ある画家との対話
(ある画家)
私は老人のちょっとした所作が嫌いだ。
たとえば、
マスクを着けた口をムグムグと忙しなく動かし、入れ歯をチュウチュウ音を立てて吸う様。
震える脚に言うことを聞かせ、ノロノロふらふらと移動する様。
将来はお前もこうなるのだから嫌悪するな
という問題ではない。
理屈では無いのだ。
ある者は昆虫を見ても触っても平気であるのに対し、
ある者は見るのも受け付けない、
それと同じである。
私は今まで、介護を必要とした自分の祖父母を見てきたが、どうしても好きにはなれない。
むしろ自分には無理だということが如実に分かっただけであった。
子供も嫌いである。
平べったい凡な日本人の赤子や子供の顔を見て、
どこの何が可愛いのか分からない。
街や公園で散見される振る舞いや叫び声は、
サイズの違いだけで、
知的障害者とそれほど変わらないではないか。
私は老人にも子供にも、
社交辞令という意味では優しく振る舞える(つもりだ)。
しかし、真の意味では優しくできないのだろう。
それは咄嗟の場面で浮き彫りになる。
きっと、
老人や子供が生命の危機に瀕したとき、
そしてその場面に自分が出くわしたとき。
助けの手を差し出すか否かのたったコンマ数秒の中で、
ひとは必ず頭の中に様々な思考が逡巡する。
そこで私は目の前の老人や子供の命よりも
自分の一方的な嫌悪の感情を優先してしまうのだ。
ーーーそれで、つまりどういう事ですか?
(ある画家)
こんな、世間的には最低のクソ人間が描いた絵であっても、
作者のそのような穢らしいものは、
絵からはなにも感じ取れないだろう?
君が見ているものは、
そして今聞いたことも、どこまでも、
私に数多あるうちの一面に過ぎないのだよ。
さきほど、君は私の作品を見て
綺麗だと言ってくれたが、
この話を聞いて何か見え方は変わったかい?
ーーーいいえ、何も。
ーーー綺麗な絵を描く人だからと言って、心が綺麗な人とは限らない。おぞましい絵を描く人だからと言って、心がおぞましい人とは限らない。
動物好きでどんな生き物にも優しい人間だからと言って、同じように人間にも優しいとは限らない。
当たり前のことでしょう?
人が発するたったひとつやふたつの欠片からその人の本質を推し量ろうとするのは、とても浅ましく愚かな行為だと、私は思っています。
それに、
さっきあなたがお話して下さった嫌悪のことも、
老人や子供を嫌悪するあなたの一面を穢らわしいだとか、最低な奴だと感じるか否かも、
人それぞれですよね。
そんなどこまでも主観でしかなく不確実な情報だけで、
あなたの作品は揺らぎません。
あなたの作品は、あなたに関係なく、
私にとって綺麗です。
私にとって綺麗だと感じればそれでいいのです。
(ある画家)
そうだ、その通りだ。
それで良い。
ある画家は満足そうに口角を上げ、頷いた。
私も思わずつられてニンマリとした。