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“リビングルーム工房” : 暮らしの中で、編み物をするように木工をする

■リビングルーム工房とは

木造平屋の自宅のリビングの一角の、畳一畳分くらいのスペースに小さめサイズの毛布をひろげて、グリーンウッドワーク(生の状態の木を、斧やナイフなどの手道具で加工する木工)をたしなんでいます。

その一角を、”リビングルーム工房”と呼んでいます😊

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△ 近頃ちょっと散らかしっぱなし…。はつり台の脚を複数制作中のため、「削り馬」というまたがって使う道具を広げています。ふだんは削り馬はしまってあって、ナイフ、斧、はつり台、木削り用エプロンのみ。

生活スペースとは別に工房を持つことは、いろんな意味から叶わないのもあるのですが、生活の中でちょっとしたときに、編み物するような気軽さで木削りができることが、自分にとっては大切です(編み物も好きです!)。

生木の木削りによるものづくりを、暮らしの中に位置づけたい、というのは最初から思っていたことでした。

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△ 「削り馬」が出てないときはこんな感じ。ふだんは、はつり台と斧を覆うように小さめ毛布を二つ折りにしてあって……

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△ ぴらっと開くと作業場に。スプーンなどの小物づくりならこれでOK。

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△ よく使うナイフやえんぴつは半自作のツールロールに入れて隣の椅子にひっかけています(サブのナイフは木箱に挿して隣の台に置いてあります。

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△ その他の道具や砥ぎ用具はリビングの隅に、ワイン箱と桐箱に入れてしまっています。編み物の道具などもここに。本棚にしている古いピアノ椅子の下。

■北欧にかつてあった暮らし方でした

必然性から、こういう小さな規模&最小限の手道具で、グリーンウッドワークをするスタイルに落ち着いたわけですが、少し前に、『北欧 木の家具と建築の知恵』(長谷川清之さん著)という本を楽しく読んでいたら、とても興味深い事実に突き当たりました。

長谷川さんが北欧の民家の調査をする中で気づいたそうなのですが、フィンランドの古い民家では、木造平屋の一間を、2本の梁のようなもの(正確には細い棚板を頭の高さで中空に渡したもの)でゆるく”間仕切り”し、広いひと隅をリビングダイニング&応接間に、その対角線のひと隅を炉(=キッチン)に、そして残りの細い2隅はそれぞれ木工作業場と織物作業場(+ベッド)にしていたそうなんです。

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家の中を、キッチン/リビングダイニング/木工作業場/織物作業場、というふうにわけていたのですね。寝室は織物作業場と合体。

木工と織物という手仕事が、生活に占める割合の大きさがうかがえました。そうやって手を動かしながら、長い冬のあいだ、おうち時間を過ごしてきたこと……。

生活空間の中に木工作業ができる空間がある、ということについては、フィンランドのお隣の国、スウェーデンの伝統的木工家、Wille Sunqvist(ヴィッレ・スンクヴィスト)さんが1988年に出版された自著『Tälja med kniv och yxa(ナイフと斧で削る)』で書かれていたことも、興味深いです。

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△ ヴィッレ・スンクヴィストさんの著書『Tälja med kniv och yxa』の英語版

ヴィッレさんは子ども時代、お隣に暮らすおじいさんの家へ、よく遊びに行ってはキッチンで木削りをしたそうです。キッチンにおじいさんの木工作業台が置かれていて、そこで削り散らかすわけですが、「祖母は一度たりとも、キッチンの床に散らばる削りくずについて小言を言ったことがなかった。それが今も心に残っている」とおっしゃっています。

ヴィッレさんによると、キッチンは家の中で一番暖かく保たれている場所なので(炉のおかげ、ですね)、そこで女性たちは糸つむぎや織物、編み物をし、男性たちは生活道具や農機具などを手づくりしたんだそうです。かつてはそれが「ふつう」のことだったからこそ、おばあさまは削りくずに対して小言を言う発想がなかったんだろうと思います。

でもスウェーデンも近代化がすすみ、そうしたライフスタイルはヴィッレさんが大人になる頃にはすでに変化を遂げ、「現代の家では、削りくずを出したり家の中にはつり台を置いたりすることは受け入れられていません。木工は家の中ではやってはいけないことになっていて、ガレージや地下室でしかできなくなっています」と書いていらっしゃいます。

