勇気と無謀の違いは神様も教えてくれなかった (6)
僕は寝室で聖句を唱えて守護天使バクティを具現化し、癒しを行った。男の血まみれの後頭部とミレイユの背中の傷はすぐに治った。
眠っている男を起こさないようにと、僕らは寝室の隣の居間へ移動した。ミレイユがランプを点すと、質の良い調度品でととのえられた室内の様子が浮かび上がった。
僕には、彼女に言わなければならないことがあった。部屋が完全に明るくなるのも待ちきれず、声を張り上げていた。
「申し訳ありません! 玄関のドアを壊してしまいました! 明日必ず修理に来ますので、どうかお許しを……」
「いえ、あの……私の方こそ、昨日はすみませんでした。失礼な態度を取ってしまって。誰にも話すなと、夫に強く言われていたものですから。それに……お坊さんに頼っていることを、近所の人たちに知られたくなくて」
ミレイユは困ったように口ごもった。
夜中にいきなり家に乱入され、ミレイユは明らかに動揺しているし、迷惑そうでもある。けれども数刻前に会ったときと違い、敵意や拒絶は感じられない。
ミレイユと僕は、お互いに詫びの言葉を口にしながら、頭を下げ合った。
勧められないのに椅子に腰を下ろしたロランが、しびれを切らした様子で、テーブルを平手でバンと叩いた。
「どうでもいいんだよ、そんなこたぁ。……おい、おまえ。亭主を助けたいんなら、話を聞かせろ。いったい何が起きてるんだ、この家で?」
その低い声には、人を動かさずにはおかない凄みがあった。
ミレイユはうつむいたまま重い口を開き、ぽつりぽつりと語り始めた。
ミレイユの夫であるタクマインは、二月ほど前から発作を起こすようになった。ちょうど、勤めていたガラス工房をやめたばかりの頃だ。もともと丈夫な働き者で、病気一つしたことのない人だったのだが――ある夜突然、尋常ではない苦痛に襲われ、わめきながらのたうち回るようになった。
「長年無理をしてきたからな。そのせいだろう」
タクマインは発作を過労のせいにした。ミレイユがいくら医者を勧めても聞き入れようとしない。
発作は毎夜のように襲ってくる。苦しむ夫を見かねて、ミレイユは暴れる夫の体を抱きしめるようになった。自分の背中に爪を立てることによって、夫が苦しみに耐えられるのではないかと思って。
「でも私、本当はずっと不安だったんです。夫は『我慢していればそのうち治る』と言いますけど、少しも良くならないし……もしかしたらこのまま死んじゃうんじゃないか、って。こんなに苦しいのに、どうしてお医者にかかろうとしないのかしら」
うなだれたミレイユの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「このヴィーエ街では、やけに人死にが多くて……呪われているんじゃないか、なんて言う人もいます。今年だけで、近所の男の人が五人も亡くなってるんですよ。みんな、夫がガラス工房に勤めていた頃の同僚ばかりです。夫の具合が悪いのも、この土地の呪いのせいじゃないかと思うと、私……怖くて……」
ミレイユは涙に濡れた瞳ですがるように僕をみつめた。
「お願いです、使徒様。お祓いをしていただけないでしょうか。この土地の呪いを祓ってください。そうすればきっと、夫も発作を起こさなくなると思うんです……」
「呪いだなんて! そんなものは存在しませんよ」
僕はきっぱりと答えた。呪いなんて迷信だ。神の行いはすべて、人への愛に基づいている。この世のすべての事象は、人がより良く生きる方向を指し示す、神からの贈り物なのだ。
「神の御業で、タクマインさんの病を癒すことはできます。どうか、神にもたれてください、ミレイユさん」
僕は心の底から叫んだ。
「神の御業は、澄んだ魂や、神を受け入れる魂に対して、より大きな効果を発揮します。一度、タクマインさんと一緒に教会へ来て、祈ってください。一度でも神にぬかずくだけで全然違ってくるんですよ。夫婦が心を合わせれば素晴らしい奇跡が……」
「亭主を医者に見せろ。本人が嫌がろうが何しようが関係ねぇ」
と、ロランが割り込んできた。
僕は舌打ちしそうになるのを懸命にこらえた。せっかく信仰の話をしているところなのに。使徒のほうから医者を勧めるなんて、どういう了見なんだ? それは任務の放棄に等しい。
