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どうなったらマナは解禁されるのか?

久々の note 投稿です。長い間Quoraを彷徨っていました。

いきなりですがマナです。マナとは宇宙文明です。なぜマナで宇宙文明なのかはすっ飛ばします。Quoraを彷徨っているうちにネジが飛んだと思っておいてください。笑。

この動画で語るふたり。なみのんとるぅにゃんは、宇宙文明から転生して地球に生まれたのだそうです。彼らには前世の記憶が残っていて、宇宙文明の暮らしぶりを語ってくれています。

宇宙文明で生活する上で主なエネルギーはマナ。マナは魔法のような万能のフリーエネルギー。世界で最初に存在した物質であると宇宙文明では言われている。

マナは精神的な愛のエネルギーで、愛の意識のあるところに自然発生する。今、自分がいる空間とは別の空間に無限に存在していて、そこから湧き水のように自分の空間に自然に溢れてくる。今の地球の科学ではまだ発見されていないエネルギーだけれど、地球が宇宙文明の仲間入りをすれば解禁される。

で、宇宙文明の仲間入りの条件は、愛に溢れること。

愛のエネルギーが愛に溢れる地球になれば解禁されるだなんて、論理としては当然ではあるけれど、では愛とはなんぞや? これはまだ地球文明が解き明かしていない謎。

「愛はエネルギーである」とは、文学的によく使われる言いまわしです。が、この命題を物理学だというと笑われてしまうことになるでしょう。現在の地球文明のレベルでは。けれど、ここは敢えて物理学的に捉えてみます。

愛はエネルギーであり、創造の源である。では、いったい何を創造しているのか? 私には思い当たるフシがあります。それは言葉です。

ほとんどの人にとって、言葉とは「覚えるもの」でしょう。ですが本当のところは違います。言葉は創造されるもの。誰が創造するのか? 私たち人間ひとり一人が、です。

この事実を観察することができるのが、「ヘレン・ケラーの奇跡」。

先生と私は、井戸を覆うスイカズラの香りに誘われ、その方向へ小径を歩いて行った。誰かが井戸水を汲んでいた。先生は、私の片手をとり水の噴出口の下に置いた。冷たい水がほとばしり、手に流れ落ちる。その間に、先生は私のもう片方の手に、最初はゆっくり、それから素早くw-a-t-e-r と綴りを書いた。私はじっと立ちつくし、その指の運動に全神経を傾けていた。すると突然、まるで忘れていたことをぼんやりと思い出したかのような感覚に襲われた――感激に打ち震えながら、頭の中が徐々にはっきりしていく。ことばの神秘の扉がひらかれたのである。このとき始めて、w-a-t-e-r が、私の手の上に流れ落ちる、このすてきな冷たいもののことであるとわかったのだ。この「生きていることば」のおかげで、私の魂は目覚め、光と希望と喜びを手にし、とうとう牢獄から解放されたのだ!  (『奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝』小倉慶郎訳 新潮文庫 p.34~35)

この文章を現象的に見てみましょう。ヘレンは片の手に水を感覚しています。そしてもう片の手に、サリバン先生の指を感覚している。サリバン先生の指は「w」「a」「t」「e」「r」というカタチを描いています。まだ言葉を知らないヘレンにとって“w-a-t-e-r”はまだカタチに過ぎません。

情報入力として捉えれば、水の感覚と指の感覚は全く別々の情報です。水の情報入力をA、指の情報入力をBとすると、

A≠B

それが言葉が誕生すると、とたんに

A=B

になります。「A≠B」から「A=B」への変化は、生理学的に脳の神経細胞が織りなすニューロン回路が新たな接続を生むことで生じたのだろうと考えられます。ですが、言語的にみれば、この変化は創造です。

なぜなら、水の感覚は、水という言葉がまだ生まれない間は、何とも呼びようのない感覚でしかないからです。指の感覚も同様です。「w」「a」「t」「e」「r」というカタチを描いていても、それはまだカタチにすぎません。なんらの意味も持っていない。それが、別々のものが結合した瞬間に、意味が生まれる。言葉が生まれるということと、意味が生まれるということはまったく同義のことだということも、「ヘレン・ケラーの奇跡」から見て取ることができます。

