僕が宮崎からフルリモートで都内の仕事をするまでの軌跡

グイタラです。

紆余曲折あって今の形になった軌跡を辿り、こんな人もいるんだと一つ面白く見てもらえたらと思います。

概要を言うと、正社員からの都内フリーランス転身、そして5年のブランク!を経て宮崎のフルリモート都内業務に切り替わりました。

これらを細かく見て、こんな人生もあるのだと思ってみてください!

これを読むと、社会人の一面を知れると思います。

未熟な正社員時代

正社員の始まり

僕の正社員スタートは遅く、24歳からでした。それまで大学院まで学業。

地元宮崎での大手に入りました。

地元国立の大学院の情報を出てることもあり、地元のシステム会社での就職はお客様のような状態で通ったくらいです。

ただその他は全然うまく行かない都内での就職活動でした。

そして、正社員では大きく宮崎、神奈川、北九州で働くことになります。

初めての宮崎勤務

宮崎勤務では、主に歯医者の予約システムや銀行の顧客管理に使うシステムの開発でした。

勤務内容はさておき、残業も多かったです。

ただ、並行してバンド活動もしていたので、夜はそのままバンド練習に行ったり、バイタリティのある感じで動き回っていました。

それだけ好きなんだねと社員に驚かれたことを覚えています。

ただ、先輩社員に教えてもらいながらで、本当に文字通り微力で働くような感じでした。

大学では主に考え方、技術も学びましたが、実践となる社会人、到底一筋縄ではいかず。

しかし、土地柄なのか、特別苦労したという記憶はありません。

良くも悪くも緩いと言ってしまえばそんな印象でした。

この後、バンド活動も引き裂く、神奈川への転勤通告が起こるわけですが、この時音源を作る予定にしていたのに、泡沫の夢となってしまったのでした。

これが一年間の顛末です。

地獄の神奈川勤務

まさに振り返っても、地獄といえるでしょう。

なにをやってもうまくいかない、注意ばかり受ける、今まで自分のやってきたことは何だったのか、それくらい追い込まれました。

まさに都会の洗礼を受けました。しかもITの企業の中でも名だたる大手の環境に常駐。
田舎者出身の僕にはとても手も足も出る感じではなかったです。ましてや社会人経験も二年目で未熟、今でも一体自分に何ができてたのやらと思います。

そもそも東京と気負いして僕自身も強く出て、良くない応対だったなと思っています。

ただ、メンタルをヤラレにやられて、そんな中横浜を歩いてると怖い思いをしたのを思い出しました。

僕が人とぶつかってその人の携帯が地面に落ちて壊れたという人が現れたのです。

そして強面の人とのペアでどうするのか弁償するのかという話になりました。

結局弁償という形でそれなりの金額、確か8万円くらいを渡したのですが、どう考えても周到なやり口でぶつかったのもわざとで見るからに辟易して弱ってる僕にわざとぶつかって壊れてもない携帯に文句をつけてジャラジャラしたアクセサリーで威嚇して取り立てたんだろうなと思います。

横道にそれましたが、思い出したので書いただけで、滅多にあることではないと思います。

大変な半年間、そして北九州に行くことに。

馴染めない北九州

最終的に、正社員は真っ当に働けた記憶がなく、きつい思いばかりした記憶です。自分は正しく社会不適合者そのままの文字面の、人間でした。

うまく仕事ができず迷惑ばかりかけ、経歴こそいいものの実力のない、お荷物状態。

北九州ではそれなりに同じ社員の立場の人が多い現場だったのですが、全く持って馴染めず。
自分が空気を悪くしてるんじゃないかと。

それでいて、神奈川ではコテコテに厳しい思いをしたので、その経験を悪いように活かし、厳しい振る舞いをする僕。マジで最悪としか言いようがない、悪いようにばかり立ち回っていたと思います。もはや今は顔向けできる気がしません。

そんな中、会社への恩義も返すこともなく、フリーランスエンジニアになるわけですね。

正に外道。

とは言いませんが、お返しもできず、むしろ何をしていたのだろうと思うところも多くある中の退社でした。

外道な振る舞いの正社員を振り返って

まともに働けず、それなりに技術だけは身につけて、経歴だけ技術者としてやっていた僕、なんとこんな僕にも当時TwitterのYUIファンアカウントとして積極的に活動していたのですね。そんな中で出会ったのがフリーランスエンジニアだったのであります。

それはもう憧れました。何より、外道なことに月収に。それと勤務場所選べるとか付属で良い面もありましたが、当時は都会に行きたいのもあり、音楽活動を本格的に都内でやりたい気持ちも強かったです。できることなら音楽で食っていきたいのが本心でした。

