勇気と無謀の違いは神様も教えてくれなかった (1)
第1章 新たなる旅立ち
はがれ落ちて垂れ下がる天井板。朽ち果てた祭壇。
廃墟といってもいい教会の真ん中で、僕は聖句を唱え終えて水の印を結んだ。
「……第六の円弧開放。具現化。出でよ、守護天使 バクティ!」
開放された内なる円弧からあふれ出す法力。四方の壁を境界として、僕の法術が発動する。
そのとたん、僕を取り囲んだ町人たちの口から、おおっ、という感嘆の声がいっせいに湧き起こった。
埃だらけの礼拝堂が、うっそうと木々の生い茂る森の中の光景に変わる。ひんやりとした空気。遠くで聞こえる鳥の声。
僕の守護天使バクティは、青銀色の長い髪をまっすぐ背後に垂らした、ほとんど無色の肌と目をもつ青年の姿をしている。守護天使は大きな水瓶を携えて、列をなした病人たちにゆっくりと近づいていった。病人たちの先頭にいるのは、流行病で皮膚がただれ、痛々しい赤みをさらけ出している老婆だ。
バクティは水瓶を傾け、老婆の患部に水を注ぎかけた。老婆は心地よさげに目を細めた。
「おおっ……冷たくて気持ちがいい……いや……なんじゃ、これは……あたたかい……とろけるようじゃ。おおっ、これは……!」
水の触れた部分から、老婆の皮膚が元の肌色を取り戻し始めている。
悲鳴に近い驚きの声が町人たちの口から漏れた。何人かがすばやく跪いて三根源の印を切り、祈り始めた。
これこそ、神が使徒に対して特に許し給うた奇跡の御業。使徒の守護天使は人の魂に直接働きかけ、病んだ魂を癒す力を持っている。魂が癒されれば、魂と一体の存在である肉体と心も癒される。
医者も見放す難しい病気をたちどころに治す――それが守護天使の力であり本分だ。
バクティは、教会に集まった希望者全員に対し、癒しを行った。病人や怪我人が次々と回復していった。初めて目のあたりにする神の御業に皆が感激していた。
そろそろ良い頃合いだと判断したのか、僕の同行者であるヨハヌカン・ナセロディーン先輩が隅から中央へ進み出て、皆にほほえみかけた。
「病や怪我を癒すのは簡単です。私たち使徒が、神と皆さんとを仲立ちすれば、神の御力によりどのような難しい病でもたちどころに治ってしまいます……たった今、皆さんがご覧になった通り」
ヨハヌカン先輩は三十六歳――僕の年齢の二倍――だが、色白の顔とすらりとした体形のせいで若々しく見える。人は見た目で判断されがちだから、さわやかな容姿は使徒にとって強力な武器だ。
僕とは大違いだ。僕は十六歳で高等神学校に入学するまで、辺鄙な山奥で木こりの息子として暮らしていた。怪力の家系に生まれたので、幼い頃から大人に立ち混じって働くことができた。そして、その生き方通りの外見をしている。素朴な顔立ち。暑苦しいほど盛り上がった全身の筋肉。
「しかし、皆さんの魂に刻み込まれた疵、穢れは、私たちの力では取り除くことはできません」
と、ヨハヌカン先輩は芝居がかった様子で声を張り上げた。
「人は皆、曇りのない清らかな心身を持って生まれてきます。けれども生きていくうちに、心はどうしても汚れ、曇っていきます。他人を恨み、ねたみ、意地悪をし……他人から何かを奪い……他人を陥れる。些細な罪は、誰だって犯しています。そして、それはすべて、皆さんの魂に疵となって残るのです。犯した罪が積もり重なり、魂がどうしようもなく穢れてしまうと……待っているのは地獄落ちです」
ヨハヌカン先輩は、地獄がどんなに恐ろしい所か、こと細かに説明した。町人たちは一心に先輩の言葉に耳を傾けている。
「魂に刻まれた穢れを払うには、皆さん自身が悔い改め、祈るしか方法がありません。魂の穢れは、正しい生活によってのみ浄化できます。よく働くこと、嘘をつかないこと、人に親切にすること、みだりに欲に流されないこと。そうやって正しく生き続ければ、死後の地獄落ちを免れることができるでしょう。
