【断髪小説】視線の先に
「お疲れさま!」
ビルのエントランスで、彼女が軽く手を上げながら声をかけてきた。長い黒髪が揺れ、薄いピンクのリップが微笑んでいる。
俺はそれを見て、一瞬だけ視線を下げる。彼女の髪は、まるでシルクのように滑らかで、柔らかそうに光を反射していた。
「お疲れ。今日も遅くまで大変だったね」
そう返すと、彼女は苦笑いしながら髪を耳にかけた。耳の後ろに流れる髪がすとんと落ちるのを、俺は何気なく目で追ってしまう。
彼女の名前は高梨 遥(たかなし はるか)。
俺と同じ会社に新卒で入社した同期だ。社内では要領がよく、周囲の評判もいい。けれど、そんな彼女の何よりの特徴は、腰まで伸びた黒髪だった。
正直に言えば、最初に彼女を見たときから、その髪の美しさに目を奪われていた。俺は昔から髪に対するこだわりが強い。
綺麗なロングヘアが大好きだし、その髪が失われる時のギャップ、特にショートヘアにでも変身してくれたら、それはもう言葉にできないほど。だけど、もちろんそんなことは簡単に人に話せるものじゃない。
「藤崎も今日もう帰る?」
「うん、疲れたし帰るよ。片付けるからちょっと待ってて」
帰り支度を終えた俺は彼女の隣に並んで歩き出す。話はごく普通のもの。上司がどうだとか、新しいプロジェクトの話だとか。でも、彼女の髪が風に揺れるたびに、俺の意識はそこへ引っ張られる。
会社のエレベーターの中でも、満員電車の中でも、俺の目は彼女の髪に向かってしまう。まっすぐで艶のある髪。指を通したらどんな感触だろうか。もし、この髪を短く切ったら——
「ねぇ藤崎」
不意に名前を呼ばれ、俺は慌てて視線を戻した。
「ん?」
「…髪、切ろうか迷ってるんだ」
その言葉に、心臓が一瞬跳ねるのを感じた。
「え?」
俺は驚きを隠せずに聞き返した。彼女の髪を切る?
この長い髪を?
「うん。ずっとロングだったし、ちょっとイメチェンしようかなって。でも、切るならバッサリいきたいなって」
俺は思わず彼女の顔を見た。彼女は軽い調子で言っているように見えるが、長年大事にしてきた髪を切る決断は、そんなに簡単なものじゃないはずだ。
「…もったいなくない?」
俺はそう言うのが精一杯だった。本当はもっと詳しく聞きたかった。何センチ切るのか、どんな髪型にするのか。でも、それを聞くのはあまりにも不自然すぎる。
「やっぱりそう思う? まぁ、まだ決めたわけじゃないんだけどね」
彼女は苦笑しながら、指先で毛先をいじる。
その仕草がやけに色っぽく感じられる。
俺は何も言えずにいた。彼女の断髪の可能性を考えるだけで、胸の奥がざわつく。彼女が髪を切ったら、どんな姿になるのか。刈り上げた襟足はどんなふうに見えるのか——。
そんな考えを振り払うように、俺は軽く咳払いをした。
「もし切るなら、ちゃんと考えて決めたほうがいいと思うよ」
「うん、そうする」
彼女は微笑み、俺たちはそのまま駅へ向かって歩いた。
これが、すべての始まりだった。
彼女が「髪を切るかもしれない」と言ってから、俺はずっと落ち着かないでいた。何をしていても、彼女の髪が頭をよぎる。切るのか、切らないのか——もし切るなら、どれくらい短くするのか。
そんなある日、俺たちは会社の飲み会の帰り道、二人で歩いていた。終電間近の静かな夜道。いつものように、何気ない会話をしていたその時、彼女がふと口を開いた。
「藤崎ってさ、髪、好き?」
心臓が跳ねる。
「…なんで?」
「うーん、なんとなく。いつも私の髪、見てる気がして」
バレていたのか。俺は一瞬息をのんだ。
でも、ここで否定するのは余計に不自然だ。
「…まぁ、嫌いではない」
「ふーん。…じゃあ、もし私が短くしたら、がっかりする?」
彼女はそう言いながら、髪を指に絡めた。
その仕草に目が奪われる。
「いや…そういうわけじゃない」
「ふふっ、正直でよろしい」
彼女は楽しそうに笑った。
まるで、俺の内心を見透かしているかのように。
「実はね、来週、髪切ることにしたんだ」
その言葉を聞いて、俺は一瞬息が止まった。
「…本当に?」
「あ、意外と驚いてる?」
「いや…まぁ…」
「けっこう長い間悩んでたんだ。でも、ずっとロングなのも飽きちゃって」
彼女は軽く髪を揺らした。月明かりに照らされた黒髪がさらさらと揺れ、俺の視線を釘付けにする。
「どんな髪型にするの?」
俺はなるべく冷静を装って聞いた。
「結構短くしようかなーって思ってる。たぶん藤崎が想像しているよりもショートよりも短いかも!」
その瞬間、頭が真っ白になった。
高梨がバッサリ髪を切る。しかもショートに。俺が最も好きなシチュエーションだ。
「…意外?」
「いや…似合うと思う」
それだけを言うのが精一杯だった。
「ありがとう。藤崎がそう言うなら、安心した」
彼女はそう言って、笑った。
俺はその横顔を見ながら、心臓の高鳴りを抑えられなかった。
それからの一週間、俺はまともに仕事が手につかなかった。
彼女が髪を切る。
その事実だけで、俺の頭の中はいっぱいになっていた。
——どこの美容院で?
