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私がなぜ 「書評。物語はこんな宇宙」の記事を書いているのか

 2024年の8月中旬から「書評。物語はこんな宇宙」の連載を始め、無事10回目を迎えることができました。物語とは自分にとってなんであるか考えるのは楽しいですし、読んでいただいた皆さんが、こういう本もあるんだと紹介した本に興味を持ってもらえたらいいなと思うので、愚直に、このまま第100回を目指して突き進もうと思っています。

私は、Noteの最初の自己紹介の記事の習慣を知らず、書評をいきなり始めてしまっていて、そもそもなぜこいつは書評の連載を淡々としているかと疑問に思う方もいると思います。なのでここでは皆さんにこの書評の連載の経緯を説明をします。

振り返ってみれば、私は、子供の頃から本を読むことは好きでしたが、書くことには苦手意識を強く持っていました。これじゃ駄目だと、小論文を頑張ったり、英語が好きで翻訳の授業を取ったりもしました。ただ、翻訳の授業に関しては添削を先生に受けられる機会があるのですが、悲しいことに、苦い評価を受けていました。結構こうだと思ったら私は突き進むたちで、仕上がりにはムラがあり、説明するのが感覚的で下手と、自分で今書いていて切なくなるものだったからです。

授業で受けた指摘には「まさにその通り」と私自身が納得するものもありましたし、日本語や語学の参考書も色々紹介してもらうことができ、とても勉強にはなりました。が同時に私は天邪鬼なので「文章は本当にそんな形式ばって頑ななものか」と指摘に対し疑問に思うこともありました。10本書いた今となっては思うのですが、当時の私は、翻訳、書評、創作といった分野毎で、また書く相手や状況によって文は違うものであるにもかかわらず、この世界の究極の文章、それを読めば万人が納得し、意思疎通できるような、一言で言えば、すっきり解決するような文を目指していたのではないかと思います。

そして苦しんだ授業が終わり、これから文章と向き合うにはどうしたらと迷った末、たどり着いた結論があります。それは大量に読み書き発表する習慣をもって、その中で自分で感じ、判断して、自分のスタイルをつくろうというものでした。何か武道やスポーツや楽器の考えに近いですし、要するに、それは試行錯誤の一言に尽きます。そうした結論に、さらに色々な小説を読みたいという欲求も合わさり、この書評が誕生することになりました。これが経緯になります。

私は、本を読むこと以外にも、今まで歌ったり曲を作ったり、演劇をすることにも関心を持って行ってきました。今でもやっているものもありますし、続かなかったものもあります。ただ、この書評で修行のように楽しんで本を読んでいると、きっとジャンルや形式を問わず物語を表現したり分析することが、小さい私の人生に栄養素として必要なのだと感じます。

この書評では、出版されている本に限界もありますが、マイナーな国や、さまざまな境遇立場の作者も多く取り上げたいと思っています。理由は、こういった人々は、今、与えられている既存の社会やフレームにしっくりとはまらず、足掻き続けている人でもあり、パンチ力をもっていると感じるからです。境遇は、単純に創作したものの良さを左右する条件ではもちろんありませんが、それでも、この書評は、世界を移動し続けた作者、屋根裏で書き続けた女性作者、母国語を超え言語を跨いだ作者、そしてもちろん全ての作者の努力と魅力に敬意を評するものです。

皆さんがそういった物語がもつ力、包容力だったり反抗性だったりを、色んな可能性も含め、感じ取れるよう頑張りますのでお付き合いいただけると幸いです。
これからもよろしくお願いします。

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