![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/15037759/rectangle_large_type_2_998547700e576c582c362b3fa3d00317.jpeg?width=1200)
目に見えない"発想の格差"と"勇気の格差"そして"努力必要量の格差"という問題について【手取り14万円は自己責任か】
■その発想はどこから?
2019年10月初旬、SNS等で「12年間変わらず手取り14万円って日本終わってますよね」という投稿が様々な議論を呼び、大きく分けて
「その通り、今の社会が悪い」、「企業が労働力を安く買いたたきすぎ」のような肯定意見と、
「いや、自己責任でしょ」、「12年間もなにしてたの?」のような否定意見に分かれました。
その後、ホリエモンの「お前が終わってるんだよ」発言により、否定派が攻勢を増し、結局「努力もしないで世の中憎むバカの意見」という空気が大きくなってしまいました。
自己責任派の理由としては「転職すればいいじゃん」、「副業で稼げばいいじゃん」、「努力してよい大学行っていい職につけば良かったじゃん」などなど
「やれることいっぱいあるのにやらなかったからじゃん」
のような努力不足、行動力不足をあげつらうものが多数でした。
ここで私はちょっとひっかかります。
「その発想はどこから来たの?」
「その勇気どこから来たの?」
転職すれば給料増える、足りなくても副業で稼げる、良い大学行けば良い職つけるetc...
例えばこれらが事実かどうかはさておいて、実行するにはまずその知識を得て、「こんな発想もあるんだ」と思い至らなければいけません。転職すれば給料増えるかも、という発想がなければ「転職する」という選択肢も浮かばないでしょう。
また「転職をする」という選択肢に思い至ったとしても、転職活動に必要なお金(月2万円とします)を手取り27万円から捻出しなければいけない人と手取り14万円から捻出しなければいけない人では必要な勇気の重さが異なるでしょう。
彼らが他人にこういう言葉を投げられるのは、彼らがその知識を得る機会、その発想を行動にうつす機会に恵まれていたからだとは言えないでしょうか。
■発想の格差
私はこのような「まずその発想に至れない」という格差について、そのまんま
「発想の格差」
と名付けました。
上の例では発想の格差の要因が知識獲得機会の差であると説明していますが、他にもいくつかあると考えているので順を追って説明します。
■発想の格差を生む要因
「環境的要因」
1つめは環境的要因です。この場合の環境とは「生い立ち」、「周囲の人間」、「居住コミュニティ」…とにかく周りの空気感のこと。
(普通科)大学生や大卒の方々の中でも「大卒当たり前」って空気があったから大学行ったって人が多くありませんか。
学校の先生に高卒大変だと脅されたから、親が行かせたがったから、周囲の人間が行ったから、そんな理由で大した理由もなく大学に入学したという方は少なくないはずです。
その空気感がなくても進学してました?
実際、2019年度の大学進学率は54.67%です。全高校生の約半数しか大学に行きません。
この高校生全員が「大卒当たり前という環境」の中にいて受験失敗したり、勉強投げだしたりして半分しか進学できなかったとは考えられません。
そもそも環境的要因で大学に行くという発想そのものがない層が存在するのです。
こう考えてみてください。
学校の先生が高卒でも大丈夫、親は大学なんて行く必要ないそんな時間あったら働けと言い、周りは高校卒業したらどこで働きたいかでワイワイ盛り上がっている。別にあなたも大学進学を考えるまで熱心にハマるなにかにまだ出会っていません。
こんな空気感の中で育ったあなたは進学という発想を得られますか?
またこの環境で大学進学を考えられないのは自己責任でしょうか?
環境的な要因、自己責任論で考慮されていますか?
「年齢的要因」
例えば先ほどの「高卒当たり前の空気感で育った18歳の高校生のあなた」。
運よく大学進学という発想を得たとして、親や周囲の抵抗を振り切ってまで大学行けますか?なんなら大学行くなら一切お金を出さないなんて言われます。17,18歳でそれまで育ったコミュニティを捨てる覚悟を持てますか?
