見出し画像

巣鴨警察署跡&巣鴨保養院跡(東京都豊島区)

行きやすさ  ★★★★★
マニアック度 ★★★★
営業時間   なし
定休日    なし


巣鴨警察署跡へ

日比谷公園で帝国ホテルの従業員から殴られ、生々しい血染めの痕跡が残る浴衣姿のまま人力車に乗って池袋へ向かっていた清次郎は、巣鴨町2丁目35番地先の道路…現在の巣鴨駅前の白山通り沿いで爆弾事件発生のため特別警備していた警官に事情聴取され、7月30日の深夜2時半頃に巣鴨署へ連行されます。

現在の白山通り。4車線で1日中車の流れが途切れることはありません。
←池袋方面  文京区白山方面→
巣鴨2丁目35番地は現在の巣鴨駅のバスロータリーにあたります(マツキヨビルがある所)当時の警官も人通りの多い駅前を重点的に警備していたんでしょう。


巣鴨警察署は現在はJR巣鴨駅と大塚駅の間にありますが太平洋戦争の大空襲により焼け落ち戦後移転したという経緯があります。

それ以前は大塚駅の北側に存在していました。

大塚駅北口からの景色。巣鴨駅から大塚駅までは車で約5分程度。
清次郎が生きていた大正時代に都内全域を走っていた都電も現在は「都電荒川線」から「さくらトラム」に名称が変わり、豊島区早稲田からここ大塚、巣鴨を通り抜け台東区三ノ輪のみの運行です。(世田谷にも路面電車はありますが東急が経営する別会社)
都電の線路を渡ると目の前に昭和の建物をリノベしたお店が立ち並んでいます。車に不都合な細いくねった小道もあり戦後もあまり手が加わっていない気配。色々街歩きをして分かるようになってきました…
大塚駅から5分もかからず巣鴨署跡地に到着。
特別区協議会のサイトで公開されている大正13年の地図(地図のほぼ中央に大塚駅がありオレンジ色の逆「く」の字型の道を北上すると警察署の文字があります)を見る限りおおよそ手前三軒あたりでしょうか?奥はマンションビルが建ち警察署の痕跡はありません。

署内の事情聴取で爆弾事件の被疑者として連行した人物が島田清次郎だと発覚し、扱いに困った巣鴨署は徳田秋聲に引き取りの連絡をします。
浮浪者同然で上京してきて他の作家たちに宿泊を頼むもことごとく断られていた清次郎を秋聲は度々泊めていたそうですが、清次郎が勝手口からあがりこんで女中部屋に居座って動かないという様な始末だったのでおそらく渋々泊めていたのでしょう。これまで散々面倒を見続けてきた秋聲も警察からの依頼を断ります。
事情聴取の調書は焼失し残っていないので詳細部分は不明ですが引き取り交渉は警察と秋聲間でおこなわれたのだと思われます。もし清次郎本人が秋聲に直接電話口で頼んでいたら結局絆されてしまいなんだかんだで秋聲は引き取りに来ていたのでは…?来てほしかったな…とつい思ってしまいます…清次郎贔屓ですので…
「友人を訪ねても独身の処ならば宜しいが、妻子のある所には一週間二週間と永居は出来ぬ、気の毒です」
これは清次郎の言葉ですが、以前と比べ明らかに言動や相貌も病的になった清次郎に対して秋聲も家族の身の安全への心配が増していたに違いなく、そもそも今まで面倒を見てくれていたのが特別過ぎる位だった訳で、秋聲を責めることなどできません。

その後連絡を受けて金沢から上京してきた母親との面会を拒絶し、質問に辻褄の合わない回答をしたりと清次郎に不安定な点がみられることから警視庁の金子准二による精神鑑定が行われます。
この金子医師は『精神病と犯罪は同胞』という思想を強く掲げていた人物であり、以前から政治的発言を繰り返したり国の安全を守る海軍の令嬢の誘拐騒動を起こしていた清次郎に対して、治療の必要性以上に治安を乱す危険人物という点が重要視された可能性が高いと言われています。
結果、清次郎は「早発性痴呆」(現在だと統合失調症)と診断され7月31日午前9時巣鴨保養院に入院が決まりました。

巣鴨保養院はどういう施設だったのか?

巣鴨には明治時代に上野「養育院」が大元の「東京府癲狂院」(改称して「東京府巣鴨病院」)という精神病院が既に存在しており、医師不足を補うため他の病院と行き来がしやすいよう近隣エリアに「王子脳病院」、「巣鴨脳病院」など複数の精神病院が設立されました。

保養院は明治34年(1901年)「東京精神病院」の名前で私立病院として開院。
敷地4000坪、建造物1200坪余りで病室125、開院当時の収容定員は252人(男182、女70)でした。
明治39年(1906年)11月に改称します。
患者の増員に伴い増築を重ね、大正時代~昭和初期は常に600人程度の患者を抱えるマンモス病院になっていました。

