マスターピース
もし人に色というものがあるならば
自分はどんな色をしているのだろう
色彩は多種多様な人の内面と同様に数多の色が存在する
赤、黄色、オレンジ、緑、青、紫、黒
人が大まかにカテゴライズした括りでは表現できない程
現存するカラーコード以上に色は存在している
色は太陽光の反射が視界に入っているだけの現象
可視光線の範囲内でのお話しだ
太陽がなければそもそもボクたちは色を認識できない
色と人の相関性があるとして
人の色を決定づける媒体としての太陽は何になるのだろうか
耳障りの良い安直な比喩でたとえれば
人格や心、はたまたオーラであるとか
この際若干のスピリチュアルな要素は横に置いておくとして
それらは内在してるものであって
太陽の存在は僕たちにとってまったくの外的要因だ
だとするならば
人にとっての太陽のような外的要因とは
外にある社会や文化なんじゃないかな
社会と文化が人に与える影響として
社会環境と共に常識や道徳が醸成され
文化と共に価値観や倫理が育つ
時代と土地に紐づく影響力は根深い
根深いが何故かいまいちピンとこない
ミクロな個人の経験とか周囲の影響より
マクロな影響力がある社会・文化は普段わざわざ意識をしていないから
無意識下で影響を与えるものこそ強固で根深いものであるけれど
認識することは稀であるし、だからこそ塗り替えるのは相当難しい
個人のカラーとは
単に地域・文化のナショナリズムの範疇を超えて
何をもって個人を規定するのかというレゾンデートルの問いになっている
バックボーンにあるのは個人の枠を超えた歴史の積み重ね
その上に意識下と無意識下のグラデーションが張り付いている
かの弘法大師空海は無意識下に影響を与えることができたという
ここで意識外を認識できるのかという疑問が出てくる
唯識論でいう末那識と阿頼耶識
いづれも堅気には到底理解できるものでもないし
結局のところよくわからないもの
よくわからないものからボクたちの根源は規定され
それも単色ではなくグラデーションで構成されている
そもそもの話、多くの事象に紐づく理由らしき理由なんてものは存在せず
人の整合性を取りたいという欲求から後付けの理由が作られる
理由なき事物へのアンチテーゼ
方程式をイコールにするための整合性の幻想
吉本隆明が提唱した共同幻想論にも通ずる話だ
幻想はスキマを埋めるパテみたいなものだ
こうであるべきだ、こうでなければならないという決め付けは
一過性の安心・安定を得られるが幻想であることには変わりはないので
とても不安定で脆い
いつまでたっても自己啓発本の決定版がでない理由がここにある
社会や文化は幻想に包れてその場にいる人は気がつけない
虹の端に居る人のように現状認識は難儀だ
時が経って100年、200年と経つにつれ認識が出来るようになる
つまり時代が変容してはじめて輪郭が浮かび上がってくる
他者を含めた360度の評価軸なんてそんなものだと思う
だからボクのレゾンデートルは1世紀後に明らかになるし
個人で思い描いているものの大半は幻想であって
その内実にある核に自ら触れることはできない
だからこそ真実を明らかにする事より
太陽に照らされてボンヤリ浮かぶ色に全てを賭けてみたいんだ
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