ベーシックインカムに財源は必要ない
エスペラントという言語があります。
ぼくたち人間が話したり、聞いたり、書いたり、読んだりする言語のほとんどすべては自然言語です。
人間が互いにコミュニケーションを行うために自然発生的に生まれた言語。日本語、英語、中国語、アラビア語、、、、人類世界には何千という数の自然言語があって、現在は急速な勢いで数を減らしていると言われています。
自然言語があるということは人工言語もあるということで、エスペラントは人工言語の代表選手。
ぼくがその存在を知ったのは大学に入って直後のことだったと記憶しています。
「エスペラントを学んで世界中の人々と分け隔てなくコミュニケーションできるようになれば、世界は平和になる」
こんな謳い文句でサークルから勧誘を受けた覚えがあります。サークルには入らなかったし、エスペラントも学ぶこともありませんでしたが...。
貨幣(お金)は言語なのかという問題は、さまざまに議論があって結論は出ていないようです。
ぼくの個人的な意見を申し述べれば、貨幣は言語です。もちろん自然言語。日本語や英語がそうであるように、誰がいつ発明したのかわからない。自然発生的に生まれたもの。
ちょっと寄り道させてもらいましょうか。
「数」は言語です。異論はないと思います。
貨幣は数の概念を元にしている。数の概念なしにはお金の観念は成立しません。逆に、そのことがお金は言語ではないという理由として考えられる。
でもね。
小学生くらいの子どもに算数の問題を教えるとします。たとえば
30×2+40=?
という問題。大人には簡単な問題だけど、まだ数をうまく扱うことができない子どもは、いろいろ当てずっぽうで回答してくれたりします。
そういうときに、「円」をつけて、お金の勘定にしてみる。すると、たちどころに、「100円!」と正解が返ってくる...。
こんなような体験をした覚えのある方は少なからずいるはずです。子どもの学習の過程で広範に見られる現象。
こうした現象から導かれる結論は、お金は自然言語だというものでしょう。「数」より早く習得しているということは、「数」よりも自然な言語だといえなくもない。
そう考えると、貨幣の観念が数の概念をもとにしているという認識も改めなければならないかもしれない...。
貨幣は自然言語であるからこそ、「最強の征服者」でもあり得る。
人間をして「やりたい」と思わせる最強のモノがお金というわけです。
話を本筋に。
貨幣は自然言語である。
日本語や英語と同じというわけにはいかないにしても。
冒頭にエスペラントを持ち出したのは、貨幣が自然言語なら人工言語も考え得るということを言いたかったから。
もっとも、人工貨幣はすでに現実のものとして実存しています。
ビットコインを皮切りにして出現した仮想通貨というのがそれ。
唐突ですが、当テキストはこちらのテキストの「続き」だったりします。
お金で買えないものをなくす方法とは、買えないものでも買えるようにお金の方を造り替えればいい。
では、どんなふうに?
その回答が本テキストのタイトルです。
財源が必要を必要としないでベーシックインカムを実現することができるような人工貨幣をデザインする。
具体的には?
こちらの本に倣ってモデルを組み立てみましょう。
100人の村に新しい人工のお金が100万クレジットあるとしましょう。最初はひとり1万クレジットづつ持っている。村人たちは、クレジットを使って経済活動を行います。そうすると、当然のこととして、所持金に格差が生まれる。
この新しい人工貨幣の新しい特性は、1ヶ月に10分の1づつ消滅していくというところにあります。
1万円所持している人は、千円。
2万円の人は2千円。
5千円の人は500円。
その人が所持しているお金に応じて、消滅していくお金も決まる。ですが、全体としては100万円のなかの10万円が消滅します。
この消滅した10万円がベーシックインカムの財源になる――というと、タイトルの言とは矛盾しますが...。言葉としては。
でも、論理としては矛盾していないことには(感覚的に)気がついてもらえると思います。
カギは「財源」という言葉のイメージです。
中立的に「財源」というならば、新しい人工通貨のモデルにおいても財源は存在します。けれど、文章を組み立てる人間は、つねに「主体」を想像します。
「財源」についていてば、財の源になる資産を構築する「主体」、あるいは資産を徴収する「主体」。「ベーシックインカムの財源」と言ったとき、ベーシックインカムついての知識を持っている人は、無意識的に徴収する「主体」を想像し、徴収された資産を「財源」として考えることになる。
