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【ショートショート風エッセイ】あの頃飲んでいたコーヒーをもう一度
「くぅー、懐かしい味だ」
2025年1月。
石川光太郎(いしかわ・こうたろう)は、コンビニで買ったコーヒーを飲んだ。
2019年に結婚してこの街に移り住む前、光太郎は実家のある別の街で塾講師をしていた。
その頃、授業が始まる90分前の15時半に決まって毎日コンビニのコーヒーを飲んでいた。さまざまなコーヒーを飲んだが、世界的に有名なチェーンよりもコンビニの100円のものの方が美味しい。大好きな味だった。
光太郎はあの頃、本当に苦しんでいた。上司からのパワハラ、毎日のように鳴り響く保護者からのクレームの電話、仕事のできない同僚のミスの尻拭い。光太郎がギリギリのところでぶっ倒れなかったのは、会社の目の前にあるコンビニのコーヒーとチョコドーナツのおかげだった。
しかし、コーヒーの魔力も限界を迎えた。光太郎はコーヒーを買いに行く道中で突然意識を失って救急搬送され、そのまま体調不良から退職。それ以後、あの辛い日々を思い出すのが怖くて、そのコンビニを自然と避けるようになってしまった。看板を見るだけで寒気がするほど、光太郎のトラウマとなってしまったコンビニのコーヒー。
しかし、結婚して別の街に移り住み、転職もしたことで心はすっきりと晴れ渡り、そのコンビニに入る勇気が湧いてきたのである。
おそらく7年ぶりくらいではなかろうか。
お馴染みの店内BGM。どこの店舗でも同じ曲が流れている。あの頃はこのBGMを聞くだけで頭痛がしたのに、ただただ「懐かしい」という感情だけが脳を支配する。
「俺も大人になったんだな…」
生まれて初めて、このコンビニのBGMが心地よく聞こえた。光太郎は、自分の成長を感じる。成長というよりむしろ、「心が浄化された」という感覚に近いのかも知れない。
当時は100円だったコーヒーは、今は120円。近年の物価高のせいで、10円玉を2つ出すという手間が加わった。
当時は手に100円玉を握り締め、財布も持たずにコンビニに入ったものだ。
味は当時のまま。
あの頃同様、コーヒーは色んな意味で苦かった。