20代になった後、「振り切って大学行けばよかったな」なんて思うかもしれません。でもそれって自分でお金を稼いで自分でコミュニティを選べるようになった歳だから出来る後悔だと思いませんか。
もしバイトしていたとしてもせいぜい月4~5万行けばいい方の高校生のあなたが突然学費+生活費を稼がないといけない生活に飛び込む勇気がありますか?
奨学金がある?免除制度がある?周りを頼ればいい?
17,18歳の1か月どのくらいのお金が必要かの実感もない高校生1人が奨学金どれくらい必要かとか免除制度について受験前に勉強する覚悟がありますか?
17,18歳の精神状態や思考回路でそこまで思い至れますか?
おそらく数少ない精神が成熟した高校生でしか成しえないはずです。
多くの高校生はじゃあ、やめようって諦めるはずです。
わかりやすいように高校生で例を出しましたが大人でもあるはずです。
例えば25歳の自分なら思いついたけど、24歳の自分は思いつかなかった、みたいなことありませんか。
同じことを他者は私が20歳の頃から思いついており、
「それあなたが20歳の頃から実行可能だったよ」なんて言われても、
「いや、20歳の自分なら知っててもやろうとしなかった」なんてことは結構あるはずです。(私はあります)
それを今さら指摘されたとしてもどうしようもない。
このように発想って年齢にも左右されませんか?
手取り14万円の彼も12年経って「ずっと14万ってやばくね」って思いいたったのかもしれません。そこに12年間何やってたんだよってツッコみいれても何の意味もないのです。
12年の間の彼は「なにも思ってなかった」のでしょう。
これって自己責任ですか?気づく、気づかないは自分でどうにか出来る?
「大学行きたかったけど親に反対されたりしてダメだった」
「いや奨学金とかあったじゃん」
みたいな会話たまに遭遇しませんか。全国どこにでもあると思うんですけど、
・奨学金という制度があるという知識を得られたのか
・高校生の彼に親の反対に耐える精神強度があったのか
ということが考慮されていない気がします。
「経済的要因」
字面のまんまです。冒頭の
また「転職をする」という選択肢に思い至ったとしても、転職活動に必要なお金(月2万円としよう)を手取り27万円から捻出しなければいけない人と手取り14万円から捻出しなければいけない人では必要な勇気の重さが異なるだろう。
という例もそうですが、「お金がかかるなら最初から選択肢に入れない」ということを無意識にしてしまう方結構いませんか。
この例では手取り14万の転職に思い至った人を比較していますが、
「転職活動こんなにお金かかるのか。キツいなぁ。やめておこう」
となってその後思考から外す人が大多数でしょう。
こういうこと日常でよくありませんか。私はあります。
ダイエットしようとしてスポーツジムに行こうかな…って考えていました。が、「月2万円くらいかかる」となぜか思い込んでいて、
そんなにかかるなら…と思考から外して調べもしなかったのです。
結局、友人から「月7000円くらいで良いとこあるよ」と情報をもらったので「それなら行こうかな」という発想に至ったのですが、
きっとこれ「月2万程度普通に出せる私」なら色々調べてとっくにジム行ってたのです。
このように経済的理由で発想に至るための情報をまず除外してしまうことってありませんか?
これは自己責任なのでしょうか?
■勇気の格差
ここまで様々な要因を説明してきましたが、
すべて「やろうと思えばやれる」余地があることに気づく方もいらっしゃるでしょう。
「やろうとすれば行える余地があり、それをしないのは怠慢だ」と言えてしまうのです。
学校の先生が高卒でも大丈夫、親は大学なんて行く必要ないそんな時間あったら働けと言い、周りは高校卒業したらどこで働きたいかでワイワイ盛り上がっている。別にあなたも大学進学を考えるまで熱心にハマるなにかにまだ出会っていません。
→でも自分の人生なんだから、自分で決めなきゃ!調べりゃ絶対大卒の良さに気づけるよ!自己責任!
大学進学という発想を得たとして、親や周囲の抵抗を振り切ってまで大学行けますか?なんなら大学行くなら一切お金を出さないなんて言われます。17,18歳でそれまで育ったコミュニティを捨てる覚悟を持てますか?