大正元年発行 呉秀三『我邦ニ於ケル精神病ニ関スル最近ノ施設』
 にある600分の1の保養院の見取り図。

運動場を中心にして病室4面を囲む。
洋館の南部は女。北部は男。男の病室はなお洋館の一北端より西に延ぶ。これを一区とす。(略)三区の南に連なる一折れして大広間となり、碁盤、将棋盤、オルガンなどの設備あり。(略)
男女ともに沈静室を置く。これ地獄の中の牢屋也。
~(省略)~
二カ所の男女両室の界は厳重なる関門あり。(略)患者をして一歩も病院の外に出づること能はざらしむ。

『日本医事新報』より一部抜粋

上記は保養院の院内の様子を説明したもの。
中央の中庭部分は運動場だったことがわかります。兄弟病院と言える「東京府巣鴨病院」の備品リストには野球やテニスの道具に加え農具やブランコなど遊具もあったので保養院も同様の設備があったかもしれません。
運動場は看護人警護の下、時間を設けて使用されていました。女性患者と病状が軽い男性患者は共同で開放されていましたが重度の男性患者は警護の都合で別の時間に利用していたようです。
娯楽室も比較的軽症の患者に開放されていました。「東京府巣鴨病院」はトランプ、レコード、バイオリンなども備品リストに記載されていました。また、退院が近い患者に限っては看護人付きで神社に参拝に出かけることもあったようです。

精神病院が存在しなかった時代や入院が出来ない精神病患者は島崎藤村の『夜明け前』の描写にもあるように、足枷や首輪をつけられ鎖で繋いで自宅の屋根裏や手製の座敷牢に幽閉する方法が1950年(沖縄では1972年)まで合法で日本全国で行われていました。
清次郎が入院した頃は「東京府巣鴨病院」の院長呉秀三を中心にそういった行為を廃止し、精神病患者への自由を尊重すべきという思想の病院作りを目指し始めていた時期。それが象徴的にわかるのが引用元にある「沈静室」。
ここは患者の症状によって自分や周囲に危険が及ぶ可能性がある時に一時的に隔離をする部屋ですが、他の病院では「狂騒室」と名付けられていました。
看護側の意識改革という点もそうですが、自分は正常だと信じて疑わない患者が部屋の名前を見た時どう思うのかという点で考えても…
そういった意味では清次郎は幸福な方だったかもしれません。

現・松沢病院である東京府巣鴨病院の記録は数多く残っており、その入院患者の生活用品リストです。面会人達の訪問記によると清次郎も木綿の粗末な縞の着物を着ていること、敷きっぱなしの煎餅布団に枕と古新聞以外の品は見当たらないことなどが綴られています。

「保養院」は私立病院なのですが患者数の多さに対して公立病院設立が間に合わず、やむなく国が指定した基準を満たせば公費申請が可能になるという代用精神病院制度によって1920年に指定病院になります。
そのため清次郎も公費患者として入院をすることになるのですが、私費と公費患者では食事のおかず数が違ったり治療計画も明らかに差がありました。
清次郎自身も手紙で「毎食、パン一斤と牛乳一合で、着物は身丈のあわぬ安木綿の仮縫い」だと訴えています。
病室は6畳半程度で基本的に2人で利用していました。個室利用もあったようですが保養院は入院料でなく、病状の進度と危険性により病室を区別していました。
清次郎は一階の一番外れにある合部屋だったようです。

実際の保養院の写真は本や絵葉書で数点確認できるものの、ネット掲載できるものが見つけられなかったので写真見ながらスケッチしました…私にもっと画力があれば…白黒写真で画質も悪かったので建物の色や細部は想像です。
「巣鴨は市内の賑やかさだが朝夕、牛車馬車(ほぼ糞尿車)の往来が激しい。『保養院』という大きな門札が赤レンガの門に掲げられ、石畳がヤツデの植え込みを巡って玄関に導いてくれる」「部屋は古びた六畳で、両方は冷たい壁で、入口に対した方は岩乗な鉄の格子の窓を通して、貧弱ながら木立の庭を眺められる。」
藤原英比呂という作家が書いた清次郎の面会記録の一片です。当時描かれた部屋に座っている清次郎のイラストは「誰にも愛されなかった男」にも掲載されています。

入院中の清次郎

入院してからは文章がかけるような状態ではなく、終生まともな文章を書く仕草もその能力もなかったと医師からも言われていた清次郎ですが、実際は入院した翌年5月10日に短編を書きあげた跡があり、蓋を開けてみると入院中に書かれた長編を含む小説や随筆など研究者によって翻刻されているものが18作。未だ翻刻されていないものでタイトルだけ判明しているものが16作存在しています。
しかし一方で退院するために知り合いの作家に電話をかけたり、政治家宛に退院願いのハガキを書いていますがそれらは妄想が激しく、支離滅裂だったりで病院側の判断で出されることはなかったものが残されています。もしかしたら清次郎が書いた数ある中のいくつかは相手に届けられたものもあるのかもしれません…あってほしい…

