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変わることない存在

「尊敬する人について、原稿用紙2枚程度で書きなさい。」
わたしが高校留学をすることになり、留学協会の担当員さんから出された学力テストの一貫にそんな問題があった。

その当時は言われるがまま、「お、作文なら得意だー!」と迷うことなく
「私の尊敬する父親」のようなタイトルを付け、ささっと書き上げた。

「変なおじさん」


病気のため亡くなってもう15年ほど経つ。
我が父はどんな人だったかなぁと久しぶりに考えてみた。

家では絵に描いたような昭和の亭主関白な男で、居間のテレビを独占。
野球中継を見ながら毎晩スーパードライをグビグビ、煙草をプカプカ。

食後には「おい、お茶」と母にお茶を淹れさせては、薄いだのぬるいだの文句を言っていた。(娘はこれがどうも苦手な光景だった)

そんな父だが、一人娘には甘かったし幼いころはよく遊んでくれたものだ。

家族で外食に出かけるとき、父とわたしが先にエレベーターに乗り込み、「おい、お前もやれ」と『アイーン!』のポーズでスタンバイ。
小走りでやってきた母がボタンを押すと、180cmの志村けんとちびっこ志村けんが登場。「もうなんなの二人してぇ」とよく母を笑わせた思い出がある。

夕方、自室で勉強をしていると「おい!ドラゴンボールの時間だ」と大声が聞こえてくる。お気に入りのアニメの再放送はなんとしてでも見せる、という謎の教育?方針を持っていた父。

座布団に正座で鑑賞する30分。こちらは痺れた足で「セル」だの「ヤムチャ」だの、それどころではなかった。(今ではわたしも好きな作品である)

実は努力の人だった父


留学するキッカケは父だったのだが、英語教育についてはまさに「鬼」のような人で、よくテキストで頭を「ゴツン!」とたたかれた思い出がある。

反抗したくなるところだが、父は自分で英語を学び学習塾を経営していた。教員としての父は見たことがなかったが、たまに家族旅行で英語圏にいくと、それはもうベラベラと英語を喋っていたのを覚えている。

その当時は「親だから」「仕事だから?」と思っていたのだが、のちの自分のように英語圏での生活経験もなく、現代のような便利アプリも英会話スクールない時代だ。

どれだけ苦労して、会話に詰まる事も笑われる事もない英会話を習得したのだろう。想像しがたいし、出来れば晩酌しながら聞いてみたかったなぁ。

母が憧れていた父


母も忘れているだろうむかしに「パパのどんなところが好きなの?」と聞いた覚えがある。たしか「何をきいてもぜーんぶ!おしえてくれるのよ、素敵でしょ」という答えが返ってきたことがある。

確かに父の部屋には大量のCDと本がひしめき合っていた。もうほとんどを処分してしまったのだが、大きな本棚3つから溢れていたっけなぁ。

当時はやっぱり「本が好きなんだ」「いつもジャズ聞いてるもんね」くらいにしか思っていなかったのだが、いったいどれだけの知識を本から取り寄せたのだろう。

やっぱり想像しがたい。パソコンやスマホにかじりついている自分とかけ離れた世界で、やっぱり一緒にプシュッとしながら聞いてみたかったなぁ。

何年経っても変わらない父


今思うと、ふざけた姿や亭主関白な姿はみてきたが、大抵はその日中に帰宅をし、仕事の愚痴も娘にきかせることがない父親だった。

わたしも社会人10年生ほど。30代も半ばになった今、記憶の父はちょうどこのくらいの年だったのか?と思うと「うわぁ、とてつもなくすごくないか?」と思う。

とびきりわがままだし怒ると鬼のようだし、でも憧れのような、遊んでくれた時代は兄のような存在だった父が、留学から帰国するタイミングで亡くなってずいぶんと辛い時期が続いた。

それでも、中学生の自分が書いた「尊敬する人物」の小論文と、34歳のいまの私が書いた「尊敬するヒト」のnote。

対象はもちろん、愛情も敬意すら変わらない気がする。

こうしてずっと尊敬する素敵な父でいてくれた事に改めて敬意を表しつつ、また10年後とかに同じテーマを書いても同じなのかなぁと苦笑い。
なんだか父の日のようなnoteになった。笑


今日はここまで。書き始めたら長くなっちゃった!
みなさま、よい夜を~☕

~haluさんとの交換note~
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