なお、この「ヘレン・ケラーの奇跡」が愛情と深く関わっていることについては、上掲のnote記事で指摘しています。愛着理論です。


しかし、これだけではまだ愛が物理学的にエネルギーであり、創造だとは言えません。「言葉の創造」は脳生理学的に解明できるでしょうし、そうなれば化学現象、すなわち物理現象だということになります。そして「言葉の創造」のエネルギー源は身体が吸収した栄養素ということになります。

ここで注目したいのは科学という営みそのものです。

科学とは何か。真理そのものか? 真理そのものは言い過ぎでしょう。そのように言明すると科学は科学教になってしまいます。といって、科学が真理の一面を解明しつつあると言って間違いはない。科学とは、自然現象を言語というツール、それも主に数学という言語をもって言い当てる営為のこと。「言語的な言い当て」が正解だから再現性があって、ゆえに言語を用いることができる人間は自然現象を自分たちのために利用することができる。これが科学技術というものです。

が、その言語は言語的には創造物。となると、ここに矛盾が生まれます。

「言語の創造は科学的に言明することができる」という命題と、「科学は言語を用いた言い当てである」という命題。卵が先か、鶏が先か。これら二つの、言語を用いて表現される命題は矛盾します。パラドクスです。

ちなみにいうと、このパラドクスは哲学でいうところの探求のパラドクスと同型です。「探求する対象を知らなければ、そもそも探求できない。しかしその対象を知っていれば探求する必要がない」というパラドクス。プラトンの対話篇『メノン』に登場してくることからメノンのパラドクスとも言われます。

このパラドクスは言語ベースの思考では回答をえることができません。そこでヒントになるのが、先に挙げた「ヘレン・ケラーの奇跡」です。

「ヘレン・ケラーの奇跡」は言葉が感覚の複合であることを物語っています。幼少の頃の不幸な事故で視覚と聴覚を失ったヘレンですが、それでも残された触覚を用いて言葉を創造しました。わたしたち通常の人間は、触覚に加えて視覚と聴覚の三感を複合させて言葉を創造しています。それも、私たちが自我を確立し、記憶を始めるずっと以前にです。

ヘレンの場合は、言葉の創造に用いられる感覚が触覚しかなかったために、創造は6才まで行うことができませんでした。だから記憶に残り、奇跡として記述され、私たちは本を読んで知ることができます。

言葉を感覚複合である捉える。これを言語感覚複合説と呼ぶとしましょう。となると、人間には言語以前の世界があると考えることができるということ。言語の世界を意識の世界だというとすれば、言語以前の世界は無意識の世界。無意識の世界は感覚の世界です。

この無意識の世界を、科学を生んだ西洋の考え方は言語化して捉えようとします。西洋の思考は言語ベースです。ところが東洋の思想、わけても仏教の思想は感覚ベースで捉えようとします。西洋の哲学は言葉を用いて「言い当て」をしようとするのですが、東洋は言葉の用い方が違う。「言い換え」をしようとする。その言い換えのことを「空(くう)」と言います。

日本の平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗の僧であった慈円は、「空」を見事に言い換えた歌を詠んでいます。

引き寄せて結べば草の庵にて解くればもとの野原なりけり

この歌が「ヘレンの奇跡」を言い換えていると捉えてみましょう。すると、「庵」は言葉に相当し、「野原」が感覚に相当すると言えます。そして「言葉の創造」に相当するのは“引き寄せて結ぶ”です。誰が結ぶ? もちろん、私たち自身が、です。


感覚とは何でしょうか。それは命ある動物が自らの生をつないでいくための方法です。私たちヒトを含む動物は感覚を持ちて外部環境をサーチし、生きる糧を獲得してくる。つまり感覚とは「生の営み」の一部だと言えます。