→奨学金もあるし各種補填制度があるよ!働きながら大学行ってた友達いっぱい知ってる!甘えんな!自己責任!
「お金がかかるなら最初から選択肢に入れない」ということを無意識にしてしまう方結構いませんか。この例では手取り14万の転職に思い至った人を比較していますが、「転職活動こんなにお金かかるのか。やめておこう」となってその後思考から外す人が大多数でしょう。
→これこそ自分でどうにか出来たじゃん!調べれば良かっただけ!お金かかるの嫌なら節約するか副業やれば良いじゃん!自己責任!
気づきませんか?そう、彼らは「必要な勇気の量を勘定にいれていない」のです。
一昔前のラノベの登場人物のように「覚悟があるならば為せる」と思っている。
確かに俺とあいつの力の差は絶望的なまでに違う。
誰もがあいつの勝利を確信しているだろう。
───────────でも
"俺はあいつに勝つと決めた"
ならばッッッ!!!!
勝利を得るのはこの俺だ───────!!!
んなわけないだろーーーーーー!!!!!!!
こちとら生きている人間です。
”勝つと決めたなら勝てる”みたいな言葉遊びは通じない。
生々しい行間がある。
どうにもできない苦悩や運命がある。
「大卒当たり前」な空気感の中の高校生
「高卒当たり前」な空気感の中の高校生
大学進学することを決めたとき心理的抵抗が少ないのはどちらか
経済的余裕のある人の2万円
経済的余裕のない人の2万円
消費するのに心理的抵抗が少ないのはどちらか
心理的抵抗があってもやれるのは同じじゃん?
「心理的抵抗の差があるのが問題なんじゃ!」
この可能は可能だけども心理的抵抗の差があることを
「勇気の格差」
と名付けました。
これを自己責任論は見過ごしていると思います。
「難しいけど可能なら、実行しないのが悪い」は理屈では正しいのですが、それを行うのが生きた人間ということを忘れている。
「理屈がそうなら実行できる」はだいたいの人が無理です。あなたも含め。
■努力必要量の格差
さてまたもしも論です。
あなたは高卒当たり前の環境で育ちましたが、なんとか大学進学という発想を得られました。
経済的に厳しいのも理解しましたけど、覚悟を決めました。
そんなあなたは無事に大学に入学します。
そして周りに「大学進学当たり前な環境で育った親に全額出してもらった同級生」が意外と多いことに気づきます。
彼らには「高卒当たり前という空気の中、大学進学という発想に至る努力も親に頼らないでお金を捻出する覚悟もする必要がなかったのです」
でもあなたには「必要」でした。
そう発想の格差、勇気の格差を乗り越えた先に
「努力必要量の格差」
が存在するのです。
また「転職をする」という選択肢に思い至ったとしても、転職活動に必要なお金(月2万円とします)を手取り27万円から捻出しなければいけない人と手取り14万円から捻出しなければいけない人では必要な勇気の重さが異なるでしょう。
手取り14万円の人は転職に思い至りました。転職活動費月2万円を出す覚悟もします。しかし、そのために節約したり、借金したり、なんなら副業をするという別の努力をする必要性が生じます。そうしないとホントにカツカツだからです。
運よく短期で転職活動を終えられたならばまだいいでしょうが、長期に及んだ場合途中でくじけて止めてしまうかもしれません。
発想の格差を運よく乗り越え、勇気の格差を気合でなんとかしたとしても、努力必要量の格差が待っています。
結局人間の脳は楽をしたがるので努力を嫌う。一度に多くのことを努力でなんとか出来ませんし、どうしてもストレスを生じるため長くは続かないのです。
だから「こんなにたくさんのことを頑張らないといけない」という認識が生まれる段階でそれはもう差があるんです。
これ考慮に入ってますか?
現実の人間の話をします。
目標を達成するのに今現在から10の努力でいい人と100の努力が要る人、各人の思考にこの差は影響しませんか?
この差、多くの場合本人のせいじゃないのです。
本人にどうにもできない色んな要因が関わります。
これも自己責任なのでしょうか?
