錯覚資産ってなに?

ふと、渋谷。さんの過去記事が目に留まりました。

「錯覚資産」という言葉が何を指しているのか、いまひとつ掴みきれないのですが、なんとなく想像はつきます。平たく言ってしまえば「思い込み」。微妙にニュアンスが違うのでしょうけれど。

想像ですが、同じようなことを違った角度で書いているのが、この本ではないかという気がしています。

って、実はこの本も未読です。積ん読にはなっているのですけれど。


錯覚資産を持つ者は、人生はイージーモードの神ゲーになるが、錯覚資産を持たざる者は、人生がハードモードの糞ゲーになる。

いやはや、まったくその通りだと思います。
錯覚資産とやらが、ぼくの推察通りだとするならばですけれど。


だから、錯覚資産を形成するべし――と、ぼくは思いません。

上の引用の言葉はその通りだと思うけれど、ただひとつだけ、賛同できない部分がある。

ハードモード = 糞ゲー

という思考には、ぼくは全面的に反対です。
イージーモードのゲームなんて、つまらない。

「ハードモード=糞ゲー」の思考は、人生を成功か失敗かで査定します。その思考こそが〈しあわせ〉のなんたるかを見失わせる。


”錯覚資産”と呼ぶにせよ、佐渡島氏の言い方で”仮説”というにせよ、それらはみな「虚構」でしょう。ぼくたち人間は虚構で構築された世界の中で暮らしていますが、錯覚資産や仮説やらは、既存の虚構体系に基づいた説得力ある(新しい)虚構なんだろうと思います。

”錯覚”という言い方から推すならば。

そうした錯覚を他者に伝染させるには、高いコミュニケーション能力が必要で、ゆえにこそ現代社会ではコミュ力のある人材が求められている。

意地悪く言ってしまえば、人を「言いくるめる」能力です。


「言いくるめる」というと軽い印象を受けるかもしれませんが、少し想像をしてみて欲しいと思います。

何百年も生きながらえている「言いくるめ」があって、ほとんどの人が「言いくるめ」に気がついていないような【言いくるめ】があったとしたら。空恐ろしいような感じがしないでしょうか。

けれど、現実にはそうした【言いくるめ】は多数存在します。過去には有効であったが賞味期限が切れて現在は言いくるめられないようになっている類いのものは”迷信”と言われたりします。

現代に生きるぼくたちは、過去の迷信はもはや信じることができません。過去に信じられていたことですら信じることが難しくなっていて、迷信を信じていた人たちを無教養なものだと断じてしまいかねないところがあります。

でも、ぼくたちだって、未来の人間からみれば、信じていることが信じられないような【言いくるめ】のなかで生きていないとは限りません。むしろ【言いくるめ】のなかで生きている可能性のほうがずっと高いでしょう。

では、なぜ【言いくるめ】に気がつかないのか。それは、そうした【言いくるめ】で不都合がないから、あるいはなかったからです。都合が悪くなると、それらの【言いくるめ】は賞味期限が切れて、迷信として歴史のゴミ箱の中へ捨てられてしまう。



「ハードモード=糞ゲー」という思考も、ぼくは【言いくるめ】なんだと思います。

そうした「言いくるめ」を解体するのは哲学、というより「子どもの問い」です。子どもに、

 どうしてハードゲームは糞ゲーなの? 

と問われたらどう答えればいいのか。

 大人になったらわかるよ

とでも答えるなら、それこそ糞でしょう。

いやでもわかるようになってしまう可能性は高いと言わざるを得ませんが、その可能性が実現しないように努力すること

 大人の責務

ではないのでしょうか。

ハードゲームこそ、やり甲斐があって高い価値がある。子どもは素直にそう考えるはずですから。



「言いくるめ」が【言いくるめ】として機能することを、最近の経済学では”遂行性"という言葉で呼ぶようです。

(前略)経済学が作り上げた概念がわれわれの思考と行動を規定し、社会的実践にも影響を与えている可能性があるということである。なにかしら客観的に成立している現実が存在していて、経済学がそれを単純に科学しているのではなく、経済学という思考の産物が現実世界に影響を与えている関係が成立しているのだ。このように思考が現実を規定することを「遂行性(performativity)」としばしば呼ぶが、それは社会科学一般に当てはまることである。

社会科学にあるのは現在進行形の遂行性ですが、過去形になるならば迷信でしょう。


経済学において遂行性が問われるようになってきたのは、近代の経済学がいろいろと不都合になってきて、改めて存在意義を問わざるをえない状況になってきたからでしょう。その状況は学問的にみれば、もしかしたらパラダイムが変換されていくハードゲーム――やり甲斐のあるゲーム――という局面なのかもしれません。


『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている』には、このようにも書かれているらしいです。

単に直感で判断すると、直感的には現状維持のほうがいいと錯覚してしまう。認知バイアスが絡んでいるときは、直感は当てにならない。
判断が難しいとき、人間は考えるのを放棄して、直感に従ってしまう。しかし、判断が難しいときこそ、直感はアテにならない。なぜなら、判断が難しいときに直感が出す答えは、思考の錯覚に汚染されていることが多いからだ。

まさにその通りで、このことは「ハードモード=糞ゲー」という【言いくるめ】にも言えることのはずです。


そうしたことが語られるようになり、また、語られたことが共感を呼ぶという事実は、思うに、逆に【言いくるめ】の有効期限が切れつつあるからではないのか。

なんとならば、【言いくるめ】が万全に機能しているのなら、それは「言わなくてもいいこと」なのだから。言わなくてもよかったはずのことに言及するようになったということは、心理学でいうところの正常性バイアスが働いているとみることができなくはありません。


バブル期以前の高度成長期の時代に立ち返れば、おそらく大多数の人が共通の「錯覚資産」を持っていて、それで不都合はなかったし、大多数が「成功(≒幸福)」を獲得することができました。

そうした時代には、おそらく「錯覚資産」などといったことが語られることはなかったでしょうし、語られても耳を傾ける者もいなかったのではないかと想像しています。

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愚慫@井ノ上裕之
感じるままに。