——どんなふうにカットされる?
——どこまで切るの?
考えれば考えるほど、心臓がざわつく。でも、当の本人は至って普通だった。相変わらずロングヘアを揺らしながら、俺に話しかけてくる。
「藤崎、今週末って空いてる?」
「…え?」
「カットした後、ちょっと見せてあげようかなって思って」
心臓が跳ねる。
「…本当に?」
「うん。だって、藤崎って髪、好きでしょ?」
冗談めかした言い方だったけど、その目はどこか真剣だった。
俺はゆっくりと頷いた。
「…楽しみにしてる」
そして、約束の日。
「終わったよ」
そうメッセージが来たのは、午後のことだった。
俺はすぐに返信した。
「どこにいる?」
「カフェ。〇〇駅の近く」
俺はすぐに向かった。心臓が高鳴るのを抑えながら。
カフェのドアを開けると、そこに彼女はいた。
——もう、ロングヘアではなく、刈り上げボブになった彼女が。
ちょっぴり刈り上げた襟足が、はっきりと見える。
短くなった髪は艶やかで、シルエットが洗練されている。
誰が見てもおしゃれな髪型だと言うだろう。
ただ、うなじが露わになっていたその髪型は藤崎のフェチ心をガッツリと刺激した。
「どう?」
彼女が小さく笑う。
俺は言葉を失った。
ただ、視線だけが、彼女の刈り上げに吸い寄せられる。
「…似合う」
やっとの思いで、それだけ言った。
彼女はふっと笑った。
「やっぱり、藤崎、そういうの好きなんだね」
俺は驚いて彼女を見た。
「…なんで?」
「だって、目が釘付けだもん」
俺は苦笑するしかなかった。完全にバレている。
「藤崎ってさ、もしかして…フェチ?」
その問いに、俺は目を逸らした。でも、否定はしなかった。
「…もしそうだったら?」
彼女はしばらく俺を見つめていた。そして、小さく微笑んだ。
「…なんか、嬉しいかも」
俺は彼女の言葉の意味を測りかねた。でも、彼女の目はどこか優しくて、受け入れてくれているように見えた。
「じゃあさ」
彼女はカップを置き、俺をじっと見た。
「次は、もう少し短くしてみようかな」
俺の心臓が、大きく跳ねた。
「…え?」
俺は思わず聞き返した。
「次は、もう少し短くしてみようかなって」
彼女は何気ない風を装いながら、指先で刈り上げた襟足をなぞる。その動作だけで、俺の視線はそこに釘付けになった。細い指が刈り上げの上をなぞるたびに、微かな鳥肌が立っているのがわかる。触れたい。指先で確かめたい。けれど、そんなことできるわけがない。
「なんでまた短くしようと思ったんだ?」
俺はなるべく平静を装いながら尋ねる。
「なんかね、思ったよりスッキリしてて、気持ちいいんだよね」
彼女はカップを手に取りながら、微笑む。
「それに、もっと短くしたら、藤崎、もっと見てくれるかなって」
彼女の言葉に、俺は息を呑んだ。
これは試されているのか?それとも…
「俺がそんなに髪に執着してるように見える?」
「うん、すごくね」
彼女はあっさりと断言した。
「前から思ってたけど、私の髪、よく見てたでしょ? 触れたりしないのに、目で追ってるのがわかるっていうか」
俺は反論できなかった。
彼女の髪を見ることをやめられなかったのは事実だから。
「…悪かったな」
「別に悪くないよ。でも、なんで隠してるの?」
「…普通、言えることじゃないだろ」
俺は視線を逸らす。髪フェチというのは、簡単に人に話せるものじゃない。特に、女性相手にカミングアウトするのはリスクが大きすぎる。引かれるのが怖い、というのも正直なところだった。
「そっか。でも、私がこうして短くしたの、ちょっとは藤崎の好みに近づいた?」
「…」
それは間違いなくそうだった。むしろ、ここまで理想的な変化が訪れるとは思ってもいなかった。
「まぁ、似合ってると思う」
俺はそれだけ言うのが精一杯だった。
「ふふっ、ありがとう。でもね——」
彼女はカップを置き、俺の目をじっと見据えた。
「本当は、もっと言ってほしい」
俺はその言葉の意味を測りかねた。
「もっと…?」
「うん。藤崎って、私の髪をずっと見てたくせに、全然本音を言わないよね」
彼女はいたずらっぽく微笑みながら、襟足を指でなぞる。
「これ、どう? ジョリジョリしてるよ?」
その一言に、俺の中の何かが弾けそうになった。
彼女は、俺が何を求めているか、気づいているのか?
