「愛そう、それが商いだ。」
この世は大喜利合戦?
「うまいなぁ〜。」「これはやられた。」
平日の真っ昼間。
がらんとした電車の座席に座り、車内広告を見つめながら、心の中でつぶやく。まさに一人大喜利大会。上手いこと言ったもん勝ちというわけではないのだが、上手いことを言っているものを見つけると、いちいち反応してしまう。
「これは、思いつかないな。」
「確かに!そうだ。」
その広告が、その人の興味関心を刺激するかはさておき、人が興味をいだいて目を向けてしまうものや、気になって手に取りたくなってしまうような状態を創り出す事は、とても大切なことだと思う。
気になるから、調べる。気になるから、買う。
感動や驚きを分かち合いたくて、手に取り、人に見せる。
まさに、noteのタイトルや本のタイトルでも。
「お!気になるぅぅぅ。」
という心の声に流されて、買っているものが大多数をしめている。
その結果、我が家が本の山。
そう考えてみると、
飽きさせないって大切なのかもしれない。
恋愛においても、
「横浜の山手に、ユーミンの歌詞に出てくるお店があるから行こうよ!」
さらに・・・
「中目黒に、感動するオムライスがあるから食べに行かない?」
こんなことがよくある気がする。
(※ちなみにどちらもほんと、オススメ。ぜひ行ってみてほしい☆)
飽きさせないようにするためにタイミングが大切・・・?
しかし、なんでもかんでも飽きさせなければよいってわけではなく、ちょうどよいタイミングで、飽きさせないようにするのも大切だったりする。
次から次へと、あれこれやっていては、飽きさせないようにする行為自体に飽きてしまう。むしろ疲れる。「もういいや」って気持ちにもなったりする。
「そうそう。これ欲しかったの!」
というちょうどよいタイミングを見つけ、飽きさせないようにするというのがより良い。
まさに、孫の手。
話が逸れるけど、「孫の手」の語源って、孫って意味じゃないらしい。
爪が長い綺麗な手の美しい女性(中国の神話の仙女・麻姑(まこ))に背中を掻いてもらうという逸話から、届かないところを掻く道具のことを「麻姑の手」と呼ぶようになった。
その訛りが日本に来て「孫の手」と言われるようになったんだって。ちなみに、かゆいところが掻ける、すなわち物事がうまくいくことを「麻姑掻痒(まこそうよう)」というらしい。語源は面白い。
「飽きさせない。それが商い。」の違和感について
最初から「飽きさせない」「飽きさせない」と言っているが、はたして、それが本当に商品や、物事に興味をもってくれている人たちにとっていいのか、それを手にしたことで、幸せになってもらえるのかというのは、ちょっと疑問が残る。というか、最初からずーっと気になってる。
「こうしておけば、正解だ。」
「これがうまくいく方法だ。」
こうしておけばいい、こうしたら人は動く、こうしたらうまくいくかもしれないという、相手を考える気持ちは、不思議なもので伝わってしまう。
「買って欲しいんでしょ?」
「興味持って欲しいんでしょ?」
というほどわかりやすく、心を探られているものほどテンションが下がり、欲しくなるなんてことはありえない。絶対に買わないだろう。
そこに愛はあるんか。
本気でその人の気持ちを考えて、伝えることほど、伝わらないことはないはずだ。例えば、手紙を書く時、どんなに字が汚くても、直筆で丹精込めて書いた手紙の方が想いが伝わったりする。(あんまりにも汚すぎたら読めないが…)
本気が伝わる。
例えば、スピーチを任された時、事前に台本を考え完璧に読む文章よりも、本番当日に話す予定だった文章が、あまりの緊張で、全てすっ飛んでしまったけれど、伝えたかった想いを必死に絞りだし、伝えたメッセージの方が心に響いたりする。
本気度がわかる。
一方で、買い物にいった時に遭遇するお店のスタッフの接近の仕方で、なんだか無性にお店を出たくなってしまう瞬間がある。(もちろんスタッフの方は悪気はないと思うのだが…)
なんだかこの人、ちょっと違和感があるな・・・「ピーッピーッピーッ」
(こんな感じでセンサーが反応する。)
もしかした人間は誰もが、いやらしさを感じ取る「人感センサー」が備わっているのかもしれない。相手の行動で、「なんとなくいやらしく感じる部分」や、「こうしておけば正解」という態度や姿勢を敏感に感じ取ってしまう瞬間がある。
飽きさせないんじゃない。愛するんだ。つまりは、愛なんだ。
「飽きさせない」ではなく、注意深く観察し、その人が求めているものを想像する。
こういうことに困っているんだろうな。
今、こういうことを求めているんだろうな。
その人のことを想い、考え、寄り添う。
どんな言葉よりも、その人を想う事でとった行動は全て愛なのだ。
つまるところ、愛なのかもしれない。
その人にとって、本当に必要なものを想像し、思いやる。優しく添える。時には必要なものを渡さないこともある。その人が自分で手にしなければならないものもある。想像するんだ。とことん考えろ。愛するんだ。大切なのは、あれもこれもと「飽きさせない」ことをするんじゃなくて、愛をするんだ。
訂正しよう。
正しくは、「愛そう、それが商いだ。」
商いこそ、愛が必要だ。「飽きさせない」ために、あれこれやってる場合じゃない。とことん思いやり、考えれば自ずと答えは見えてくる。たった1人の目の前のことを考え続ける。
「マス」なんてものはない。
あるのは、たった1人への「アイ」だ。
愛するんだ。今こそ。
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