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『その街のこども』のシナリオと劇場版との差違

『その街のこども』が再上映された。「その街」は私自身の人生において多大な影響を与えた映画だ。

この作品が語られる際、シナリオの巧みさやモキュメンタリータッチな演出がよく語られる。そのことに対しての異論はない。

一方で、この映画には上映から15年以上経っても今だに語られていない領域がある。それは「撮影用台本」と「実際に上映されたもの」の差違だ。

『その街』は販売された2011年に発売されたDVD(および2024年に出たBD)に、撮影用台本の縮小版が特典として付属している。
そこから読み取れるのは、作品の解釈に関わる重要な知見だ。

作中で印象に残るシーンの一部は、実は台本から現場で「追加」されているのである。

この記事では、「撮影用台本」と「実際に上映されたもの」の差違をベースに『その街のこども』を語っていきたい。


そもそも撮影用台本とは

端的にいってしまえば撮影の際に使われる台本のことである

DVD/BDに付属する縮小シナリオ

映像の台本といっても、撮影の準備や修正の段階で使われる「準備稿」、脚本家の手から離れた段階の「決定稿」など様々な種類がある。
『その街』で一般に公開されているのは「撮影用台本」だ。

「撮影用台本」は撮影の本番に用いられる台本で、多くの場合において完成した映像との差違がもっとも少ない。
本番の撮影のために作られた脚本だからだ。

アドリブで若干台詞が変わったり、編集で場面がカットされたりがあれど、大幅に書き換わることはまずない。
シーンの追加にかかるコストが膨大であるからだ。

この点において『その街』は実に奇妙だ。
冒頭で触れたとおり(おそらく撮影現場判断で)、多くのシーンが追加されている。

変更シーン① 「三宮駅」

一番大きい変更といえる場面は冒頭にある。

「その街」における三宮駅に到着した場面は実に印象的だ。
13年振りに神戸の地に降り立った、佐藤江梨子演じる大村美夏は久しぶりの訪れた三宮駅を見回しこう呟く。

予告編より

「なんか、街が新しい」

美夏の憂いに満ちた表情と、その傍らに離れて歩いている中田勇治(演:森山未來)。

そして『その街のこども』のタイトルが現れるーー。

間違いなく作中を代表するシーンだろう。

しかしこのシーン、撮影用台本には存在していない。代わりに台本にあるのはこのような文章だ。

〇JR三宮駅前歩道橋

暮れかかる冬の繁華街。
勇治、手にかかる携帯をパカパカさせながら、成り行き上、カフェを探し歩いている。
背後から暗い顔でついてきていた女、ふと立ち止まり何かに見入る。
勇治、女の様子に気付く。
女、歩道橋下のロータリーで始まっている追悼のつどい向けのディスプレイを見つめている。

実際に流されたものと全く違う。

三宮駅前という大体の場所は合ってこそいるが、台本のように歩道橋ではないし、ディスプレイの場面もない。
もし台本の通りに撮影されていれば、ずいぶんと印象が変わったシーンになっただろう。

さらに言ってしまえば、その後に続く

美夏「これ、なに書いてるんですか?」
ボランティア「これ、花びらにあなたのとって震災とはってメッセージを書いてもらってて、こうして花にすることで街ゆく人に見てもらって、震災と向き合って震災のこと伝えるってコンセプトなんですけど」
美夏「へえ、そうなんや」

テキストは、ブルーレイ版より筆者で描き起こし

というシーンも台本には存在していない。

インタビューによれば『その街』の撮影は、「『よーいスタート』と『カット』の掛け声がなかった現場」で行なわれたそうだ。

特異な撮影方法だったからこそ、フィクションと現実の境目が溶けるような雰囲気が生まれた。
この手法が最も生かされたのが、現場の判断で撮られた三宮駅のシーンではないだろうか。

変更シーン➁「居酒屋」

お互いの震災体験を語る居酒屋の場面、細かいやり取りが台本から変わっている。

わかりやすい変化は

「煙草をあげる展開」が台本にはない

美夏「じゃ、なんでここにいてはるんですか?」
に対する勇治の返しが台本だと「……」、劇場版は「なんでやろ」

学校の宿題がなくなってラッキーだった、という場面。
「劇場版」だとある「学校に行く道にコンクリートがこうバーンとなってたりして~」の下りが、脚本の「学校に関する場面」の台詞にない。

代わりなのか、脚本にあった水くみについて語るシーンが「劇場版」では削除。

の箇所である。

特に学校の道に関する台詞は、実際の体験をベースにしたアドリブだろうか。
脚本自体、主演の二人の震災体験を聞いた上で執筆しているというから、アドリブとの境目が曖昧だ。

この曖昧さこそが、よりリアリティを引き上げていると言えるだろう。

変更シーン➂ラストシーン

脚本でのラストシーンは東遊園地で行なわれた「追悼のつどい」の場面で終わる。

公園の中。
誰かのために祈る人々。
たくさんの報道カメラ。白いテントの下の屋台。
「黙祷」の声。
そしてその真ん中に、あふれて絶えることのない「希望の灯り」。

(オワリ)                                                                                

実際に作られた「劇場版」では、この後に続きがある。

勇治が、後ろにある「1.17」の文字が浮かび上がったビルを見て、前を向く。そしてエンドロールが流れる。

この「追悼のつどい」と対ともいえるシーンが、台本にはない。
最後の印象的な場面なだけに、脚本になかったというのは驚かされた。


アドリブだからこそ


「その街のこども」では、撮影の段階で、台本になかった多くの要素が現場のアドリブで追加されている。

このアドリブは、阪神淡路大震災が起きた「その街」にいた「こども」だった二人だからこそできたことだ。
追加されたシーン/セリフは、どれも当事者である二人の被災体験が根底にあるように思える。

実際の被災体験によるアドリブは、映画とドキュメンタリーの境目をより曖昧にし、より心を揺さぶる作品を作るのに、一役買っている。

映像作品として非常に珍しい「脚本にない重要シーンを撮る」という”演出”は、『その街のこども』を名作たらしめていると、私は思う。

その場所に立って「思った言葉」だからこそ伝えられることもあるのだから。

14年ぶりに東京で行なわれた再上映とトークショーに参加
主演のお二人と監督が登壇されました

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カタモト キザオ
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