しかし――皆さんがこれまで重ねてきた罪が大きすぎる場合。あるいは、意志が弱くて、死ぬまで正しい生活を守り続ける自信がないという場合。死後は地獄に堕ちてしまうかもしれません。そんな方のために……神はちゃんと救済策を用意してくださっています。神はどんな人も見捨てたりはなさらないのです」
ヨハヌカン先輩は懐から、聖句がびっしり書き込まれた長方形の紙片を取り出し、頭上にかざしてみせた。
「これは教皇庁発行の朱印免罪符です。過去数百年にわたって数多の聖人が積んできた功績のお徳を頂戴し、教会につながる人々の罪に対する償い、罰、苦難を教会が免除するという、権威ある証明書です。どんなに穢れた魂も、この免罪符さえ買えば、教会の御名において救済されるのです。一枚、千ファーイラ……けれどももちろん、枚数を買えば買うほど、魂はますます救われていきます。来世で、恵まれた境遇に生まれ変われる可能性も高くなりますよ」
町人がどよめいた。そのどよめきの中に、感心したような響きが混じっていたので、僕は販売の成功を予感した。
ヨハヌカン先輩が町人たちに免罪符を売り始めたので、僕はそれまでずっと発動させていた法術を解いた。守護天使バクティが消えた。法術で現出されていた森の風景も消え、荒れ果てた礼拝堂の姿が戻ってきた。
法術を発動し続けるのは、体にこたえる。僕は体力には自信があるし、高等神学校の同級生の中で法力がいちばん強いと言われていたが、それでも三十人近くを続けて癒すとさすがに疲れを覚える。
礼拝堂の隅に壊れかけた椅子があったので、腰かけて休ませてもらうことにした。
「あいにくですが、値引きはできないんですよ。神の御守護に『割引』などというものはないんです。『呼吸が二割引き』されたら、どうなると思います? あなたが当然のようにしているその呼吸。五回のうち一回は、まったく空気が吸えなくなるとしたら。大変でしょう?」
「ああ……分割払いというのもありません。私たちは物売りではなく神の使いですのでね。……え? 『千ファーイラは高い』? まあ、確かに。しかし、執着を断ち切って、つらいと感じる金額をあえて手放すからこそ、神に近づく道も開こうというものです」
ヨハヌカン先輩のベテラン使徒らしい滑らかな口舌が聞こえる。群がる人々を手際よくさばく有様は、正直なところ、街角の物売りにそっくりだ。
僕たちの役割分担ははっきりしている。僕が法術を発動させて、守護天使で人々を癒し、ヨハヌカン先輩が免罪符を販売する。適材適所というやつだ。僕は法力が強いし、先輩は販売がうまい。
不意に、僕の上に影が差した。高窓から差し込む日光を、何かがさえぎったのだ。
僕はゆっくりそちらへ顔を向けた。
枯れ木が服をまとったような、痩せこけた老人が立っていた。深く日に焼けた顔の中で、濁った眼球がぎらついた激情をたたえて僕を見据えている。思いつめた様子だ。
「どうかされましたか?」
相手の緊迫感をやわらげようと、僕はほほえみ、できるだけ穏やかに尋ねた。
老人の口元が、ためらうように震えた。が、
「わしの孫を……ミーナを助けてくれ。頼む」
苦悩に満ちた声が一気に吐き出された。
僕はすかさず立ち上がった。どれだけ疲れていたって、助けを求める人がいるなら、じっとしているわけにはいかない。それが使徒の役割だ。
「わかりました。お孫さんはどこです? 家で臥せっておられるんなら……これから一緒にそちらへ行きますよ」
「違うんだ……病気じゃない。ミーナは、家にはいない」
老人は弱々しく首を横に振った。
「連れて行かれた、さっき。ガンツ・ゴーダムの屋敷に。……わしの息子はゴーダムに借金があるんだ。とても返せる額ではなくて……だから、『金の代わりに娘をよこせ』と」
思いがけない話に、僕は息を呑んだ。
「もちろん抗ったとも。ゴーダムは女好きで、下劣な男だ。これまでも、金を貸した相手の娘や、時には妻までも奪い去っておる。そんな男に大事なミーナを渡すわけにはいかん。だが、ゴーダムの手下は、わしの息子を気絶するまで殴って、あの娘を無理やり連れていったんだ……!」
僕は呆然として、老人の語るなりゆきに耳を傾けた。
