宇宙よりも遠い場所 南極への旅路 第3回 「見のこしたものを見る」
「見のこしたものを見る」
日本の民俗学研究の第一人者である宮本常一。その宮本常一は、15歳という若さで、地元の山口県周防大島を離れて、全国を旅した。その出発の際に、父である宮本善十郎が、息子である宮本常一に送った10の言葉がある。
詳しくは書かないものの、最後の10番目の言葉は「人の見のこしたものを見るようにせよ。そのなかにいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分の選んだ道をしっかり歩いていくことだ。」というものだ。
第2回にて、「日本各地をただ旅するのは、正直飽きてしまった。」と書いた。この言葉自体には嘘はない。ただ、わたしは「人の見のこしたものを見るようにせよ。そのなかにいつも大事なものがあるはずだ。」という言葉に出会って以来、旅をする時の視点が少し変わった。
たかが洗濯機、されど洗濯機
有人離島制覇のため、鹿児島県のトカラ列島(十島村/としまむら)を旅していた時の話だ。7島あるトカラ列島を2泊3日で弾丸でツアーするクルーズに申し込み、鹿児島からフェリーに乗り込んだ。参加者全員が離島オタクで、不思議な結束感があった。そして、最初の口之島に到着し、ハイエースに乗り換え、島を巡っていると、同行している友人が、「共同の洗濯機があるぞ」と呟いた。わたしは「へー」と聞いていたのだが、次の島も、また次の島にも共同の洗濯機があった。
少し歴史を振り返ってみよう。そもそもトカラ列島は「十島村」に属している。文字通りだと、10の島である。ただ前述したように、トカラ列島が属している現在の十島村の村域には7島しかない。
これは先の太平洋戦争が関係している。太平洋戦争に負けた日本は、連合国軍の占領下となった。1946年2月、現在の十島村に相当する村域(7島)が、アメリカ合衆国の統治下に置かれ、1952年2月に本土復帰した経緯がある。さて、かつて10あった島が、なぜいまは7なのか。それはアメリカ合衆国が統治下とした基準が、北緯30度以南だったことに由来する。残りの3島は、北緯30度以北であり、アメリカ合衆国の統治下に置かれず、本土としての扱いを受けた。その間、地方自治法等の法整備も進み、3島は「三島村」となった。そのために「十島村なのに島は7つ」という不思議な事態が生じたのである。
運命の分かれ道
そして、この本土復帰のタイミングが、十島村にとっては運命の分かれ道であった。
アメリカ合衆国は、1952年2月にトカラ列島を返還した。その後、1953年12月に同国は、沖縄を除く奄美大島も返還し、本土復帰を果たした。奄美大島には、地域振興のための奄美群島振興開発特別措置法(時限立法であるが繰り返し延長されている)が成立し、一定の国の援助が入ることとなった。しかし、先に本土復帰を果たしたトカラ列島は、この特別措置法の対象外となってしまった。更に言えば、2016年に成立した有人国境離島法の指定離島も対象外となっている。公共事業等はあれど、言葉を選ばずに言えば、国の支援から取り残された島なのである。
さて、話を戻そう。トカラ列島にはどの島にも共同の洗濯機があった。この理由は定かではないものの、ある程度所得水準が絡んでいるのではないかという推測もできる。こうした視点は先に述べた「人の見のこしたもよを見るようにせよ。そのなかにいつも大事なものがあるはずだ。」という言葉に通底するものがあると思っている。たかが洗濯機、されど洗濯機だ。そのひとつを取っても、地域住民の暮らしが推測できる。地域を知るということは、そういうことだとかねてより思っている。
そうした思いは、「宇宙よりも遠い場所」(以下よりもいと呼ぶ)の同人誌だけではなく、過去に弊サークル「ぐんはっく」で刊行した同人誌にも共通している。実際に自分の目で見て、肌で感じたことを書く。まさに「現地現物」である。一同人作家として、そうした同人誌を目指しているし、読者の皆様方にもそうした思いを感じていただけるように、筆を取っているつもりだ。他の舞台探訪者が見のこしたものを見る。それはそんなに大層なことではない。ただ少し視点を移せばいいと思っている。
寝坊にご注意
さて、前回の記事で、今回の南極への旅は、コストを抑えつつも快適な旅を目指して、海外発券を選択したと書いた。いま原稿を書いているのは、ソウル(金浦国際空港)から羽田へ向かう機内である。海外発券の詳細は別稿に譲るものの、既に南極への旅は始まったと言える。
逆にこの1区間目に搭乗できないと、かなり面倒なことになってしまう。朝に滅法弱いわたしは、追加料金を支払って、復路を早朝の便から昼間の便に変更した。JALのステータスは現在JGCプレミアであり、年内にダイヤモンドとなる予定だ。ダイヤモンドプレミア窓口に変更依頼をした時には、昼間の便は満席と言われ、キャンセル待ちになったものの、ステータスのおかげですぐに空席の案内が来た。そして、案の定である。ホテルでは気を失うように寝入り、朝は記憶にないものの、自分でアラームを止め、ホテルマンのモーニングコールは聞こえず、ずっと寝ていた。この朝に滅法弱いのは正直なんとかしたい。ただ、1区間目を遅めにした対応は、やはり正解だったのである…笑
なお、国際線で寝過ごしたことは今までないものの、国内線で寝過ごしたことは過去に数度ある。しかし、ステータスでの特別対応やたまたまフレックスで取っていたためギリギリで変更可能だった等の幸運が「いま現在は」続いている。
しかし、国際線で寝過ごしたら、もうおしまいである。小淵沢の100万円でも解決できない話もあり得る。綱渡りが怖い。
つづく