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小説「ぼくはわるもの」02


<二年前 上木勇人>

教員五年目の春を迎えた。校庭には散った桜が積り、薄桃色のカーペットが新入生の登校を歓迎している。昔、弟が「桜の花びらは枝から千切れる間際に痛みを感じるのだろうか」と言ったことを、ふと思い出した。そんなことを僕は気にもとめたことがなかったので、この季節になると、その言葉を頭に浮かべてしまう。口の中に舞い込んできた花びらが喉にペタッと貼り付いて、吐き出そうと試みたが、ことのほか剝がれずに苦戦した挙句、唾と一緒に呑み込んでやった。
とにかく、四月の澄んだ空気を吸い、たるんだ背筋をシャンとさせた。
真新しい制服に身を包み希望に満ちた瞳で登校してくる新入生たちに交じって、眠たそうに通り過ぎていく上級生たち。「おはようございます」と声を掛けてくる子も多い。ひとりの女子が僕の腕に絡みついてくる。
「先生、カッコいいですねえ」
「こら、やめなさい」
「新任の先生ですか?」
「転勤してきたんだ。上木です。よろしく」
「あ、いま、おっぱい、見たでしょ」
「ややや、見てないけど、シャツのボタンは上までちゃんとしろ」
「ふふ、いってきまーす。上木せんせーい、生徒指導ふぁいとー」
「スカートもな、膝下にしろ」
「はーい」
人気者とまでいうとおこがましいが、不思議と生徒たちには好かれるのだ。前の学校でもそうだった。転勤早々、好意を持ってくれる生徒がいて嬉しい。照れ隠しでこめかみを掻いた。
これから毎朝、僕が校門に立って生徒指導を行っていくことになる。この高等学院では体育教師が担っている仕事だ。僕は赴任一年目でこの任務を率先して引き受けた。誰よりも早く出勤しなければならないので、先輩教師からの株も上がり、生徒とも良好な関係が築いていけるというメリットがあることを僕は知っている。
「ピアス!」
「うわーバレた」
「取らないと没収する」
「てか、誰? 先生?」
「そうだ、先生だよ。上木だ。今年度から宜しくな」
「かみき? 体育?」
「そうだ、体育の先生だ。ピアス取りなさい」
「取るけどさ、これで彼女できなかったら上木のせいな」
「人のせいにするな、そして呼び捨てはダメだろ」
「俺、まだ童貞なんだよ」
「知るかよ、そんでタメ口はダメ、不良は女子にモテないぞ」
「春よ、来い、早く来い」と歌いながら男子は仲間の輪に交じっていった。
 校則に反している者には徹底して注意と指導をするつもりだ。根気強く構えばむしろ、そういう子たちの方が親密な仲になり、情も芽生えて可愛くみえるものだ。もちろん最後まで話を聞いてくれない子もいるだろうが、この学院で少数派とされる不良たちは自然と学校には来なくなり辞めていくそうだ。
最も性質が悪いのは、何を考えているのか捉えどころがなく、不満や文句を心の内に溜めて社会を穿った目でみている生徒だ、と校長が渋い顔で教えてくれた。僕の弟なんかがそのタイプだ。これまでも、そういう生徒に出会ってはきたが、弟よりひん曲がった奴にはまだ出会ったことはない。
ただ、この高校は芸術専門の高校だけあって、変わった子供が多いらしい。そうは聞いたものの、どんな子でも向き合えば分かり合えるはずだ。手に負えないような人間は、学校なんか来ないで家に引き籠っているだろうから。僕の弟のように。
高校教員となり所謂公立の進学校に五年間在籍した後、今年度、赴任してきたこの学院は文化芸術を専攻したい子供たちが入学してくる私立の高校である。文化芸術に特化した授業が展開される傍ら普通の高校教育も行われる。その一環である体育を僕は教える。
それぞれの芸術分野に長けた教師が過半数を占める学校において体育教師の立場は言わずもがな肩身が狭いとみた。職員室に体育教師の机はなく、体育館の隅にある倉庫に設けられた部屋が僕たちの控室なのだ。
しかし、自分の能力を伸ばすことに囚われた教師が集まる環境というのは、皆が他人に深く介入しないスタンスを取っていて、今のところ僕も余計な詮索をされていない。
一度は職を追われ、転勤してきた僕にとっては都合の良い職場だった。
校門の正面に一台のタクシーが停車して妻が降りてきた。コンタクトをする余裕もなく慌てて家を出てきたのだろう、妻は大きな黒縁メガネをしている。レンズ越しから寝坊の苛立ちを確かに僕へと差し出している。僕の体は勝手に縮こまっていた。
「家を出る時に起こしてよ」
ごめん、を返す間もなく妻は小走りで僕の横を通り過ぎていった。怒っていても生徒たちの「友美先生、おはようございます」の挨拶には笑顔で手を振り返している。さっきまでの図々しい態度はどこへやらだ。この学校で妻は友美先生と呼ばれている。僕は、上木先生、を定着させよう。
「友美先生、怒ってましたね」
 僕に寄り添うように立って同情してくれている男は天野先生。モアイ像のような見た目からは想像もできない美しく優しい声。和むなあ。彼は声楽を専門としている。
「おはようございます、天野先生」
「芸術家の旦那さんは大変ですね」
「国語も芸術に入るんですね」
「もちろん。言葉が世界を創っている。すなわち日本語のプロである彼女は立派な芸術家」
「そうですね。だとしたら『起こしてよ』の他にもっと優しい台詞があっただろうに」
「優れた芸術家は我儘で感情の起伏が激しいものです」
「年々それに拍車が掛かってます。ま、また同じことで彼女の機嫌を損ねないよう気をつけます」
それを聞いて大きく笑ってから「うっかりは禁物ね。頑張ってね、上木先生」と言った天野先生は僕のお尻を軽く撫でて離れて行った。尻穴がキュッと窄んだ。嫌な気はしなかったが彼には男色の噂があり、僕の体が危険信号を出したのだろう。
うっかりしていたのではなく、寝起きの機嫌が悪い彼女を起こすのが苦手なのだ。文系の彼女はよく深夜まで本を読み漁るせいで朝に非常に弱い。先に家を出る時は必ず目覚まし時計をリビングに置きアラームをセットしているのだから許してほしい。それに僕が子供を起こし、保育園に連れて行ってもいる。結婚して子供を産むと女は偉そうになるという定説そのままだ。今や僕は彼女には逆らえない。この学校に赴任できたのも彼女のおかげだ。僕が彼女にできる反抗といえば、とてもとても小さな舌打ちくらいだ。


