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防備録 ~「超早起きZoom朝会」2022.01.10

昨年の4月以来、毎朝のようにお邪魔している三川屋幾郎さんの「超早起きZoom朝会」。

毎朝毎朝、多岐にわたるテーマで丁々発止の空中戦を繰り広げております。経済、歴史、人生、教育、宗教、性、果ては間もなく到来するであろう宇宙文明について。
どれもこれも面白いものだと自負するですけれど、とりわけ今朝の対話。記憶が風化しないうちに、防備録にしておきたい。

対話の出発点はここから。

ここから問いが派生します。
自分と他人とは違う、という一般的な認識への問いです。

Q:自分と他人を定義するものは何か?

A:「関係(relation)」である。

人間を英語では"human being”という。
日本語では"人間"という。

"human being”は存在を示しているのに対し、人間の"間"は関係を示している。人間と人間の関係。

物質・言語のレベル
精神・感覚のレベル
魂のレベル

「存在(being)」は物質・言語のレベル。
「関係(relation)」は精神・感覚のレベル。

人間を人間たらしめているのは、他のとの「差異」であると言える(
物質・言語レベル)。

同時に人間を人間たらしめているのは「関係」だとも言える(精神・感覚のレベル)。こちらの場合には"自他との関係"になる。「他」に加えて「自」が入る。

人間は、他との差異だけでは不安に苛まれる存在でしかない。
自他との関係において安定を見出す。
自分との良好な関係(自己肯定)が、他と良好な関係を築くに当って重要な土壌になる。

良好な関係性を作りあげていく能力。それを「愛」という。

悪い関係を悪くない関係へ。
悪くない関係を良い関係へ。
良い関係をより良い関係へ。
人間同士だけではなく、人間を人間たらしめるありとあらゆる関係において。

愛の認識は魂のレベル。
愛は「関係」だから、精神・感覚レベルで作動している。
精神・感覚レベルを活性化させるには感覚を磨く必要がある。
だが、それだけでは足らない。
単に活性化させるだけでは、良悪の両面で活性化させてしまう。
感覚の豊かさは、愛情も憎悪も、どちらも活性化する。

魂のレベルとは「感覚を作動させている自分」を感覚できる状態。
感覚と感情は同時に生起する。
なので精神・感覚のレベルでは感情に呑まれる。

感覚に呑まれないのは理性。
だが"理性”という言葉は現状、混乱している。
感情に呑まれないために、感情を抑圧する抑制的理性
感情に呑まれないために、感情を俯瞰する俯瞰的理性

抑圧的理性は感情とともに感覚を鈍磨させる。
俯瞰的理性は感情とともに感覚を研磨していく。

研磨した感覚をいかに自他のために活かすか。
つねに関係をより良きものへと創造していくことができるか。
愛憎・嫌悪の感情も含めて、感覚と感情を活用する。
これが魂のレベル。

魂とは、自と他、あるいは自と自の関係性を創造する主体のこと。
とりわけ、"自と自"の関係(過去の記憶)を主体的に活用できる状態。


Q:流されがちな感情を俯瞰していく方法論とは?

A:「喪に服す」

大切な人が死ぬと、物質・言語レベルの「存在」が消滅してしまう。
ところが、精神・感覚レベルの「関係」は消滅しない。
大切な人の記憶は、"自と自"の関係として存続し続ける。

「喪に服す」とは、"自と他"の関係を"自と自"の関係へと転換していく精神作用のこと。

大切な人が死んでしまうと、感情が大きく動く。"自と他"として認識していたものが認識できなくなってしまうから。喪失感が生じ、悲しみが生まれる。ところが時間が経つにつれ、"自と他"が"自と自"へと転換されていく。悲しみが感謝や喜びに転換されていく。

失恋といったケースでも同様。大切に思っていたはずの人と関係性が切れてしまうと、"自と他"として認識の形が変わる。失恋は自分にとって望ましくない形に変わるわけだから、ネガティブな感情が生まれる。

親子の関係では、"自と他"は最終的にネガティブになる。親が先に死ぬ。それを"自と自"へと転換していくことで、悲しみが感謝と喜びに変わる。同様のことが失恋でも起きうる。というより、起こしうる。

親子の関係は強い関係性になる。異性の関係性も強いものになる。強い関係から生じるネガティブを"自と他"から"自と自"へと置き換えていく経験を経ることで、人間は俯瞰的理性を学んでいく。

"自と他"から離れられないと、理性は抑制的にしかならない。
物質・言語レベルでは"自と他"しかない。
"自と自"は精神・感覚レベルである。
"自と自"を俯瞰することができれば魂のレベルへ至る


Q:大乗と小乗の違いとは?

A:自力か他力か

"自と自"を俯瞰できれば魂のレベルへ至る。
誰もが、いずれ、できる。
ただし、死ぬまでにできるとは限らない。
できないまま死んでしまう人もいる。

人間は、物質的・言語的なレベルと精神的・感覚的なレベルの2つの領域にまたがって生きている。

Well-Being は物質的・言語的。
Well-Relaiton は精神的・感覚的。
自力で俯瞰的知性を獲得できたと考えれば、「成仏」する。涅槃を脱する。
他力によって獲得できたと考えれば、「往生」する。
浄土とは、Well-Place である。

自力の人は、俯瞰的知性を獲得しようとする者に試練を課す。
他力の人は、俯瞰的知性を獲得をしようとする者に力を貸そうとする。

ところが俯瞰的知性というやつは、本来的に自力でないと獲得することができない。感覚を磨くことの手助けはできても「感覚を俯瞰する感覚」など自身で見出すしかない。

だから他力の人は、Well-Place を作ろうとする。
自力が何らの妨げもなく活動できる場を作ろうとする。
自力の活動を慈しみ、機会を与える。
自力の活動が妨げられることを悲しみ、把握し、障害となる要素を取り除こうとする。
そうした場を、現世において実現しようとする。


感じるままに。