一方で、糸や毛糸を使う手仕事は、家の中でやってもいいものでありつづけてきました。編み物や織物なら、そうやって家族と一緒に過ごしながらできるのに、どうして木削りは同じようにできなくなってしまったのか、と、1988年当時のスウェーデンで、ヴィッレさんは疑問を投げかけていました。

「ナイフと斧を使うために専用の小屋は要りません。斧を使うにははつり台が必要になりますが、はつり台は大して場所をとりません。リビングのソファで木削りをしたっていいのではないでしょうか? 私はよくそうしています」と書いておられます。

私自身は、ほんとうは森の中、木々の間の”アウトドア”な工房で作業をするのが一番の理想です(最初にグリーンウッドワークを体験したのが、そうした”生きた森”の中にある工房で、原始的テントで寝泊まり+焚火で料理という生活をしつつ椅子をつくる、というものだったせいもあり……)。でも自分の今の暮らしではそれは叶わないので、おのずと、リビングの一角で木削りを始めることになって、後からこのヴィッレさんの言葉を読み、はからずも北欧の昔の暮らし方に近づいていたことを知りました。

今も、手仕事が暮らしの中にいつもあってほしい、と感じていて、それはほぼ「なくては困るもの」です。精神の安定のために、手を動かすことが必要です。

かつてのフィンランドやスウェーデンの人たちが手を動かしていたときとは、内容も質も異なる切迫さのはずですが、切迫さがあることには変わりないです……。

■一生活者として……

グリーンウッドワークの”プロ”になりたいわけではない気持ちが常々ありました。そうでなく、暮らしの中に、木削りによる暮らしの道具づくりを位置付けたかった……。

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△ 小さいスプンの粗削りを終えたところ。この後数日乾燥させてから、仕上げ削り。材は友人の家のそばに生えていた、みずみずしいリョウブの枝。

ここ日本では、手仕事の分野で分業が進んできた歴史があって、専門の職人さんたちがすばらしい精度でものづくりをすることが一般的です。できあがるものは、ほんとうに精緻で見事で、すばらしい。

そのすばらしさを日本ならではの素敵な文化として、誇りに感じる部分も自分の中にありますが、もっと精緻さや完璧さから遠いところで、生活者がそれぞれの感性と工夫と必要性からつくる”おおらかな”ものづくりにも、大変に惹かれます。

もっと一人一人が自分の手に、「手仕事」や「つくること」を取り戻してもいいはず、と思ったりするのです。

わたしはグリーンウッドワークを学んでいくなかで、上手にできない限りグリーンウッドワークをやろうとし続けてはいけないような気持ちに、たびたびなりました。プロの木工職人さんの技や意気込みを目の当たりにして、自分が遠くへ吹き飛ばされてチリになるような気持ちになったこともあります。

(※残念だったのは自分の反応であって、職人さんはすばらしかったのです。そのときは圧倒されるばかりでしたが、今はお目にかかれてよかったなあと心底感じています)。

でも、そうした残念な反応をしなくてもよかったはずなのに、という想いがあります。ものづくりは誰もがやっていいはずだし、暮らしの中で創意工夫やひらめきを楽しみながらやる手仕事の営み、身の回りの木々のことが具体的に手のひらを通じて、五感を通じて感じ取れることの喜び、自分でつくったものを生活で使う気持ちよさ、そういうものに、価値がないはずがない、と思うのです。

デジタルなものが日常に増えているからこそ、手仕事を暮らしの中に取り戻して、ちょっとでも「ぐりとぐら」みたいな丁寧な暮らしに近づきたい気持ちが自分の中では増しています。

忙しい生活の中で、木削りしているヒマなんてない、という方も大勢おられることはよく承知していますが……。何か小さなものでも、自分の手でつくりだしていければ、体の中に力や元気が取り戻ってくることを、自分の体験からも、思うのです。

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△ 栗の木の枝からスプーンを削っているところ。匙面を削る前の木目がとってもおもしろい……。削り心地も栗の木に特有のしゃりしゃり感が。

こうやっていることが、この森の国で長く息づいてきた木の文化を持続させる、ささやかな一手になるなら、さらにいいなあ……と感じています。

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ぐり と グリーンウッドワーク:https://guritogreen.com



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