 まもなく始業式だというのに長い赤髪の女子生徒が焦る様子もなくとてとてと歩いて来ている。僕が視界に入っているはずなのにいっこうに速度は上がらない。
規定のものとは違う紺色のタイトなブレザー。
短く履いたスカートは白くて細長い脚を惜しげもなく露出させている。
すっぽり耳を隠したヘッドホンでは呼び止めても無視されるだろう。そう判断した僕は体ごと彼女の導線に入り通行を妨げた。それを避けるでもなく彼女は足を止め、トカゲのような黒黒しい瞳で僕をみている。大人びた顔立ち。別嬪とはまさにこのことだ。
「おはよう、君、名前は?」
「杉山紫央」と名乗った女の子は不愛想な表情を浮かべた。
「新入生だよね?」
これから続く質疑応答を覚悟したのか、ヘッドホンを外し「はい、新入生です」と答えた。
「まだ校則をちゃんと把握してないと思うけど、その髪で登校するの?」
「ダメなんですか?」
「違反しまくりだよ、そのまんまじゃ、すぐに生徒指導室に呼ばれて、停学処分をくらうよ」
「そうですか、じゃあ今日は帰ります」
「あー待って、停学にならないように他の先生たちにも話しを通しておくからさ、僕の言うことを聞いてくれるかな?」
「んー、言うことって?」
「まず髪を結ぼうか」
紫央は少し渋った様子で唇を尖らせてみせたが不満そうに髪を後ろで一つに結んだ。そして、スカート丈を膝下にすることも了承させ、ピアスも全部外してもらった。従わせるのではなく、こうやって「仕方なく私が聞いてあげた」という優位さを与えてあげれば反抗したりはしないのだ。
「その、手首のジャラジャラしてるのとかも取ろうか」
 それまで素直に指示を受け入れていた紫央の動きがピタリと止まった。「やってらんない」と踵を返し去っていこうとする紫央の腕を掴んだ。
「離してよ、私やっぱ帰る。素直に聞いてりゃ調子乗りやがって」
「調子に乗ってないよ、君の為を思って」
「あ? このまま全部脱がせて、裸にでもするつもりなの?」
「え、え、君は何を言っているんだい」
「離せよ、痴漢!」
「あ、痴漢はしてないけど。ほら、上級生に目をつけられたりとか、皆に馴染めなくてイジメとかに合わないようにさ、校則を守るってのはそんなことの抑止力になるんだよ」
「いいよ、そんな奴等、どうでもいい」
「え、そんなにこのジャラジャラ外したくない?」
 空いてる方の手で紫央の手首からそれらを抜き取ろうとした瞬間「触らないで」という甲高い声とパンッという破裂音が響いた。いって。左耳が痺れ、視界にチカチカとした光の点滅がみえる。頬を狙ったのであろう紫央の手はおもっきり僕の耳をぶっていた。鼓膜いったかもな。
「ごめん先生」
「……いいよ、こっちこそごめんな、それそのままでいいよ、ほら急げ」
 びりびり痛む左耳を擦りながら、戸惑う紫央の背中を軽く押した。あの装飾に隠れていた紫央の手首には無数のリストカットの痕があった。ぶたれる間際、僕はそれをみてしまった。

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