「…触ってみる?」
彼女の問いに、俺は一瞬動揺した。
「いや、別に…」
「ほんとは触りたいんでしょ?」
俺が何も言えずにいると、彼女は少しだけ身を乗り出し、俺の手をそっと取った。戸惑う俺をよそに、彼女は自分の襟足に俺の指を導いた。
ジョリッ…
指先に伝わる感触——柔らかな髪質なのに、細かく刈り込まれた襟足のざらつきが絡みつく。 俺は無意識に喉を鳴らした。
「どう?」
彼女の声が、どこか挑発的に聞こえた。
俺は正直に答えられないまま、ただ手を引っ込めた。
「…わかったよ」
「何が?」
「…俺、たぶん、フェチなんだろうな」
「たぶん、じゃなくて確定でしょ?」
彼女はクスクスと笑う。
けれど、その笑顔は少しだけ優しかった。
「じゃあさ、次に切るとき、藤崎も一緒に来る?」
「…美容院に?」
「うん。どうせなら、どんなふうに切るのか見てもらおうかなって」
俺の心臓は、再び大きく跳ねた。
「…俺が?」
「うん。なんか、藤崎の反応見てたらさ、私の髪型が変わるのを気にしてるのがすごく伝わってくるから」
彼女は微笑みながら、まだ慣れない短い髪を指先で弄んでいる。
「だったら、もう少し付き合ってもらおうかなって」
冗談めかして言っているけれど、彼女の瞳は真剣だった。
俺は迷った。
ただでさえ、彼女の刈り上げを見て気持ちを落ち着けるのに必死なのに、目の前でカットされるところを見たらどうなるかなんて、想像もつかない。
「…俺が行ったら変じゃないか?」
「別に。付き添いで来る人もいるし、そんなに気にしなくていいんじゃない?」
彼女はあっさりと言う。
「それとも…目の前で見たら、興奮しちゃう?」
俺は咄嗟に視線を逸らした。
「…冗談が過ぎるぞ」
「ふふっ、ごめんごめん。でも、どうする? 断ってもいいけど」
彼女は俺の目を覗き込むように言う。
俺は一瞬躊躇ったが——
「…わかった。行くよ」
俺は静かに答えた。
「ほんと? じゃあ、再来週の土曜ね」
彼女は満足げに微笑んだ。
こうして、俺は彼女の断髪を見届けることになった。
そして、当日。
「じゃあ、行こっか」
彼女は俺の隣で軽く髪を整えながら言った。前回のカットから2週間経ち、少し伸びてきた襟足が名残惜しそうに首筋に沿っている。それが、今日でまた消えてしまう。
俺は、胸の奥がざわつくのを感じながら、彼女の後をついて行った。
美容院に一緒に行くなんて、人生で初めてだ。
俺は何度も深呼吸し、心を落ち着かせようとした。
店内に入ると、スタッフが明るい声で出迎える。彼女は名前を伝え、カットの準備に入った。
「今日はどんな感じにされますか?」
担当の美容師が彼女に尋ねる。
「前回よりもう少し短めにしたいです。襟足も、もう少し上まで刈り上げてもらっていいですか?」
その言葉を聞いた瞬間、俺は背筋を伸ばした。
襟足を、もっと短く…?もっと上まで…?
美容師は微笑みながら頷く。
「承知しました。じゃあ、整えていきますね」
そう言うと、彼女の髪がブロッキングされ、クリップで留められる。襟足が完全に露わになった。
俺は飲み物を手に取ったものの、喉を通らなかった。
始まる。
「じゃあ、いきますね」
シャキン…シャキン…
美容師の鋏が動く。短くなった髪がふわりと舞い、ケープの上に落ちる。
俺は、それを息を殺して見つめていた。
次第に、彼女のうなじがよりくっきりと見え始める。細かな産毛が浮き立ち、皮膚が白く際立つ。
そして——
「バリカン入れますね」
美容師がそう言うと、俺の鼓動が一気に高まった。
待て、バリカン?
