【断髪小説】ビターエンドじゃなくて

俺がそのカフェに通うようになったのは、特に理由があったわけじゃない。会社の近くにあって、コーヒーがうまい。朝の通勤途中に立ち寄ることもあれば、昼休みにふらっと寄ることもある。そんな感じで、いつの間にか常連になっていた。

最初に彼女を見たのは、ちょうど半年くらい前だったと思う。

黒髪のロングヘアが、腰のあたりまでまっすぐに流れる。黒曜石のような艶があって、毛先まで丁寧に手入れされているのが分かる。動くたびに髪が揺れ、そのたびに光を反射していた。どことなく品のある雰囲気を漂わせていて、それがこのカフェの落ち着いた空気にしっくりと馴染んでいた。

「お待たせしました、アメリカーノです。」

声も穏やかで、余計な愛想を振りまかない。でも決して冷たいわけじゃなくて、ほどよい距離感を持った接客。こういう店員はいい。俺はその頃から彼女に一方的に興味を持っていた。

……いや、正確には、彼女の髪に興味を持っていた。

俺は昔から、髪に対して特別な感情を持っていた。特に、長い髪が短くなる瞬間。刈り上げの感触。理容室や美容室で流れるハサミの音やバリカンの振動。それらが、普通の人とは違う意味で俺の心を刺激する。

だけど、こんなことは誰かに話せるようなことじゃない。学生の頃から、ずっと一人で抱えてきたし、これからもそうだと思っていた。

だから、ただ彼女の髪を眺めるだけだった。

注文を取りに来るたびに、風に揺れる長い髪を見る。束ねているときのうなじの美しさに目を奪われる。だけど、それ以上の接点はない。俺にとって彼女は、ただの「いつものカフェの店員」だった。

――その日までは。


いつものようにカフェに入る。
店の奥の席に座り、適当にメニューを開いた。
でも、その瞬間、視界に入った彼女の姿に息を呑んだ。

髪が、ない。

腰まであった黒髪は、肩よりも上でばっさりと切られ、後ろは刈り上げられていた。

思わず、二度見する。

目の前にいるのは、間違いなく彼女だった。だけど、今までの面影はほとんどなくなっている。軽やかなボブスタイル。耳元はすっきりと見えていて、後ろは襟足のラインが綺麗に出ている。刈り上げ部分がふとした動作のたびに見え隠れする。

「……ご注文は、お決まりですか?」

声をかけられて、ハッと我に返る。

「……あ、ああ。アメリカーノ。」

動揺を悟られないように、なるべく自然に振る舞う。でも、内心は完全に混乱していた。なんで? なんであの髪を切ったんだ? 何があった?

「かしこまりました。」

いつも通りの淡々とした声。でも、俺は気づいてしまった。彼女の表情が、どこか違うことに。

戸惑っているのか、それとも、何かを隠しているのか。髪を切ることは、特に女性にとっては大きな決断だ。それに、ここまで大胆に刈り上げるなんて、普通じゃない。

俺はその日、それ以上のことは何も聞けなかった。ただ、コーヒーを飲みながら、彼女の後ろ姿をじっと見つめるだけだった。


それからも、俺はカフェに通い続けた。

彼女の髪型が変わってから、俺はますます彼女のことが気になり始めた。でも、どう接していいのか分からなかった。フェチであることを知られたくはない。だけど、どうしても話したい。

そんなある日、カウンターでコーヒーを受け取るときに、ふと声をかけてみた。

「髪、切ったんですね。」

驚いたように彼女が俺を見た。だけど、すぐに薄く微笑んだ。

「はい、ちょっと気分転換で。」

「……すごい変わりましたよね。」

「そうですかね。まぁ、私も最初はびっくりしましたけど。」

そこで会話は終わった。でも、それから少しずつ、彼女と話す機会が増えていった。

彼女が休憩中たまたま一緒になったとき、カウンター越しに雑談を交わすようになった。仕事のこと、趣味のこと、そして――髪のこと。

「昔から、ずっと長かったんです。」

ある日、彼女はそう言った。

「家の方針で、髪は伸ばしなさいって言われてて。でも、大人になって、自分の好きなようにしたくなったんです。」

「……それで、切った?」

「はい。ずっと考えてたんですけど、なかなか踏ん切りがつかなくて。でも、ある日ふと思ったんです。『切ったらどんな気分になるんだろう』って。」

「……実際、どうだった?」

彼女は少し考えて、ぽつりと言った。

「……すごく、軽かった。」

その言葉が、俺の中で何かを揺さぶった。

俺は今まで、ずっとフェチであることを隠して生きてきた。誰にも言えないし、言うつもりもなかった。でも、彼女の言葉には、俺の内側にあるものを引きずり出す何かがあった。

もし、彼女が俺と同じものを感じていたら?