しかし事態はこれまでを見ての通り、そんなにうまくいくはずはなかったのです。

都内での不慣れなフリーランスエンジニア生活

まさに不慣れ、しかも助けてくれる社員さんもいない。

結論から言って、都内でのフリーランス生活はボロボロでした。

ほぼほぼ現場も継続できず、点々とする始末。

まともに働けた気がするのは、都内での最後の現場くらいのものでした。

この時、自分で会社で働くのは満足というか、やりきったつもりになりました。

まともに働けたのに味を占めて、これでもう終わっていいと思ったのです。

これからブランクの5年間を進む羽目になるわけですが…28から33くらいまで働かずに過ごしたのです。貯金と実家と借金で。

5年間、衝撃の長期ブランク

結局音楽への道が捨てきれないのもあり、仕事が途切れてからは探さず、ひたすらにライブ活動、路上演奏に走るのです。

ただ、そんなことやってるだけでは何もうまくいかないわけですね。

今思えば結局何がしたいんだ状態です。

路上で小銭稼ぎはできましたが、生活を支えられるわけもなく。

フリーランスシステムエンジニアで羽振がよかったのが悪く出て、お金ばかり出ていく。

そんな中、独りよがりになっていくのです。

僕はお金を失い、信用を失い、自己を失い、無茶苦茶な人生を歩んでいました。

都会で1人ひたすらに彷徨っていました。

それから都内で色々あったのですが、詳しく書くと差し障りがあるレベルでやばかったので、省きます。

怖がることはありません、ただ人生色々あるということです。

どうしても知りたい人向けには、いずれ書くつもりです。伝えるつもりです。今はその時じゃない。かな。

そして、僕は実家宮崎に帰るのです。

そして実家ではひたすらやられたメンタルを復活する日常でした。

そしてなんとこのブランク5年をもってして、ここから起死回生の、フルリモートフリーランスシステムエンジニアが爆誕するわけです。

宮崎からのフルリモートシステムエンジニアの手際

手前味噌ですが、よく働けています。仕事が楽しい。

仕事仲間との交流も楽しい。

僕は、都内最後の勤務で掴んだうまくやれる感覚と、そこから絶望に絶望を重ねた逆境からの人生経験を元に、華々しく真っ当な人間として働くことができるようになったのです。

おかしな話ですがコロナがあってリモート勤務が普及したのも後を押し、宮崎にいながらフルリモート勤務をできるようになったのです。

今35歳、まさに仕事が楽しい時期というわけです。

僕のこれからの仕事

そしてそんな仕事も、一つの区切り。

なんと契約の都合で12月までとなったのです。

意外と簡単に崩れるものなのだなと思い、新たな人生を歩む意味でも、noteを書き始めたのです。

とはいえ今のフリーランスシステムエンジニアをすぐに辞める気は今の所ありません。

また案件の切り替え時期の4月から勤務予定です。仕事探す所からですけどね。

ただ、ゆくゆくはnoteだったり、好きなことで生きていくつもりです。

仕事自体も楽しいのですが、時間制約がデカすぎるんですよね。会社の人との交流も楽しいのですが、とりあえずは40歳までを目処に、自分だけの仕事に切り替えていくつもりです。

今なまじ給料が高い分、その生活レベルを下げるようなら今の仕事を辞める気もあまりありません。

社会的にも、真っ当な仕事してる方が都合が良いことも多いですからね。良い部分はしっかり享受する精神です。

終わりに

仕事は大変です。だけど、大変でした。

今は楽しいです。仕事が、人間関係が、人との関わりが、ここまで楽しくなると思いませんでした。

今は、会社勤めは、自分の社会性を高めるための場だと思っています。

どう振る舞い、どう接したら相手のためになるのか、考えています。

そして、自分でよくできていると思います。

そのため、人間関係も良好です。

ここまで自分ができるようになったのは、年の功もありますが、自分の人生をやりたいことを疎かにせずに、やりすぎたことも、それで大失敗したことも、糧になっているということです。

ただ、僕は失敗しなければその方が良いと考えています。

辛い思い、苦しい思いをする必要は、はっきり言ってありません。

楽して楽しく生きれるのが1番。

そのためにどうするかを考えること。

そして自然体の自分を受け入れ、社会に認めてもらえる形に合わせ、自分と社会との接合点を見つけて、上昇気流に乗る。それが大切だと思います。

締めくくりに、こう言わせてください。

人生は最高です。

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