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戦国武将に学ぶ!No.19~小早川秀秋①~



”軍師” こと、株式会社GUNSHIコーポレーションの社本です。


このnoteでは経営者の軍師としての目線で、
これからの時代を生き抜く戦略を発信しています。


私は日ごろより周りの方々から
”軍師” というニックネームで、
お呼びいただいています!(笑)

社名であることもその理由ですが、
私は自他共に認める歴史好き!
とくに戦国時代が好きです。


今回は、私が好きで見習っている、
学んでいる武将や軍師を紹介するシリーズ。


ぜひ最後まで楽しんでいただけたら幸いです。




先日、
【軍師と学ぶ賢者のための戦国史】
開催いたしました。
その際に関ケ原をアテンドさせて
いただきましたので、今回は関ケ原つながりで
小早川こばやかわ秀秋ひであきをピックアップします!


小早川秀秋といえば『裏切り』
という言葉で評される武将。
そんなイメージをお持ちの方が
多いのかなと思います。


石田三成率いる西軍を戦いの最中で
裏切り、徳川家康率いる東軍に
寝返ったとされ、彼が寝返ったから
東軍が勝った、とさえ伝えられています。


小早川秀秋は、関ケ原の戦いに
1万5000以上の家臣を連れて
挑んでいます。
松尾山城に布陣し迷った挙句、
最終的に東軍についたというのが
関ケ原の通説となっています。
(※諸説あります)


史実から後世まで『裏切り者』と
語り継がれている秀秋ですが、
なんとこのとき19歳…!!


時代が異なるとはいえまだ10代の
若者が、1万5000以上の家臣を従えて
関ケ原へ戦いに行っていたのです。
もし通説にあるように、
秀秋が最後までどちらにつくべきか
迷っていたのだとしたら、
『迷うに決まっているよな…』と
私は思ってしまいます。


その上彼の人生を遡ると、
本当に不遇な経験を数多くしています。


実は小早川秀秋は、豊臣秀吉の妻である
寧々の兄の子でした。
つまり、秀吉の甥にあたります。
秀吉は子どもに恵まれなかったため、
たくさんの養子を迎えていました。
当時は幼少で亡くなる確率も高かったため、
養子をたくさん迎えるのが通例であり、
小早川秀秋は5番目の養子でした。


8歳で丹波亀山城(20万石の領地)を、
10歳で中納言という位を与えられ、
この時、正式に豊臣姓も与えられました。


『秀秋は世継ぎの一人だ』と
誰もが思い始めたのですが、
その後、豊臣秀吉の晩年に、
なんと実子である秀頼が誕生します。


秀頼が生まれたことによって、
これまで世継ぎとされてきた者たちが、
物騒な言い方をするなら
消されていきました。


秀秋もその一人になってしまう
可能性がありましたが、
小早川家に養子に出されたことで
難を逃れました。

それまでは自分を世継ぎ候補として
もてなしていた人たちが、
世継ぎではなくなったことで
去っていく様を、まだ年端もいかない
10代の少年がどんな気持ちで
見ていたでしょうか。



一説によれば
やり切れなくてお酒に逃げた、
釣りばかりしていたなど
揶揄されている部分もありますが、
このような背景を知ると、
少なからず豊臣家に対して
ネガティブな想いもあったのではないかと、
想像することができます。


この背景が史実上あるので余計に
『関ケ原の戦いで寝返った』という
言い方をされるのかな、とも思います。


豊臣家にいたからこそ『裏切った』
という言葉が先行するのでしょうが、
彼の幼少期からの人生、背景を見てみると
なるほどなと思う部分もありますので、
私個人の考えとしては
『小早川秀秋=裏切り者』という安直な
受け取り方は、早計かなと思うのです。


関ケ原の戦いでとても貢献した
秀秋ですが、実は2年後、
21歳で亡くなりました。
短命で、まるでジェットコースターの
ような人生を生きた人だと思います。
その若さで秀秋という人物は、
世の中をどのように見ていたのでしょうか。


小早川秀秋は『裏切り』という代名詞が
ついてしまった人ではありますが、 
決してそうではなくて、その短命を
与えられた境遇の中で全うした人だと
私は思っています。


歴史というのは、現存する資料では
何が正しいのか判断できないことも
たくさんあるので、『諸説あり』という
形で語られることがしばしばあります。


ですので、歴史を一つの視点だけで見る
のではなく、多角的に見ていくことが
大事でおもしろく、学びも広がるなと
思うのです。


この、『裏切り』のイメージを変える方法は
ただひとつ…



そう!!



大河ドラマになればいい!!!





小早川秀秋が主人公の大河ドラマ…
いつか放送されないかなー(笑)。






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