いや、そんなはずはない。

でも――もし?

俺はそのとき、初めて「カミングアウトする」という選択肢を意識した。


それからしばらく、俺たちはゆっくりと距離を縮めていった。

彼女のシフトが終わるタイミングを見計らってカフェに寄ることが増えた。閉店間際の静かな時間、カウンター越しに他愛のない会話を交わす。仕事の話、日常の話、髪の話。

彼女の刈り上げボブは、日を追うごとに馴染んでいった。最初は違和感があったのかもしれないが、今はまるで「これが自分」とでも言うように、堂々とその髪型を楽しんでいるように見える。耳にかける仕草も、うなじを露わにする動きも、どこか自然になっていた。

そんなある日、俺は思い切って聞いてみた。

「……今の髪型、気に入ってる?」

彼女は少し驚いたようだったが、すぐに「うん」と頷いた。

「すごく楽だし、シャンプーも乾かすのも早いし。あと、意外と評判良くて。」

「評判?」

「うん。お客さんや友達から『似合ってる』って言われることが多くて。最初は不安だったけど、今は結構気に入ってる。」

その言葉を聞いて、俺の中で何かが弾けた。

ここで言わなかったら、もう二度と話せないかもしれない。

「……俺さ。」

少し声が震えた。

「昔から、髪に特別な興味があるんだ。」

彼女の表情が固まるのが分かった。でも、それでも俺は続けた。

「……特に、髪を切ること。髪が短くなる瞬間とか、刈り上げの感触とか、そういうのが、普通の人とは違う意味で好きなんだ。」

言葉を選びながら、慎重に、でも正直に話した。

彼女は黙って俺の話を聞いていた。表情を読み取ろうとしたけど、何を考えているのか分からなかった。ただ、一つだけ確信できたのは、拒絶の色がないということ。

「……それって、ずっと誰にも言えなかった?」

「うん。」

「……そっか。」

しばらく沈黙が続いた。俺は心臓の音が聞こえるんじゃないかと思うくらい、緊張していた。彼女がどう思うか分からない。でも、もう後戻りはできない。

やがて、彼女がぽつりと言った。

「……面白いね。」

その言葉が、予想外すぎて、俺は思わず聞き返した。

「……面白い?」

「うん。そんな風に髪を見たことなかったから。私にとっては、ただの髪だった。でも、あなたにとっては特別なんだね。」

彼女はそう言って、少しだけ微笑んだ。

その瞬間、俺は息をするように自然に彼女に惹かれていることに気づいた。


それから俺たちは、カフェの外でも会うようになった。

最初は軽く食事をする程度だったけど、何度も会ううちにお互いのことを深く知るようになった。彼女は落ち着いていて、冷静だけど、意外と冗談を言うのが好きで、俺がツッコむとクスクス笑う。最初は距離があったけど、少しずつ心を開いてくれるのが分かった。

