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3D舞台「カタシロReflect」について思うこと

舞台の概要

ANY COLOR株式会社が展開するVTuber / バーチャルライバープロジェクト「にじさんじ」に所属するVtuber、健屋花那が1月末から2月初旬にかけて3D舞台「カタシロReflect」を配信した。

この舞台は、ストーリーを全く知らない演者(プレイヤー)が、ストーリーを把握している他の演者(ゲームマスター)の演技にアドリブで応答して進行していく。プレイヤーは演者として振る舞うだけでなく、文字通りプレイヤーとして舞台を操作する役目も担っている。言葉にすると分かりづらいかもしれないが、配信を見てもらえれば、すぐにどういうものかは把握できる。

私はゲネプロも含めて全ての配信を見たが、オススメは下記の月ノ美兎がプレイヤーを務める会である。この回はできるだけ判断材料を集めようと月ノ美兎が時間を多めに使ったり、小ネタを挟んだりしている。それによって舞台全体もいい意味で冗長性があるので、視聴者も考える時間がもちやすいと思う。医師ナカオミ役のオリバー・エバンス、少女アユム役の周央サンゴの対応力も光っている。是非配信を見て、答えの無い問いに対する思索を楽しんで欲しい。
(実際の役名は漢字とひらがなだが、便宜上カタカナで記載する)

制作クレジットは下記のとおりである。

原作:新クトゥルフ神話TRPG「カタシロ」
原作者:ディズム @DizmKDC
キービジュアル:アジャラカ
サムネイル:九二四れい
PV制作:うたかた
ME制作:YACA IN DA HOUSE

主題歌「for 0.5」
作詞・作曲:アザミ
歌唱:健屋花那
配信:https://linkco.re/GtBauxQ2

振付:おかえ

【#スコシロReflect】3D舞台「カタシロReflect」ゲネプロ映像
出演:健屋花那、オリバー・エバンス、周央サンゴ【にじさんじ】
https://youtu.be/gUCAZKm5UM0

※下記はネタバレを含みます。鑑賞前の方はご注意ください。





【ネタバレ】私ならどう答えるか

この舞台では、主に3つの問いがゲームマスターから投げかけられる。

  1. 囚人のジレンマ

  2. テセウスの船

  3. 臓器くじ

これらは最後の質問「アユムに身体を譲り、自らはロボットの身体で生きていくか」に繋がる問いとなっている。上記の問いの答えと最後の質問の答えが矛盾することもあるのが、この舞台の面白い所だろう。

それぞれの問いには、ゲーム理論や哲学の観点から様々な回答がなされている。私は専門家ではないので、そちらについてはボロを出さないようにここでは言及しない。

最後の質問に対する私の答えは下記である。

結論から言うと、身体は譲らない。ナカオミにはアユムの身体を探す作業を中断するように説得する。また、アユムは真実を知るにはまだ若いので、発達障害や小児身体障害の事例を参考に、できるだけ適切なタイミングで適切な方法で真実を告げるようにアドバイスする。真実を知ったアユムが身体を欲した場合、成人してからドナーを公募で探すようにナカオミにアドバイスする。

自らの身体を他人に譲り、自身はロボットの体に乗り換えるか、という質問の答えは、他人と自身の関係や細かな条件設定によって変わってくるだろう。私はカタシロの条件設定では、自身の身体をアユムに譲ろうとは思わなかった。

また、例え私がナカオミで、アユムとの関係が親子だったとしても、きっと同じように考えると思う。しかし、現実にナカオミの状況にこの身を置いてみないと、これには確証が持てない。人はそれまでに自分が歩んできた人生によって否応なく考え方が変わってしまうものだ。(私には元気な息子がいる。それを踏まえてどのように考えるのかは後ほど述べる)

人間は自身の幸せを追求する権利を有している。自分が身を挺してでも他人を救いたいと考え、それこそが自身の幸せだと割り切ることができるのならば、自らの命を縮めることも肯定されうる。だが、この考えにはリスクもある。その最もクリティカルな点は、事前同意だろう。相手の同意を経ていない場合、「なぜあの時に助けたんだ」と恨まれたり、実際に不幸な状況に他人を貶める可能性があるのだ。しかし、事前同意を得ようとすることによって、より問題を複雑にすることもある。

カタシロの状況下では、アユムが幼すぎるため、アユムに事前同意を得ることは問題を複雑にするだけだと私は考えた。また、ナカオミが私に事前同意を得ずに私に手術を施したことは不当だと考えたが、この点は「身体を譲らないのであれば100%確実に元の身体に戻せる」ということで不問にした。

