レンブラント 略歴

1606年7月15日アムステルダムの南西約40 kmライデンに
   9人兄弟の八番目として生まれる

1614年ラテン語学校に入学

1620年5月20日ライデン大学に入学するが数か月後に退学

1621年画家ヤコブ・フィン・スワーネンブルフの弟子となる(~23年)

1624年アムステルダムにでて歴史画家であるピーテル・ラストマンのアトリエで学ぶ6ヵ月学ぶ
   その後ライデンに戻り自分のアトリエを開く

1631年アムステルダムの画家ファン・オイレンブルフと契約、アムステルダムに出てオイレンブルフ家に住む

1632年『テュルプ博士の解剖学講義』を制作

1634年画家ファン・オイレンブルフの姪サスキアと結婚

1635年12月長男ルンバトュスが生まれるが、2ヵ月後に死去

1634年7月長女コルネリアが生まれるが1ヵ月足らずで死去

1640年7月次女コルネリアが生まれるが、死去

1641年9月次男ティトゥスがうまれる
   (第四子である彼が唯一成人に達した子供)

1642年『夜警』を制作、妻であるサスキアが結核のため30歳の若さで死去
   ティトゥスのためにヘルティエ・ディクスを家政婦に雇う

1648年ヘルティエと不和になり解雇するが彼女に婚約不履行で訴訟され、
   200フロリンの年金を彼女に支払うように命じられる。

1649年ヘルティエの解雇以前に雇い入れたと思われる
   ヘンドリッキェ・ストッフェルスが事実上、第二の妻となる

1653年コレクションのための浪費とオランダを襲った経済恐慌が祟り財政困    難に陥る
   友人のヤン・シックスらから、全財産を担保に、1年以内の返済を
   約束して借金する

1654年借金返済の約束が果たせず担保を書き換える。
            画風の独自の深化が買い手を遠ざけ財政状態は日増しに悪化する
            10月、娘コルネリア生まれる

1656年担保に入れた家を債権者から守るためにティトュス名義に
   書き換えようとするが失敗
   破産宣告の不名誉を避けるため市評議会に「財産譲渡」申請、
   7月財産目録が作成される

1657年12月財産処分の最初の競売が行われ、自作の70点の油絵と 
   美術品が売り立てられる

1658年2月家、動産、9月にデッサンと版画が競売に出されるが評価の
   1/3以下の値しかつかず、負債の償却が不可能

1660年12月一家は邸を引き払いローゼンフラフト街の小さな家に移る

1668年9月4日ティトゥス死去

1669年10月4日アムステルダムで死去

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