彼女は一瞬鏡越しに俺を見た。まるで、俺の動揺を楽しんでいるかのように微笑みながら。
「お願いします」
彼女の言葉と同時に——
ブィィィィィン…
バリカンの音が響く。
俺の心臓が跳ねた。
美容師がバリカンを彼女の襟足に当てる。
ジョリジョリジョリ…
刃が彼女の伸びかけた襟足を刈り、短い髪の束が次々と落ちる。彼女の首筋がどんどん露わになり、青白い地肌が覗く。
俺は目を逸らせなかった。
これは、想像以上だ。
バリカンの駆動音が店内に響く。襟足が綺麗に整えられ、グラデーションがつくように刈り込まれていく。
「どう?」
彼女が鏡越しに俺を見た。
「……最高だ」
俺は、それだけを呟いた。
「じゃあ、最後に形を整えていきますね」
美容師の手がハサミに持ち替えられ、残った髪のバランスを微調整し始める。
チョキ、チョキ、チョキ…
髪が少しずつ短くなり、刈り上げとボブの境目がより滑らかに仕上げられていく。
俺は、喉が渇くのを感じながら、それを見つめていた。
彼女の新しい姿が、ゆっくりと形になっていく。
「前髪はどうしますか?」
「ちょっと短めにしてもらおうかな。目にかからないくらいで」
「かしこまりました」
美容師は前髪をつまみ、慎重にカットを進めていく。
シャキン、シャキン…
落ちる髪の量は多くはないが、それでも変化は大きい。
次第に、顔周りがすっきりし、彼女の目元がより印象的に映る。
「仕上げにヘアオイルをつけて、セットしていきますね」
美容師は軽くスタイリング剤をつけ、ボブの丸みを調整しながら手ぐしで馴染ませる。
鏡の中の彼女は——
完全に別人だった。
襟足は刈り上げられ、潔くうなじが露わになっている。後頭部には綺麗な丸みがあり、サイドの髪はフェイスラインを際立たせるようにカットされている。
前髪はほんのり丸みを帯びていて、目元がはっきり見えるようになっていた。
「うわ…すごい」
彼女自身も驚いたように、鏡を見つめている。
「似合いますね。すごくおしゃれです」
美容師が微笑む。
「ありがとうございます」
彼女は嬉しそうに笑い、襟足を軽く指で撫でた。
その瞬間、俺は無意識にゴクリと唾を飲み込んだ。
触れたい。指で直接、この刈り上げを確かめたい。
でも、そんなことができるはずもない。
「お連れの方も、どうですか?」
不意に、美容師が俺に尋ねた。
「えっ?」
「すごく真剣に見てたので、ぜひ感想を」
俺は言葉に詰まった。
どう答えればいい? 「最高です」なんて言えないし、「好きです」なんてのはもっと無理だ。
「…めっちゃ似合ってると思う」
それが、俺に言えた精一杯の言葉だった。
彼女はクスッと笑った。
「よかった。藤崎がそう言ってくれるなら安心した」
「じゃあ、これで仕上げ完了です。おつかれさまでした」
美容師がそう言い、彼女は席を立つ。
ケープを外され、切った髪の束が床に落ちるのを見て、俺は思った。
——もう、あの長い髪には戻らないんだ。
俺の中の何かが、大きく動いた気がした。
美容院を出たあと、俺たちは近くのカフェに入った。
「なんか、ちょっと恥ずかしいね」
彼女は新しい髪型にまだ慣れないのか、何度も指で襟足を触っていた。
「そうか?」
「うん、だって急に短くなったし、風がダイレクトに当たるのが変な感じ」
「…触り心地、どう?」
俺は思わず聞いてしまった。
彼女は少し考えてから、俺を見つめる。
「触ってみる?」
俺は息を呑んだ。
「…いいのか?」
「うん。どうせずっと気になってるんでしょ?」
彼女はそう言うと席を少し寄せ、俺の手を取り、自分の襟足に当てた。
ジョリ…
指先に伝わる感触は、思っていた以上にリアルで、生々しかった。
「わ…」
俺は声を出せなかった。
「やっぱり、好きなんだ?」
「…あぁ」
もう、誤魔化すことはできなかった。
彼女はそんな俺を見て、満足げに微笑む。
「じゃあさ…これからも、私の髪、ちゃんと見ててよ」
俺は、その言葉をゆっくりと噛み締めながら、彼女を見つめた。
この瞬間、俺たちはただの同僚とは違う、特別な関係になったのだと確信した。