『地球星人』は豊かな可能性?
なんとかかんとか完読した『地球星人』ですが、、、
衝撃の「大きさ」はともかく、「深さ」では前作『コンビニ人間』の方がずっと深いと思います。前半は期待して読み進めたのですが、後半は箍が外れてしまっていると感じました。
ドストエフスキーに『悪霊』という名作(迷作?)がありますが、「人間工場」という観点を押し広げていくと『悪霊』が描きだしたものの現代版になる得るかと思いきや、展開は収縮していって「工場からの逃走」になっていきます。それも猟奇的とでもいうべき描写で。
読後、思い浮かべたのは、このエピソードでした。
痛覚があるならば、到底できないような人体の動きを見せられて怒りを表した宮崎駿監督。宮崎さんが怒ったのは、動画を見せた川上さんも痛覚を備えているはずの人間だからでしょう。
では、もし、川上さんに痛覚がなかったとしたら、宮崎さんは怒っただろうか?――『地球星人』の著者村田さんに対して抱いた疑問。
村田さんに「痛覚」は機能しているのだろうか?
機能していないとして、それは、もともと持ち合わせていないのか? それとも壊れてしまったのか?
『地球星人』を読む限りは、壊されてしまっていると受け取らざるをえない。奈月が村田さんの分身だとしたら。
ネットで検索したみたら、下の記事に遭遇しました。
なるほど。
村田さんは「人間という生き物」に興味があるという。この興味の抱き方が、、、、。
人間は誰だって人間に関心がある。人間が人間に関心を持つのは、「生き延びるため」に。子供は大人の関心を引くことに全力を挙げざるをえない。未熟な子供は大人の庇護なしでは生きていけないから。
人間の人間への関心は、自己の生存と密接に結びついている。それが人間が人間であることの本能だ。
ところが村田さんの「人間という生き物」への関心は、自己の生存とは直接的には結びついていない印象を受けてしまう。人間が虫の生態に関心を持つのと同じような感覚で、人間に関心を持つ。それが「人間工場」という視点につながる――、なるほど、腑に落ちる。
そうした関心の持ち方は、やはり「(人間としての)何か」が機能していないのだと思ってしまいます。
もっとも、人間は虫だからといって、自身の生存とは無関係の(無機的な)好奇心を持つとは限りませんが。
「山に行って、虫でも見ていれば、世界は意味に満ちているなんて誤解するわけがない。なんでこんな変な虫がいなきゃならないんだ。そう思うことなんて、日常茶飯事である」
「いなきゃならないんだ」というのは、自身の生存とつながっているからこそ出てくる言い回し。Sense of Wander。
村田さんはしかし、自身が(無機的な)好奇心を人間に向けていることに自覚的ではあるようです。
少女時代を先に書き、それだけで物語を完結させることも考えたのですが、やはり大人時代も書きたくて。ただ書くうちに夫が非常に変な人になってしまったので、前半とテイストが違う後半になっていますが書き続けていいでしょうか、と編集者さんに途中稿を見せています。「このまま書き続けてください」と言っていただいて、ああ書いていいんだなと、気づけば長い物語になっていました。
変(な人)になったという自覚。でも、それでいいんだという承認を編集者(社会)から得る。これこそ「人間工場」の【人間】製造過程ではないのか?
ここからまた、別の記事を連想します。
アルファブロガー(←死語?)のちきりん氏の記事。ここで糾弾されているのは、官僚たちが棲息する霞ヶ関の社会環境です。
清く高い志を抱いて入賞してくる若きエリートたちであっても、「変」という感覚を封印されていくことによって堕落していく過程が端的に書かれている。
批判の矛先を向けるちきりん氏のアイデンティティは、
以前に勤めていた民間企業で、上司に言われてほんとにそうだなと思った言葉があります。
「うちの会社は生活必需品を作ってるわけじゃないし、大量の人を雇ってるわけでもない。だから大不況や大災害に襲われたとしても、誰も助けてくれない。
うちのような企業が生き残れるとしたら、市場から評価され続けるしか道はない」と。
村田さんや編集者の行動基準はむろん、官僚たちのそれではない。市場(マーケット)からの評価。ちきりん氏と同じく。
それは、村田さんが『地球星人』で描きだした「人間工場」の原理ではないのか。長野の僻地では機能しない原理。
村田さんにしてみれば、「人間工場」の描写は【(無機的な)好奇心】にすぎないのかもしれません。自身の生存と繋がりがある〈(有機的な)好奇心〉が機能しているのであるなら、編集者(社会)からの後押しは「人間工場」のそれだと気がついて、忌避したろうに。
そう考えると、『悪霊』のスタヴローギンは〈好奇心〉が機能している作者の筆になるものだと理解ができる。自身の生存と繋がりがあるからこそ革命になっていってしまう。
でも、村田さんが100%無機的なのかというと、そうでもないようです。
性的な部分には、有機的な関心の持ち方をしています。
私は「怒り」という感情を、幼少期に失ってしまった感覚があるんです。失ったというよりも、怒りというものは持ってはいけない感情だと、捉えていたと思います。自分が何かに対して怒りを持ったとき、頭の中でその怒りを解体することにしていたんです。分析して、解体して、怒りではないものにしてしまう。そんな幼少期を通ってきたので、大人になっても、怒りというものがよく分からなかったんです。
(略)
でもやはり自分の中には怒りがあったと、この小説を書いて気づきました。特に穢されるということに対して、激しい怒りがずっとあったと。怒りを押し込めてきたことが歪みだったことに、やっといま気が付けたような気がしています。
怒りは、悦びと同じく自身の生存につながっている有機的な感情。
悦びがあるところには生きるエネルギーがある。
怒りがあるところにも同じく。
子どもには「生まれてきた」ことそのもののエネルギーがある。
大人には子どもを産むという「生まれてくる」ことへのエネルギーがある。
前者は封じられた。
けれど後者は封じきれずにいた――ということでしょうか。
人間の性的な部分は、なかなか表だって表出するところが難しいものです。エネルギーが強すぎるから。ぼくだって、尻込みしてしまいます。
というわけなので、お茶を濁して終わりします。
メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲。出だしのメロディは誰しもが耳にしたことがあると思います。甘く切ない、青春の香り。
「青春」を「性春」に塗り替えてしまっているのが演奏のヴァイオリニスト。いいセックスをしているに違いない――! とオッサンは推察しますw