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『竹林精舎』
小説レビュー。
本は図書館で借りてきました。
手に取ったのは、玄侑宗久だったからです。
作家である前に、福島県三春町でお坊さんをやっておられる。
別に玄侑宗久のファンというわけではないんです。
知り合いの知り合いだから。
最近、親しみを増しているご夫婦が宗久さんと親しくしていて、ちょくちょく玄侑宗久が住職をしているお寺の手伝いに行ったりしている。当人や家族の噂話などをよく聞かされていたりします。
そんなわけで、図書館で見かけた時に手に取った。
「言いたいこと」はよくわかる気がします。
作者が小説を通じて言いたい(であろう)こと。
恋と放射能のはざまで
福島に住む僧侶作家が7年を経て放つ書下ろし長篇小説。
*
震災で両親を失った若き秋内圭(ルビ・きよし)は、葬儀をしてくれた禅桂和尚の発する柔らかく澄んだ「気」にうたれ、「風に吹かれるように」出家して禅道場で3年間の修行をつむ。僧名が宗圭となった彼には学生時代から3人の仲間がいて、そのうちの一人、千香には思いを寄せ続けている。福島県の竹林寺の住職にという要請は受けたものの、そこは放射線量も高く、過疎地での寺の運営も困難が予測された。
千香への言い尽くせない恋の悩みや頼りない寺の経済的内実を抱えたまま、禅の公案と格闘しながら、なんとか前に進もうとする27歳の青年と若き仲間たちを描いた成長小説。
また本書は、直木賞作家道尾秀介氏の傑作ミステリー『ソロモンの犬』に登場する人々のその後の物語にもなっている。
上は本書の内容説明ですけれど、ここには著者が「言いたい(であろう)こと」は言葉になっていないと思います。
それは「分断」です。
地震があって津波が来て、原発が事故を起こした。
地震は感じられます。
当時もぼくは山梨にいました。まだ樵をやっていました。ちょうど枝打ちの作業をしていて、木の上に登っていた。風もないのにずいぶん揺れると思ったら、地震でした。地震に気がついたのは休憩時にガラケーでツイッターをチェックしたときにですけれど。
津波は見ることができます。
大多数の(不運ではない)人たちと同じように、映像で見ました。
ところが放射線というやつは、感じることも見ることもできない。
ゆえにこそ「分断」が生じた。
放射線に怯える人。
怯える必要はないと考える人。
7年を経た現在では、怯える必要はなかったというのが大勢なったように思えます。だけど、「分断」が生じたのは事実で、それは未だに尾を引いている。
小説の中で作者は、「分断」された者のどちらの側にも立ちたくないと登場人物に言わせています。本音だろうと思うけれど、現実はどちらかに立たざるを得ない。
外側の者なら、どちらにも立たないということは可能でしょう。関心をもたないというやり方で結果的・消極的に立たないという方法もあれば、積極的に両者と交わって双方の仲介に努めるというスタンスを取ることもできる。
けれど「分断」の内部にいると、なかなかそうはいかない。福島県の寺で住職をしているのであるなら、そして、その責務を果たそうとするならば、どうしても「分断」の片方に傾いて行ってしまう。
おっと。「分断」についてここまで具体的に触れていませんでした。けれど、触れる必要はないでしょう。いや、そうではなくて、触れたくない。
「分断」について関心がある人、関心を持たざるを得なかった人にはそれぞれ「分断」についての理解があって、それは「分断」であるがゆえに、簡単には交わらない。下手に具体的にしてしまうと「交わらなさ」が露わになってしまうおそれがある。
「交わらなさ」を上手に表現できる自信がない。
小説の中は、シーベルトがどうの、ベクレルがどうのという話が、当然のことながら登場してきます。
主人公の宗圭が思いを寄せる千香、実は千香も思いを寄せていて相思相愛なんだけれど、その千香が、いろいろと調べたという体でシーベルトやベクレルが語られる。
正直、そのあたりの細かいところは読み飛ばしました。ぼくも当時は相当に関心をもったけれど、現在はうんざりしてしまうし、うんざりで済ますことができる。