目を丸くするミレイユに向かって、ロランはきっぱりと言い切った。
「この病は普通の病じゃねえ。原因を知っとく必要がある」
「思い出したぞ。そう言えば、奇跡を起こす坊主がスぺクロに来ていると、町の連中が騒いでおった。あれは、あんたのことか。……本当にそんなことがあるもんかね。お祈りで病気が治るものなら、わしら医者は商売あがったりじゃないか」
グレゴル・ゼフォン博士は丸眼鏡の奥から、疑わしげな視線を僕に投げた。
豊かな髪に、彫りの深い四角形の顔。ぎょろりとした目に、大きな鷲鼻。いかにも「町の名士」という感じの威厳あふれる老人だ。
僕が答える前に、
「じゃあ、さっさと廃業しやがれ」
と、ロランが口をはさんできた。
敵意全開で睨み合う二人の間に、あわてて僕は割って入った。
「あなたは神を信じておられないのですか、博士」
角が立たないように、できるだけにこやかに尋ねてみる。ゼフォン博士は、ふん、と鼻をうごめかせた。
「あいにくわしは科学者だからな。その辺の無学な職人どもとは違う。……患者の心の持ちようによって容態に変化が生じ得る、ということは否定せん。だが、そこまで強い妄信にとらわれるのは、教育を受けていないからだ。神だの何だの、そういう非科学的なたわごとは、わしには聞かせないでもらおうか」
「ほぉー、上等じゃねぇかジイさん。神の御業の威力、一度その身で確かめてみるか」
「もう、いい加減にしてくれよ。喧嘩しに来たわけじゃないだから!」
ロランの挑発にもひるむことなく、ゼフォン博士は昂然と頭を持ち上げ、強い視線で僕たちを睨んだ。
「そもそもあんたらの言動には矛盾がある。神の力で何でも治せるというなら、医者など不要じゃないか。そうだろう? なぜわしに往診を頼もうとする?」
「誰が好きこのんで、てめえみたいな強欲ジジイに……」
ロランの悪態をかき消すために、僕は腹の底から大声を張り上げた。
「あなたには見立てをお願いしたいんです、博士。病の原因が何なのか。僕たちでは、痛みを取り除くことはできても、診断まではできませんから」
――タクマインの不審な発作を目撃した翌日、僕はさっそく医者を探したのだ。顔見知りの町人に尋ねてみたところ、こんな大きな町なのに、スペクロには医者はいないという。少し離れた隣町まで行かなければならない。
近隣一帯の病人を一手に引き受けているゼフォン博士は、大変な豪邸に住んでいた。僕らがそこに着いたのは、夜の帳が完全に下りた後のことだった。
重々しい玄関扉を入ってすぐ左手にある診察室らしい部屋で、博士は僕らを出迎えた。
「往診なら、馬車を呼んでもらわなくてはな。わしは歩いて行くのはまっぴらごめんだ」
それが博士の第一声だった。
僕はうなずいた。長い道のりなので馬車は手配してあった。
小ぶりなシャンデリアに照らし出された診察室内は明るかった。白塗りの壁は年代物らしい本棚に埋め尽くされている。本棚のほかには書き物机と座り心地の良さそうな椅子、そして部屋の真ん中に診察台。どの家具も木目が美しく、高級品であることが見て取れた。けれども僕の注意を引いたのは、書き物机の上にある円筒形のガラスの置物だった――どういう細工なのか、中に楕円形の金属板が埋め込まれていて、その板には黒地に金色の文字で「われら人間の叡智をもって、自然を征服し使役せよ」と書かれている。
馬車が来るのを待つ間、博士は無言で往診用の鞄にいろいろな物を詰めていた。この人は僕が知っているどんな医者とも違うな、と思いながら、僕は博士を眺めていた。
たいていの医者は、まず患者のことを知りたがる。年齢や性別。今の状態。
それなのに、このゼフォン博士は、患者がどこの誰なのか尋ねようともしない。口にしたのは馬車のことだけだ。
すると、博士は急に鞄から顔を上げた。
「わしの往診料は安くはないぞ。夜中に出向くからには特別に時間外料金ももらわなきゃならん。おまえさん方は、あまり金を持っているようには見えんな。先に金を見せてもらおうか」
「……」
僕は神に仕える者として、できるだけ人の悪い面を見ないように心がけている。それでも、博士の態度に誠意の無さを感じ、不安を覚えずにはいられなかった。この人は患者のことなんて、何も考えていないみたいじゃないか?