事前同意があったとしても、他人の人生に介入することには大きなリスクが伴う。善意で行った行為が、どこかで誰かの不幸を生むかもしれない。あらゆるリスクを把握するということは不可能である。リスクを恐れていたら何もできなくなる。リスクを恐れるならば、不幸になるかもしれないので、子供を生むべきではないし、他人とは関わらない方が良いという結論に陥ってしまう。

しかし、今この時空に誕生してしまった以上、私たちはどんな選択をしてもリスクを避けることはできない。不幸になる子供を作らないつもりが、幸福になる人を減らしているかもしれない。他人に関わらないことで、その人を救えなくなるかもしれない。そして、そのリスクを全て計量予測することは不可能である。(計量予測可能だとする考えもあるが、私はそれには与しない)

そのため、一定程度のリスクを「責任」というフィクションで受け入れることによって、社会は成り立っている。責任さえ果たせば、基本的に社会の中で人間は何をしようと自由だ。リスクに過度に怯えず、できるだけ自身の欲望を実現することを私は肯定する。

カタシロの条件下でのナカオミの欲望は、アユムに幸せになってもらうことである。そこまでは良い。問題はその次だ。ナカオミはアユムが幸せになるためには、アユムに新たな身体が必要だと考えている。親として、身体を失った子供に同じものを与えたいという気持ちは理解できる。しかし、本当にアユムの幸せに身体が必要なのかは分からない。

この世界には先天的にも後天的にも障害を持った人生を過ごす人が沢山いる。酷に聞こえるかもしれないが、自分の意思と関係なく絶えず変化する条件や環境で、どのように幸せを追求するかは、最終的に本人の主体性によるのだ。私はアユムが自らの力でその幸せを見つけることを信じているし、もし私がナカオミの立場になってもその希望を捨てることはないだろう。

次に、身体を第三者から提供してもらうことの正否が問題となる。この線引をどこにするかというのが、最後の質問の肝である。

もし誰かの利益になることを行う際に、第三者への負の干渉が必要な場合は、事前同意が必要であることは既に述べた。親としてできることは、あくまでその事前同意を成立させる努力であるというのが私の考えである。事前同意なしで第三者への負の干渉を許すと、社会とアユムの人生の間に齟齬が生じてしまい、その齟齬に社会やアユムが耐えられなくなる。それにより、結果的にアユムも不幸になるのではないかというのが私の考えだ。

たった二人の「例外」で社会問題になどならないと考える人もいるかもしれない。しかし、9歳の少女が成人の身体を手に入れてしまえば、発達上のケアが必要になる。ロボットの体が意に反して暴走して人命を脅かすかもしれない。移植手術のことを知って、自分にも同じ施術を望む人が出てくるかもしれない。人間が人生を全うしようとするとき、社会との接続からは逃れられないのだ。

ということで、私の考えは、アユムと社会のどちらを守るか、というところに行き着いてしまった。私は人間社会を守った。そして、アユムが人間社会の中で人生を切り開いていくことを希望した。その意味で、私は保守的かもしれない。

私には息子がいると前述した。私は息子についても同じように考えている。息子が厳しいハンディギャップを背負ったとしても、その中で自分なりの幸せを見つけ、社会と折り合いをつけながら人生を全うして欲しい。もちろん、臓器移植など、社会的にコンセンサスがとれた手段はどんどん使って欲しい。もしそれでも足りず、新たな支援を欲するのであれば、社会に訴えかけて欲しい。

今の人間社会なんて腐りきってるじゃないか。アユムのような純真な少女にこそ新たな未来を託すべきだという考えもあるかもしれない。しかし、3日しか一緒に過ごしていない一人の少女に、そこまでの命運を託すことは私にはできない。いや、自分の息子にもそういうことを言うことはできない。

人生には正解がない。それゆえに希望もあれば、苦しいこともある。人間社会との関わりから人生は逃れられない。人間社会は時に個人の欲望を叶え、時に欲望の妨げになる。あえて「責任」というフィクションを受け入れるなら、それを子供と共に考え、実感しながら、欲望を見つめ、自立を促すのが親の「責任」ではないだろうか。子供はいつかは親から離れなければならないし、自然と離れていく。そのようにして、アユムにも自分の人生を歩んで欲しい。


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ぐしゃうん
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