そして、俺のフェチの話も、彼女は少しずつ受け入れてくれた。

「最初は正直、よく分からなかった。でも、話を聞いてると、不思議と納得しちゃうんだよね。」

「納得?」

「うん。髪って、確かに特別かもって思った。切るって、ただの美容のことじゃなくて、気持ちが変わる瞬間でもあるし。私も実際、切ってみてそう思ったし。」

彼女はそう言って、自分のうなじにそっと手をやった。

「……刈り上げって、不思議な感じ。」

「どういう意味?」

「なんか、今までの自分じゃないみたいで、少しだけ自由になった気分。」

その言葉を聞いて、俺の中で何かが決定的に変わった。

「……もしさ。」

俺は少しだけ、勇気を出して聞いてみた。

「また髪を切ることになったら、俺がやってもいい?」

彼女は少し驚いたようだったけど、すぐに真剣な顔になった。

「……私の髪を、あなたが?」

「もちろん、美容師じゃないし、プロの仕上がりにはできないけど。でも……」

言葉に詰まる。彼女がどう思うか分からない。でも、彼女は静かに俺を見つめた後、ふっと微笑んだ。

「……考えておく。」

それが、俺たちの新しい関係の始まりだった。


「……じゃあ、お願いしようかな。」

彼女がそう言ったのは、俺たちが付き合い始めて数ヶ月が経った頃だった。

閉店間際のカフェで、カウンター越しに交わした何気ない会話。俺が「また髪を切ることになったら、俺がやってもいい?」と聞いてから、彼女はずっと考えていたらしい。そして、ついに決心したらしい。

「本当に、いいのか?」

俺が確認すると、彼女は少しだけ不安そうに笑った。

「うん。でも……本当に大丈夫?」

「もちろん。……いや、美容師みたいに上手くはできないけど、できる限り丁寧にやる。」

「うん、そこはちゃんと美容院に行くから大丈夫。」

俺は、彼女のその一言に少し安心した。正直、素人がやることだから仕上がりには自信がなかったし、彼女が後悔しないかだけが心配だった。

でも、彼女は俺にその大切な役割を託してくれた。

その事実だけで、胸が熱くなる。

そして迎えた、当日。

俺の部屋に彼女がやってきた。
彼女はシンプルな黒いワンピースを着ていて、肩につくくらいまで伸びた髪を下ろしていた。数ヶ月前に刈り上げた部分は、今は少し伸びて、柔らかな毛先が襟足にかかっている。

「……じゃあ、始めるね。」

彼女は新聞紙を敷いたリビングに置かれた椅子に座り、俺は用意していたハサミとバリカンを手に取った。ダッカールで髪をブロッキングし、まずは余分な長さを切り揃える。ハサミを入れるたびに、サクッ、サクッという軽い音が響く。

彼女の黒髪が、床に落ちていく。

「……すごい音。」

「嫌だったら言ってくれよ。」

「ううん、なんか、面白い。」

彼女は鏡を見ずに、俺の手元だけをじっと見つめていた。

そして、いよいよ――刈り上げる瞬間がやってきた。

「じゃあ、バリカン、入れるよ。」

「……うん。」

彼女の表情が、少しだけ強張る。でも、すぐに静かに目を閉じた。

バリカンのスイッチを入れると、低く唸る音が響いた。

「……っ。」

彼女の肩が、わずかに震える。

俺は慎重に、襟足の部分に刃を当てた。

ジジジ……ッ。

バリカンが、彼女の髪を刈り取っていく。

床に、細かな髪がパラパラと落ちていく。剃り上げられた肌が、少しずつ露わになっていく。

「……すごい。」

彼女は、何かを確かめるように、自分のうなじをそっと撫でた。

ジョリジョリ……

「気持ち悪くない?」

「ううん、なんか、不思議な感じ。」

俺は、そんな彼女の表情を見ながら、改めて思った。

この人は、俺のフェチを理解しようとしてくれている。

そして、それを受け入れてくれている。

彼女のうなじは、今まで見たどんなものよりも美しく思えた。剃り上げたばかりの肌は青白く、触れたら柔らかそうな産毛が残っている。

「……終わったよ。」

「ありがとう。」

彼女は手鏡を取り、後ろを確認すると、小さく微笑んだ。

「……変な感じ。でも、スッキリした。」

彼女は、今までで一番優しい笑顔を見せてくれた。



それから、俺たちはより深く繋がっていった。

俺は、彼女の髪が伸びるたびに、また刈り上げる役目を担うことになった。彼女は「意外と楽でいいかも」と言いながら、定期的に俺の手で髪を整えるようになった。

「……まさか、こんな関係になるとは思わなかったな。」

「私も。けど、悪くないよ。」

彼女はそう言って、刈り上げたばかりのうなじを俺に見せるように、わざと髪をかき上げた。

その瞬間、俺は確信した。

この関係は、ただの恋人同士ではない。

俺たちは、フェチという特別な感覚を共有しながら、誰にも言えない秘密を持って生きていく。

それは、俺にとって何よりも幸せなことだった。