新しい人工通貨によるベーシックインカムでは、そうした意味での「財源」はない。ただ単に、貨幣が月に1/10ずつ何らの経済活動をしなくても循環するように設計されているというだけのことです。
貨幣自体がそうした設計なので、「主体」の想定を前提とするような「財源」は必要がない。
全体のイメージとしては、たとえば自然の(地球規模の)水の循環。太陽からエネルギーを受け取って地表にある水は蒸発して水蒸気になり、上空に上って雲となり、雨となって地表に降り注ぐ。
水はいろいろな場所でいろいろな〈〔物理学的な意味での)仕事〉をしますが、そうした〈仕事〉は水の循環という観点から見れば副作用のようなもの。
水は山を穿って谷を削り、生命を潤して生態系を支えますが、それらは(地球上の)水に備わった循環するという特性から派生した現象に過ぎない。
貨幣というモノは、【(文明的な意味での)仕事】が為されることによって循環します。それどころか、現代の貨幣経済社会では【仕事】の都合で新たに貨幣が創造されたりもする。
ここには【仕事】のための貨幣という順序があり、【仕事】には主体者が当然いますから、貨幣の運動も主体者(人間)によって為されるというように考えられることになる。
そして、主体者(人間)が【仕事】を為そうと欲するのは、つまり「やりたい」と思うのは、多くの場合【仕事】そのものが目的ではなくて、【仕事】によってお金が得られるからというふうに倒錯してしまいます。
この倒錯を生みだすのが、自然言語である貨幣(お金)がもつ特性です。だからこそ「征服者」になるのだし、社会的な成功を成し遂げた人、成功を目指す人の多くがこの倒錯を克服しようとして自己啓発に励んだりする。
「仕事のために仕事をすれば、お金は後から付いてくる」
note にもそのような言説は溢れていて、高い人気を誇っています。
そのような自然言語としての貨幣ではなくて、水が自然に流れるような貨幣を人工的に造ればどうなるか?
まず、ベーシックインカムに財源は必要がなくなります。
最終的にはお金で買えないものがなくなる。
いえ、これはぼくの空想ですけれど...。
ここまで「新しい貨幣」と書いてきましたが、実はこのアイディアはもうすでにずっと前から提示されています。
シルビオ・ゲゼルが提唱し、一部で実際に発行もなされた「スタンプ貨幣」というのがそれ。
スタンプ貨幣(自由貨幣)についての説明は省きます。
自然とともに減価していく自由貨幣の最大の特徴は、貯蓄することができないということです。貯蓄をしたところで、上のモデルの例では月に10分の一ずつ減っていくわけですから、貯めたところで意味を為しません。
この特徴を自然貨幣の大きな欠点だと捉えるのが、一般的な認識だと思います。
自由貨幣は資産になりえない。
ぼくに言わせれば、そのように認識することこそが貨幣経済の内面化による呪縛です。
多くの人がこの呪縛にかかっているおかげで、人間は人間を信頼できなくなってしまっている。
現代人は貨幣経済の中で生きていかなければならない。貨幣経済の中で生きる限りにおいて、「信用(≠信頼)」できるのは、他人よりもお金です。
お金がありさえすれば、誰から信頼されることがなくても生き延びていくことができる。
これは、かの元「少年A」が(再)発見した(社会的)真理でもある。一般人は彼ほどに徹底できないからかえって真理を隠蔽することになってしまう。つまり「内面化」ということです。
文明人は、人間よりも信用できてしまうお金を発明したことで、かえって人間が信頼できなくなってしまった。
人類は、人間同士が信頼し合うことによってこの地球の生物世界を生き延び的のにも関わらず。生き延びる術を見失った種が自滅への道を辿ることになるのはごくごく自然なことだし、そうなったほうが(人間を除く)自然のためにもよいということになってしまいます。
自然言語として生成された貨幣が人間以上の「信用」を創りだしてしまうものであるとするならば、人間以上に「信用」することができず、人間同士の「信頼」を醸成していくような貨幣を人工的に作りだせばよい。
ごくごくシンプルな結論だし、それは
もはや技術的に可能
なことでもあります。
ほんの少し前までは、大きなコストがかかって実現を妨げられていたことが、現在は容易に実現することができる。
お金の「信用」を取るか?
人間への「信頼」を取るか?
このように二者択一を迫られたなら、だれもが後者を取りたいと思うことでしょう。けれど、現実として、多くの者が多くの場合取っているのは前者です。
この「現実」を見据えることが「〈しあわせ〉の哲学」のミッションだと考えています。