この「生の営み」を、西洋的に愛だと言い当てようとすると違和感があります。ですが、東洋的に愛だと言い換えるとすればどうか。A=B的な「言い当て」では違和感がある、つまりは「生」≠「愛」になってしまうものが、「A≠B」⇒「A=B」的な「言い換え」ならばぴったり腑に落ちる感覚があります。前者は言語ベースであり、後者は感覚ベースと言えます。

言語ベースの西洋科学的思考では愛を捉えることができません。正確に言い当てようとすればするほど、愛はさらにそのむこう側に存在する「何もの」かになってしまう。ゆえに「愛はエネルギーである」という西洋風の命題では偽だという判断になります。ところが「愛はエネルギーと言い換えられる」ならば、真。そうなると、「マナというエネルギーは愛と言い換えることができる」といえる可能性がある。あくまで可能性です。

これは逆にから言えば、マナが観測できないのは、言語ベースの捉え方だからだ、ということができる。これももちろん可能性です。感覚ベースならば観測できるとは言い切れません。

ここで宇宙文明人の言葉を振り返ってみましょう。彼らは「地球が愛に溢れる惑星になればマナは解禁される」と言っています。では、愛に溢れるとは?

生が愛であり感覚もまた愛であるとすれば(生も愛も感覚も互いに言い換えれるとすれば)、愛に溢れる世界とは感覚ベースの世界であるということができます。感覚ベースの世界、それは現在の言語ベースの人間的把握では動物的な世界。つまり一段下の世界。そのように捉えるのが人間の常識です。

ですが、それで人間は愛の溢れる生き物になったのかと問えばどうでしょう? 私たち人間には確かに他の動物にはない言葉を創造する能力があります。言葉は感覚複合だと上では述べましたが、実は同様の原理を道具の使用にも当てはまる。ここでは詳しく述べませんが、言葉が内的な感覚複合だとすると、道具の使用は外的な感覚複合と言えます。

私たち人間は、内外に感覚を複合し拡張する能力を得たのはいいが、現状はそれが徒になってかえって不幸になってしまっている。豊かになっているのに愛を見失ってしまっている。いうなれば「言葉の檻」に囚われてしまっていると言えるのではないか。

Mr.Childrenは『名もなき詩』で、“自分らしさの檻”という表現をしています。この「自分らしさ」は言葉でできています。言葉で自分を規定してしまうことで生じる呪縛です。その呪縛にもがきつつも愛を歌っているのが『名もなき詩』のメッセージでしょう。


いい加減、長くなってきたのでまとめます。

あくまで可能性の話です。生は愛であり感覚である。愛に溢れるとは感覚世界で生きるということです。ありのままの自分。言葉を駆使する人間でありながら、かつ言葉に縛らずに感覚で生きる。そんなことが果たして可能なのかといえば、私は可能になったと答えたいと思います。技術の発展によって、言葉を感覚的に用いながらかつ社会的秩序を維持することが可能になった。私たち人類はそのようなポジションにまでたどり着いた。なみのんとるぅにゃんの言い方にそえば、宇宙文明の仲間入りができる一歩手前まで来た。

あとは、言葉から自由になるだけ。私たちが暮らす社会のルールを言語に依存しないで構築すればよい。そうすれば、人間は環境に適応する動物ですから、自ずと感覚世界に生きるようになります。

人類の大部分が感覚世界に生き、地球上に愛が溢れるようになれば、マナは解禁されることになるでしょう。なみのんとるぅにゃんの言葉通りに宇宙文明が存在するのであれば、ですが。


なお、このnote記事は今朝、三河屋幾郎さんと対話した内容の一部を整理したものです。地球文明と宇宙文明の間には大きな「崖」がある。いったいどうしたらこの「崖」にハシゴをかけることができるのだろう? 幾郎さんと語り合いました。

なおなお、社会のルールを言語に依存しないで構築する方法については、ここnoteでも言及した記事はあったはずなのですが、Quoraのものへリンクを貼っておきます。

すでに構築に向けて歩み始めている会社も紹介しておきます。


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愚慫@井ノ上裕之
感じるままに。