居場所というコンフォートゾーン
インプットもアウトプットもなにかのラインに到達したようだ
毎日何かを投稿しようといろいろなトリガーを作りやってきた
すでにアンカリングになってはいるが
PVやフォロワーがだんだんソシャゲのコインに見えてくるようだ
自分のスタートラインは何だったのか?
何かをただ発信したかっただけなのに
誰かに見てもらいたくなり、誰かに称賛してもらいたくなり
気が付けば興味もない記事を漁り記事を書いている自分を冷静に見ている自分がいる
フォロワーの増減で一喜一憂し、明確な決まりもない相互フォローの外した外されたで怒りを覚える
いつの間にか底のない渦巻く承認欲求というものに飲み込まれ始めた
これはただのスランプなのかもしれない しかし何かを勘違いしている気がする
毎日斬新な投稿を続けている大物ユーチューバーには頭が下がる
どんなメンタルしてるんだよ
■SNSもリアルも。居場所づくりに必要なのは「行動力」ではなく「行動量」
集団内での自分の役割がわからず、とるべき行動が思いつかない状態に陥ったときに”居場所がない”ということが発生する
これには”コミュニケーション能力”が必要だ
居場所には
数人の人間関係からなる”ミクロな居場所”と
社会的地位に相当する”マクロな居場所”がある
前者はまさに人間関係そのものであり、後者はどちらかというと肩書・立ち位置といった意味合いが強い
社会的地位は本当の自分ではない場合があり、
いわゆる役割を演じている”ペルソナ”を使っている人も少なくない
ネット、ここではSNSの居場所はミクロな居場所の一種だという
SNSは居場所になりうる
ミクロな居場所の一種なので会社、学校やバーなどの人間が集まる箱のひとつでしかない
不特定多数と思われがちであるが、突き詰めていけば画面の向こうには人がいるのであり、人が反応したりしなかったりである
SNSで居場所を絶対見つけなくてはいけないわけではないし
SNSを通じた居場所作りを意識しすぎるのは良くない
結局SNSもリアルな人間が居てこそであり人間関係であることに何ら変わりはない
人と人の繋がりの手法のひとつでしかない
投稿にコメントが付かないことで思い悩んだり傷つく人もいるが
実際に普段の生活においても周囲が常に自分に関心を持っているわけではなく
逆に自分も他人にずっと関心を持っているわけではない
SNSにおいて反応があるコメントには特徴がある
”激しい共感がある、もしくは激しく同意できない”場合だ
また質問を投げかけている投稿にはコメントが増える傾向がある
やはり良くも悪くも人の感情を刺激する”何か”が必要だ
コメントがつかない人が書き込む情報は、いずれの方向にも触れていないことが多いため反応がなくて当然のこと
ただ、それが悪いことというわけではない
他人に影響を与えずにただそこにいる存在
何かしらの”間違えた価値観”で自分を見つめてはいけない
でもなにかのリアクションが欲しい場合はこの感覚がもたらす要因を注視すべきだ
居場所がないという感覚は”役割の認識”と”行動量が足りていない”
幸いにも記事では5つの行動量の増やし方を紹介している
・常連化
→リアルと同様にコミュニティに認知されるくらい顔を出す
・友人のハードルを下げる
→リアルよりも顔が見えづらいネットではハードルを下げ友人として認識する
・リアクト(反応)
→他人のネットの書き込みに反応する
・アクセプト(受け入れ)
→反論するのではなく受け入れる
・コミュニケート(連絡)
→自分から情報を発信したり、実際に会う
やはりSNSもリアルも同じことのようだ
リアルで居場所がないからと言って、ネットに居場所を探しても
”同じ趣向の人"は見つけられるかもしれないが
リアルを代替する居場所とは違う
noteは俺の居場所なのか?
否、ただそこにあるプラットフォームにいつも手帳に書いていた考えや、
寝る前に思い浮かべていた事を転記しているだけだ
なんて賢者モードになってみても
でもでもやっぱり反応は欲しいし、称賛されたい
それが人間の欲求であり本来の人間の姿のような気がする
俺は2ヶ月前のブログスタートの習慣から卒業しようとしている
何かの化学反応が起きて一気に次のステージに行きたいだけなんだ
だから書いて書いて書きまくって反応が起こる人と出会うまでこの書く手を止めない!