ロランの方は反感をはっきりと示した。「てめえ金のことしか頭にないのかよ、このヤブ医者が」と、僕があえて思い浮かべないように努めていた言葉をずばり口にした。
博士の顔が見る見る険悪になった。僕に向かって、
「この小さいのは、あんたの子供か何かか? 一人前の大人にしちゃ背丈が足りていないようだが。黙らせておいてくれ。不愉快じゃ」
僕は、ロランが博士に殴りかかるのを止めるため、全力を振りしぼらなくてはならなかった。博士もすっかり機嫌をそこねてしまった。悪態を投げつけ合う二人を、なだめながら馬車に乗せるのは大変だった。
――僕らがスペクロ町のヴィーエ街に着いたのは真夜中に近かった。ヴィーエ街の外れにあるミレイユの家は、塩街道から歩いてすぐだ。明かりの消えた家の中からすでにタクマインの荒々しい唸り声が漏れてきていた。ゼフォン博士が顔色を変えた。
医者を連れて行くことをあらかじめミレイユに教えてあったので、扉には鍵はかかっていなかった。僕らは家の中に踏み込んだ。
奥の寝室ではタクマインが目をむいて苦痛に暴れ回っていた。
「その男を押さえるんだ!」
ゼフォン博士が叫んだ。僕とロランはタクマインの腕を一本ずつつかんで寝台に押さえつけた。寝室の隅に顔をひきつらせたミレイユが立って、悲鳴をこらえるかのように、握り拳を口元に押し当てていた。
博士は手際よく火打石を打ってランプに明かりを点すと、それを掲げて寝台に歩み寄ってきた。そして慣れた手つきでタクマインを診察した。
ひと通り確認を終えると、鞄から取り出した小瓶の液体を綿球に染み込ませ、それをかなり乱暴にタクマインの一方の鼻の穴に押しこんだ。眠り薬だったのだろう。タクマインの体からふと力が抜けた。両目を閉じ、寝息をたて始めた。
「この症状は病ではない」
博士は僕に向かってそう宣言した。立ちすくんだままのミレイユに向き直り、
「あんた、この人の奥さんかね」
彼女がうなずくのを確認してから、博士はおだやかな口調で説明を始めた。
「あんたの夫は、俗に〈生命の欠片〉と呼ばれる薬品を常用していたと思われる。あんたも何度か家の中で見かけたことがあるんじゃないかね? 真っ黒な粉だ。これぐらいの大きさの(と、指で幅を示しながら)塊になっていることもある。
人の身体活動と精神活動を非常に活発にする薬だ。薬に体が慣れないうちは……つまり最初の二、三回の服用時には多少の感覚の混乱が見られるが、やがて薬を服用すると、ひどく良い気分になれる。自分が偉人になったように感じられ、何でもできると感じる。そして疲れを知らず何時間でもぶっ通しで動き続ける。
薬を定期的に服用している間は、その良い気分が持続するが……服用をやめたとたん、あんたの夫のような症状に陥る。服用中は神経が異常な興奮状態にあったので、その反動が来るのだ。全身を焼かれるような苦痛を覚えるらしい」
「『禁断症状』ってやつか」
ロランが僕には耳慣れない単語を口にした。ゼフォン博士は渋面のまま、ふむ、と唸った。
「坊主にしては、しゃれた言葉を知っているじゃないか? ともかくこの症状は、医者にはどうしようもない。これ以上ひどくなることはないから安心しろとしか言えん。何日か、何週間か、あるいは何か月かすれば……〈生命の欠片〉を服用していた期間の長さにもよるが……薬の影響が抜けて、今の症状も治まるだろう。それまでは我慢することだな」
「真っ黒な塊? 〈生命の欠片〉? 何のことですか。私には、さっぱり……」
ミレイユが呆然とした様子でつぶやいた。思いもかけない診断に、すっかり混乱している様子が見てとれた。