親戚や出版関係者など面会人も多かったようですが母親と会うと帰らせてくれとひどく取り乱し、数日間体調が不安定になるため会わせないようにしていたとあります。

また、清次郎の逸話として「天才と狂人の間」で清次郎が葦原将軍に侍立していたというエピソードがさも事実のように語られていますが、実際は葦原将軍は「東京府巣鴨病院」(後に移転し松沢病院に改称)から転院することなく亡くなっています。
類似した名前が多い病院を調べているうちに誤ったのか、確信犯だったのか杉森自身は明言していませんが当時からこれはまったくありえない話だと、保養院で長く働き清次郎の最期も看取った宮城二三子さんの縁者が名前を伏せ「天才と狂人の間」が発刊されて間もない昭和37年8月5日の東京新聞に『伝記作家の態度”真実と虚像の間”を明確に』という見出しでクレーム半分の内容の投稿をしています。
今現在に至るまで島田清次郎=「天才と狂人の間」の情報が全て正しいという認識でいる人や書籍も多いのでここでも書いておきます。

医師や親戚にも再起不能と思われながらも裏腹に清次郎は執筆を続けていましたが昭和5年の1月に肺結核の初期症状があらわれます。この頃におそらく見取り図にある感染隔離室に移されたものと思われますが病に侵されながらも執筆を続け、2月11日の日付で長編「生活と運命」の第一巻「母と子」の末尾に「一月二十三日以来の筆を一時擱く、健康勝れざるによる」と記します。これが清次郎の遺作(未完)になります。
作品の執筆は止め、熱や下痢に苦しみ栄養失調で体も瘦せ細りながらも清次郎は他の作家の作品の感想や海外の想い出などを「雑筆」として原稿用紙に書き綴り続けました。
その文章は以下で終わっており、前に書かれている他のテーマはほぼ迷いなく書き直しも少ないのに対し、この最後の引用箇所だけ一度書き上げた後、全て上から線で塗り潰されていました。
全体を再構成して書き直したかったのか、内容について思い留まるものがあったのか…それは本人にしか分かりません。

四月十、一、二、三日頃の夜で、外でわ雨が降つている。大正十三年当時、水森亀之助君が「主婦の友」社者とともに来て、大泉黒石君が初対面でもあるにもかかはらず、春秋社の用を帯びて訪ねられたが、ともにその御厚意わ、余の親戚なるものゝ無智から、余の身にわつかなかつた。
(3文字判読不明)文壇二、三の士の助力を求めている。
                             (をわり)

島田清次郎「雑筆」34頁

これが絶筆となった清次郎は31歳の若さで肺結核により昭和5年(1930年)4月29日午前9時に亡くなりました。
翌日に葬儀が営まれ、清次郎は石川県美川の公共墓地に埋葬されました。

その後、清次郎が亡くなった後の「保養院」は太平洋戦争中の昭和20年(1945年)4月13日の深夜から14日未明にかけて、豊島区を中心に北区や荒川区など広範囲が焼け落ちた城北大空襲によって大勢の入院患者たちが亡くなり、建物だけでなくカルテなども全て焼失してしまいました。
「13日は警報が鳴る前から巣鴨は火の海で、板橋付近は全然焼けていない。明治通りを越しても家並みは残っているが保養院から先が巣鴨の方にかけて焼けてしまった。」
「様子を見ては引き返していたが、保養院の前を通ると入院している人たちでしょうか、鉄格子のはまった窓から、助けてくれと叫んでいたが周りには誰もいませんでした。その頃には道はガラガラで避難する人も誰も通る人は有りませんでした。」
当時を知る人達の生々しい貴重な証言です。

現在の巣鴨保養院跡

焼失した保養院は再建されることなく区の土地となりそのままの区画で自動車学校になったあと、現在は中学校になっています。

レンガ造りの門は偶然なのかなんとなく当時に似た面影が…?
「保養院は牛乳瓶のように入口が狭くなっていて奥に広かった」という証言や当時の見取り図の形とも一致しています。
元々は豊島区立大塚中学校が建っていたのですが別の中学と合併し2001年に改築して豊島区立巣鴨北中学校になりました。
こちらは2022年の4月29日に行ったときの写真。校庭は入れませんでしたが少年野球の試合をしていて門は開放されていたので庭部分までは入ることができました。
見取り図だと理髪室付近にあたる「巣立門」
学校の前の庚申塚通りは生活感溢れる町並み。こちらは板橋方面に向かう景色。
振り返るとすぐに左側のお堂が庚申塚。右手側に都電庚申塚駅があります。商店街を真っ直ぐ歩くと巣鴨駅に着きます。
巣鴨駅前の工事現場にたまたま掲示されていた昭和初期の様子の写真。
新庚申塚停留所は庚申塚通りと保養院を挟んだ先にあります。
恐らく巣鴨駅から保養院方面へ向かう地蔵通り商店街の町並み。
清次郎のすぐそこにはこういった活気ある風景がありました。
1995年に美川町が4月29日の清次郎の命日を「地上忌」と制定し、緊急事態宣言などで中止された年もありますが例年この日は「清次郎を偲ぶ会」や俳句大会が催されています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?