この「すませたい気持ち」は、おそらく当の福島の人たちもベクトルの方向は同じではないかと思います。ただ方向は同じでも、大きさ、言い替えれば「切実さ」は違うでしょう。
そして、「切実さ」の“度合い”と「分断」の“深さ”は、おそらく比例する。
だから、「分断」の中で暮らしながらも、その双方と関わりたいと思うならば、うんざりで済ますわけにはいかなくなる。
物語は千香が宗圭と貧乏寺で暮らし始めると確実な予感をさせるところで閉じます。その千香は「大きな賭に出る」という言葉を使います。そこには宗圭と結婚するという以上の意味が込められているように感じます。
これは、「分断」のなかに生きている著者自身が、自身の思いを小説の登場人物に仮託して言わせたものでしょう。そのように受け取って、ぼくは、著者が「言いたいこと」がわかったような気になりました。
ただ。
「言いたいことはわかった。でも、、、」
と言いたくなるところがないわけではない。それは僧籍に身を置く著者には言ってみたとこで栓のないところなのでしょうけれど、仏教といったものを身近に感じることがなくなっている者からしてみれば、どうしても言っておきたいことではある。
貧乏寺で勤めることになる宗圭に世話を焼く檀家の一人がこんなふうなことをいう。
「価値観が違うからこそ、あなたのような人が私たちには必要なんだ」
貧乏寺に勤めるにあたって宗圭は、自身のお金、それも両親を亡くしたことで支給されたお金をお寺のお金にしてしまおうとします。檀家は押し止めつつも、そのように振る舞おうとすることができる価値観が必要だというわけです。
この言葉は鋭いと思います。が、その発し方に疑問がないではない。
これが檀家の側の言葉として、お寺へ、お坊さんへ要望されるものとして提出される書き方。また、そうした書き方でないと受け止めることができない今の社会の文脈。それは、お坊さんという置かれている立ち位置を表しているように思える。
有り体に言ってしまえば、もはやかつてのように、お坊さんには「鋭さ」は求められてはいないということ。現在、その位置に座っているのは科学(者)。
実はその一端は、小説のなかにも現れている。男性の薬指の長さから遺伝的な性格を云々してみたり、女性が好意を寄せる相手に対しては声の音程が無意識のうちに高くなるという生態学的な指摘がなされていたり。
これは、科学的な「鋭さ」でしょう。
科学そのものは個別の人生に「鋭さ」を提供しようとするものではないし、それを与えることが科学者の任務ではない。その任務を、かつては確かに宗教者が負っていたし、現在でも求める人はいる。世界の別の国や地域に行けば、日本よりも大きな割合でいます。そして、そのような場所では、求める側から求めることが言語化されるといったことはない。
そうした「鋭いこと」が求める側から言語化されてるということ自体が、求められる者は「鋭い存在」として認定されていないということ露わにしてしまっています。
檀家はさらに、こんなふうなこともいう。
「違う価値観の人が、ただいてくれさえすればいい」
だったら、イヌやネコでも構わないはず。
「鋭さ」が求められることがない「癒し」を提供する存在が求められるんだとするならば、もはや人間である必要がない。
皮肉なのは、これが、お坊さんである著者が記したことがだということ。いや、むしろ、お坊さんだからこそ出てくるものかもしれません。
著者の「言いたい(であろう)こと」を受けて、ぼくが言ってみたくなったこととは、
「もう、お坊さんの役割は終わったんじゃないの?」
という皮肉なものです。輪をかけて皮肉なのは、そう思ってしまうのは、著者が誠実にお坊さんであろうとしている(と感じる)からこそ。お坊さんでありながらも誠実に(現在の)社会に適応している。だからこそ、仏教や僧といった存在を生んだ地盤(かつての社会)との齟齬が露わになっていってしまう。
祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
諸行無常が仏教そのものに言えるということは、仏教自身が「末法」という言い方で表現しているところでもあります...
ん? 少し違うか。
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