見出し画像

「愛そう、それが商いだ。」


この世は大喜利合戦?


「うまいなぁ〜。」「これはやられた。」

平日の真っ昼間。
がらんとした電車の座席に座り、車内広告を見つめながら、心の中でつぶやく。まさに一人大喜利大会。上手いこと言ったもん勝ちというわけではないのだが、上手いことを言っているものを見つけると、いちいち反応してしまう。

「これは、思いつかないな。」
「確かに!そうだ。」

その広告が、その人の興味関心を刺激するかはさておき、人が興味をいだいて目を向けてしまうものや、気になって手に取りたくなってしまうような状態を創り出す事は、とても大切なことだと思う。

気になるから、調べる。気になるから、買う。
感動や驚きを分かち合いたくて、手に取り、人に見せる。

まさに、noteのタイトルや本のタイトルでも。

「お!気になるぅぅぅ。」

という心の声に流されて、買っているものが大多数をしめている。

その結果、我が家が本の山。

「気になる」が炸裂した本の山@我が家
これは高い高い「山」のほんの一部

そう考えてみると、
飽きさせないって大切なのかもしれない。

恋愛においても、

「横浜の山手に、ユーミンの歌詞に出てくるお店があるから行こうよ!」

荒井由実の『海を見ていた午後』で歌われたレストラン「ドルフィン」
Wikipediaより

さらに・・・

「中目黒に、感動するオムライスがあるから食べに行かない?」

麻布笄軒 中目黒店
写真は三茶散歩より


こんなことがよくある気がする。
(※ちなみにどちらもほんと、オススメ。ぜひ行ってみてほしい☆)

飽きさせないようにするためにタイミングが大切・・・?

しかし、なんでもかんでも飽きさせなければよいってわけではなく、ちょうどよいタイミングで、飽きさせないようにするのも大切だったりする。

次から次へと、あれこれやっていては、飽きさせないようにする行為自体に飽きてしまう。むしろ疲れる。「もういいや」って気持ちにもなったりする。

「そうそう。これ欲しかったの!」

というちょうどよいタイミングを見つけ、飽きさせないようにするというのがより良い。

孫の手
(Amazon.co.jp)の画像

まさに、孫の手。

話が逸れるけど、「孫の手」の語源って、孫って意味じゃないらしい。

爪が長い綺麗な手の美しい女性(中国の神話の仙女・麻姑(まこ))に背中を掻いてもらうという逸話から、届かないところを掻く道具のことを「麻姑の手」と呼ぶようになった。

その訛りが日本に来て「孫の手」と言われるようになったんだって。ちなみに、かゆいところが掻ける、すなわち物事がうまくいくことを「麻姑掻痒(まこそうよう)」というらしい。語源は面白い。

「飽きさせない。それが商い。」の違和感について


最初から「飽きさせない」「飽きさせない」と言っているが、はたして、それが本当に商品や、物事に興味をもってくれている人たちにとっていいのか、それを手にしたことで、幸せになってもらえるのかというのは、ちょっと疑問が残る。というか、最初からずーっと気になってる。


「こうしておけば、正解だ。」
「これがうまくいく方法だ。」


こうしておけばいい、こうしたら人は動く、こうしたらうまくいくかもしれないという、相手を考える気持ちは、不思議なもので伝わってしまう。


「買って欲しいんでしょ?」
「興味持って欲しいんでしょ?」

というほどわかりやすく、心を探られているものほどテンションが下がり、欲しくなるなんてことはありえない。絶対に買わないだろう。

そこに愛はあるんか。


本気でその人の気持ちを考えて、伝えることほど、伝わらないことはないはずだ。例えば、手紙を書く時、どんなに字が汚くても、直筆で丹精込めて書いた手紙の方が想いが伝わったりする。(あんまりにも汚すぎたら読めないが…)

本気が伝わる。

例えば、スピーチを任された時、事前に台本を考え完璧に読む文章よりも、本番当日に話す予定だった文章が、あまりの緊張で、全てすっ飛んでしまったけれど、伝えたかった想いを必死に絞りだし、伝えたメッセージの方が心に響いたりする。

本気度がわかる。

一方で、買い物にいった時に遭遇するお店のスタッフの接近の仕方で、なんだか無性にお店を出たくなってしまう瞬間がある。(もちろんスタッフの方は悪気はないと思うのだが…)

なんだかこの人、ちょっと違和感があるな・・・「ピーッピーッピーッ」
(こんな感じでセンサーが反応する。)

もしかした人間は誰もが、いやらしさを感じ取る「人感センサー」が備わっているのかもしれない。相手の行動で、「なんとなくいやらしく感じる部分」や、「こうしておけば正解」という態度や姿勢を敏感に感じ取ってしまう瞬間がある。

飽きさせないんじゃない。愛するんだ。つまりは、愛なんだ。


「飽きさせない」ではなく、注意深く観察し、その人が求めているものを想像する。

こういうことに困っているんだろうな。
今、こういうことを求めているんだろうな。

その人のことを想い、考え、寄り添う。
どんな言葉よりも、その人を想う事でとった行動は全て愛なのだ。

つまるところ、愛なのかもしれない。

その人にとって、本当に必要なものを想像し、思いやる。優しく添える。時には必要なものを渡さないこともある。その人が自分で手にしなければならないものもある。想像するんだ。とことん考えろ。愛するんだ。大切なのは、あれもこれもと「飽きさせない」ことをするんじゃなくて、愛をするんだ。

訂正しよう。
正しくは、「愛そう、それが商いだ。」

商いこそ、愛が必要だ。「飽きさせない」ために、あれこれやってる場合じゃない。とことん思いやり、考えれば自ずと答えは見えてくる。たった1人の目の前のことを考え続ける。

「マス」なんてものはない。
あるのは、たった1人への「アイ」だ。

愛するんだ。今こそ。

『我々は2つの脳を持っている。1つは頭。
もう一つは見えないけれど、胸にある。
胸の脳の方が頭より重要で、本当の賢者と言うのは、この2つの脳の調和がとれている人のことを言う』

『アミ 小さな宇宙人』
第4章 ひとを幸福にしないシステム より


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?