日が西に傾き始めた。村人たちが去り、黄色っぽい光に照らし出された礼拝堂には、ヨハヌカン先輩と僕しか残っていなかった。
ヨハヌカン先輩は満足げな表情で、今日の売上金と売れ残った免罪符を整理し、かばんに詰めていた。
「お疲れさま、シグルド。ごらんよ、今日の売上を。一万ファーイラを超えたよ。一日でこんなに売れるなんて、さすがに、豊かな管区は違うねぇ。バンディアステラー管区は帝国で一、二を争う裕福な管区だ。こんな辺境の農村にまで富があふれているんだから、すごいよね」
「先輩。ちょっとお話が」
「しゃくにさわるのは、例のトリスティスも、このバンディアステラー管区配属だってことさ。君も聞いたことあるだろう? ロラン・トリスティス。教団内で最強の法術の使い手といわれてて……免罪符の売上は二年連続ナンバーワンだ、若手のくせに」
聞いたことはなかった。教団内の順位とか評判とかに、僕はあまり興味が持てないのだ。
「ずるいんだよなー。こんな豊かな管区を担当してりゃ、売上成績も良いに決まってる。私だって最近は、売上ランキングの二十位台に手が届きかけてるが……あんな規格外の男に上位に居座られちゃ、いつまでたっても上がれないよ。トリスティスなんか、もっと僻地に配属されればいいんだ。競争は公平でなくちゃ」
「聞いてください、先輩!」
僕が声を張り上げると、先輩は口をつぐんだ。「声が大きいよ、シグルド。君は何事にも、加減というものを知らなさすぎる」とぼやきながら耳穴をほじくる先輩に向かって、僕は老人から聞いた話をすべて伝えた。
僕が話を終えると、ヨハヌカン先輩の顔に悲しげな表情が浮かんだ。
「気の毒な娘さんだ。心が痛いよ。ミーナさんのために神に祈るとしよう」
「…………それだけですか?」
「それだけって。私たちは神の使徒だよ? 神に祈る以外に何があるというんだい?」
ヨハヌカン先輩はきょとんとしている。本気でぴんときていない様子だ。
相手が先輩でなければ、僕はもどかしさのあまり両肩をつかんで揺さぶっていただろう。
「急いで助けに行かなくちゃ! 苦しんでいる人を助けるのが、僕たち使徒の使命のはずです」
「それはそうだけど。私たちの役目は、苦しんでいる魂の救済だよ。人さらいに対処したり、治安を維持するのは駐屯兵の仕事だ。少女がさらわれたことを駐屯所に届け出れば……」
「駐屯所に届け出たって、実際に動いてもらえるまで何日もかかります。そんなに待っていられません」
ヨハヌカン先輩は、ふううっと音を立てて息を吐いた。そして白くて薄い手のひらを僕の教服の胸に当てた。金の詰まったかばんより重い物を持ったことのなさそうな、すんなりした手だ。
「信仰を思い出せ、シグルド・エスフェル。君は使徒だろう? 高等神学校を卒業して、こうやって布教の旅をしている身だろう? 信じるんだ、全能なる神を。そして、もたれ切れ」
「はあ」
「もし神が、さらわれた少女を助けようとお決めになったら、神は必要な道具を手配して、それを実現なさるだろう。この世において、神にできない事はないのだから。
もちろん、知っての通り、この世のすべての不幸が回避できるわけではない。不幸は否応なしに襲いかかる。誰を救い、誰を救わないか。すべては神のご意志だ。人間に、神の思惑を推し量ることはできない」
「……はあ」
「だから、祈るんだよ。彼女を助けてくださるように神に祈るんだ。それが私たち使徒の役目だ。万能なる神の慈悲にすがり、救いがもたらされることを願う。私もぜひ、一緒に祈らせてもらうよ。二人で彼女の無事を願おう」
澄んだ瞳を輝かせて見上げてくるヨハヌカン先輩に向かって、僕は「はあ」と三度目の生返事をした。
正直、さらわれた少女のことで頭が一杯で、先輩の言葉はまったく耳に入っていなかった。
「わかりました。じゃあ、僕一人で助けに行ってきます」
僕は駆け出した。
「……って、全然わかってないよね? 待て、シグルド、行っちゃだめだ!」
後ろから先輩の声が追ってきたが、僕は振り向かなかった。