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消費されるボクたちは

日常をザクっと切り取ってストーリーにして
シェアしてライクして明日には泡と消える

日々を切り貼りして、切り売りして
ボクたち消費ピープルが作ったカルチャーは
カウンターカルチャーが現れて、いつかは廃れて
皆が忘れた頃にリバイバルされる

デジタルの中の共鳴/エコーチェンバー

15秒のストーリーの連続が人生というならば
あなたの見ているものはボクの1日の0.02%にすぎない
預金の金利以下のボクを見たところで
なにがわかるというのだろうか

消費ピープル
いつからかボクたちは国民ではなくて消費者になり変わった

政治も経済も人生も全て消費する側にまわって
顧客の立場から批判や評価をして与えられるのを待っている

この国がどうのこうののナショナリズムではなくて
私にとってどうなのかという消費個人主義の国になった

究極のエゴイズムが公明正大、清廉潔白というはちまきをして
あれよあれよと騒ぎ立ててすべてをコンテンツ化しはじめる
全てはエンターティメントなんだ
それでもあなたたちはボクを厭世主義者と切り捨てるのだろうか

コンテンツ化された世の中
エンタメは常に進化し続けていて、今や消費する側もプロフェッショナル

プロ消費者が溢れているこの国で
全員が満足のいくコンテンツを作るのは難しいし
飽くなき煩悩を満たすためにどこまで手を突っ込めばよいのか
人の欲はその身が亡ぶまで青天井で際限がない
そして今自分がコンテンツのどの位置にいるのか
何に囲まれているのか

いっそのこと何も考えず、ありのままでいいんじゃないのか
そのありのままでいようとする事でさえもコンテンツなんだ
ありのままの上位互換での達観までレイヤーを上げていかなければ
この構造は望めない

諦めと達観、似て非なるもの
どの角度から見るか、どう捉えるかによって変わる
ボクたちは達観して視座を高めて俯瞰したほうがいい

タイムラインをスワイプして流れるように個人を消費して
10年前よりずっとずっと多くの人(のようなもの)に触れることができて
可処分時間では消費しきれないほどの情報が溢れている
人の情報受信許容量限界のラインはどこなのだろう
まったく見当がつかない

平安時代の一生分の情報を一日で浴びるボクたちに
もののあはれはあるのかな


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