私は環境と経済と年齢的要因が合致していて「note書こう」なんて発想にいたり、顔出ししなくていいから大した勇気も出さないで書いている。
昔から文章書くのは好きだったので大した努力も必要ない。
だから、なんの心理的抵抗もない。
でも文章書くのに苦手意識があって、顔出ししなくちゃいけかったら、まず文章の勉強がいる。少しずつ自信を持つ必要がある。
顔にも自信がないので、肌をきれいにしたり、髪型整えたり、色々しなければならない。(若い私は体裁を気にしてしまう)お金も時間もかかる。
心理的抵抗は大きい。ならば、そんなに無理してやらなくてもいいのかもしれない。と思うだろう。
■なろう系スノビズム
長々と語ってきたように
自己責任論はいろんな要因を考慮してない
なんて思考を持つ私には「こういう方法あるじゃん。それもしないで甘えるなよ」みたいな意見は
「どうして人間がクワで耕してるんだ?動物に耕せればいいだろ。」
「???」
やれやれ。この世界の農業はそれほど発達していないらしい。
俺はそう思うと牛に巨大な鋤を引かせて見せた。
「ドヒャー。とても効率がいい!すごいよあんた!」
のようななろう系主人公の雰囲気を感じます。
歴史の教科書を読んで「俺が織田信長なら明智の裏切り予想して本能寺に兵置いとくわ。信長バカだなぁ」と思うような行為といっても伝わるでしょうか。
それを実際に人相手にやっちゃう人というか。
当事者にしかわからない要因があるかもと思い知らず自分の経験則を押し付ける浅はかさというか。(それについても書いています)
…書いといてなんですがこういう人たちはまた別の問題なのでここではあまり掘り下げません。
でも勝手になろう系スノビズムと命名しました。
言葉があってやっと定義出来る。
■まとめ
・手取り14万円自己責任って言われているけど、私は違うと思います。
・発想の格差、勇気の格差、努力必要量の格差というものがあると思います。
→まず思い至らない。
思い至っても実行に勇気がいる。
勇気を出しても周りより頑張る必要がある。
・見過ごされがちというか考慮にいれらななくない?
・なろう系スノビズムな人たち(私怨)
・もうちょっとこれについて考えてみてほしい
■さいごに
この文章はどちらかというと自己責任論に傷ついてしまった人向けに書きました。
私はあなた方に正しく判断してほしい。
環境的に可能でしたか?年齢的にはどうでした?経済的には?
他人より覚悟が必要でした?他人より努力する必要がありました?
これらをきちんと考慮にいれて、今一度本当に100%自己責任だったか考えていただきたいのです。
自己責任を唱えるあなた。不快になった?
ごめんなさい。
私はあなたの親や周りの人の「あなたを出来るだけ幸せにしようとした努力」を否定しません。
例えば、親が「子供には楽をさせたい」として行った様々な努力についてを「七光りだ」というのは違うでしょう。
でも周りの人が「あなたがある部分で努力をしなくてもいいようにしてくれていた可能性」と、「それを享受できなかった人がいる可能性」についても思い至ってくれたら幸いです。
これは決して責任転嫁ではないのです。
うつの治療にも「過去の失敗は本当に全部自分で対処出来るものだったのか」正しく把握する、というものがありこれもその一環です。
なんでもかんでも自己責任と、自分ではどうにもできない環境や年齢、経済的事情について責められるのはやるせないのです。
■さいごに その2
扱うものが扱うものだけに客観的データもなにもないです。
だから「あなたの感想ですよね。」、「なんかデータとかあるんですか」とか「なんだろう、ウソつかないでもらえますか」って指摘されたらもう黙るしかない。
主観だということは承知しています。
でも私は「自己責任論、これらの要因考慮に入ってない説」あると思いますので、
「あ、わかる」って人が多くなって少しでもこういう考えが広ったり、議論が活発になればいいかなって思ってます。
そしたらデータ取ってみたいって研究機関が現れるかもしれませんし。
2019.10.12 ぐら
2019.10.12 加筆と修正しました。ぐら