噛ませて砂の上に倒れるに至った王子が、必死で残したメッセージでもある。


コミュニケーションそのものに潜んで人間を苦しめる「悪魔」。その悪魔はこんな風貌をしているのかもしれません...

出典 www.madoka-magica.com

おっと、話が先回りしてしまいました。


最初、王子は自分の小惑星で孤独に暮らしています。そこに種が飛んで来て、やがて芽を出す。「バオバブ」という危険な植物ではないかと注意しているが、詳細に観察してそうではないことがわかり、王子は抜かずにおいておくと、やがてその植物は成長してつぼみをつくり、延々と勿体ぶって念入りにおめかしし、朝日と共に王子の前で花開く。

その美しさと香りに魅了されて「あなたはなんと美しいんだ!」と王子が言うと、バラは「でしょ?」と返事する。

孤独な者のところへやってきた種。
それは発芽し、やがて花を咲かせる。
魅惑に満ちた香りと美しさ。
孤独な者はすっかり花に魅了されてしまう。

この魅惑的なバラの花の端的なイメージは

  希望

でしょう。
孤独な者の心の中に咲いた希望という名の花。
それが美しくないはずがない。


バラに魅了された王子はなぜか旅に出ます。

これは妙な話です。
バラが本物にバラなら、水をあげなければならない。バラはそのように王子様に供給してもいます。魅了されたのなら、ずっと一緒に過ごすのが普通でしょう。

ところが王子は旅に出る。バラが「希望」だとするなら、納得がいく話です。

その「希望」は、具体的に「ジャーナリズム」というものだったりする可能性もあります。自分の小惑星から出た後の王子の行動は、取材をして回るジャーナリストのそれだと解釈することもできるでしょう。

ジャーナリストは取材の旅の中でいろいろな人物に出会います。旅の途中で他の何千本ものバラにであったりもする。最初にであったバラは、自分が唯一の存在だと言ったのだけれど...。

「希望」は最初は唯一無二に思えるものではある。けれど、旅の途中で別の「希望」に出会うこともある。気がついてみれば「希望」なんてものはどこにでもいくらでも転がっている。

しかし、キツネは言います。

「きみのバラをかけがえのないものにしたのは、きみが、バラのために費やした時間だったんだ」

素で聞けばとても良い言葉です。
が、特定の文脈においてはひどい言葉になる。

たとえば、セクハラを受けたジャーナリストが上司に相談した時に言われたとしたら...?

「ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。一番大切なことは、目に見えない」

これもキツネのことば。
これも素であるならよい言葉です。
が、「たとえ」のような文脈で言われたら?


「だんだんわかってきた」と小さな王子は言った。「花が一輪あってね。。。彼女が私を飼いならしたんだと思うんだ。」

「希望」に飼い慣らされてしまうとは、どういうことか?
もう一度、悪魔にご登場願いましょう。

「ボクと契約しようよ」とこの悪魔は提案する。
見方によってはキツネに見えなくない白い悪魔。

「人はこの真理を忘れてしまった」と狐は言った。「しかし、あなたは忘れてはいけない。あなたは、あなたが飼いならしたものに対して、永遠に責任がある。あなたは、あなたのバラに責任がある。」

契約したら責任が生じるのは社会のルールです。

ハラスメントを受けるところへ自ら赴き、ハラスメントを受けて苦しんでいてもなお赴き続ける。

【契約】をしてしまったから。


『魔法少女まどか☆マギカ』では、きゅーべえと【契約】を交わした少女は魔法少女となり魔女と戦います。魔法少女が魔女になるまで。

魔女はハラスメントを仕掛けます。
魔法少女は魔女のハラスメントと戦う。
戦って勝利することでソウルジェムの穢れを漱ぐ。
けれどやがて、ソウルジェムは穢れきってグリーフシードに変化する。そのとき、魔法少女は魔女に堕ちる。


『アイネクライネナハトムジーク』へ戻ります。

クレームを吐き続ける男は「魔女」だとすれば、
クレームに耐える店員は「魔法少女」でしょう。

ファンタジーの世界から一歩現実に近づいてみれば、もちろん『アイネクライネ~』だってフィクションだけれど、アニメよりは現実に近い。そうすれば「魔女」も「魔法少女」も少し身近になります。

【契約】に従って「魔女」と戦い続ければ「魔法少女」はやがて「魔女」になってしまうということは、少しは実感できるかもしれません。

現実社会が「魔女」たちの巣窟だということも。

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愚慫@井ノ上裕之
感じるままに。

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