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あべこべ人間と勇気の話

最近食べたいものは焼肉。大きな肉のかたまりをじっくり焼いて食べたい。ジュワーと音を立てながら、もうもうと上がる煙。そんないつか見た光景を何度か脳内で再生している。しかし、その焼肉を食べに行く時間は今のところない。

その昔、ぼくらの祖先は野原でナウマン象や鹿、猪などを日常的に追い回して来た。当然それはジュウジュウと焼いて食べるためであり、生きるためなんだけど。ぼくらはその当時のことを全く知らないから、ナウマン象を追いかけ回していた人たちのもっていた暮らしの知恵はよくわからない。遺跡や貝塚などのゴミ捨て場に残っていたものから推測するしかない。今は数が少なくなったけれど、まだなんとか残っている狩猟採集民族の行動などから想像するしかないけど、たぶん森や山に入って何が有用な植物で何が危険な植物かはよく知っていたと思う。たぶん現代人のように毒キノコと食べられるキノコを間違えるヘマはしない人たちだったんじゃないだろうか。現代人にできることを彼らはできなかったけれど、彼らが知っていたことをぼくらは知ることができないし、彼らができたことの中にはぼくらができないこともあるだろう。

ぼくにはたくさんできないことがある。むしろできないことだらけとも言える。ものをまっすぐに切ることができない、紙や板などをきっちりズレなく揃えることができない。ギターはコードを弾くくらいだし、それも満足にできるわけでもない。繊細な絵を描く根気もない。整理整頓は苦手だし、うっかりしている割合が多く、ちゃっかりしている割合はそのぶん少ない。

その代わり文章は人並みに書ける(と思っている)。noteにはレポートの書き方を無料で公開している。そのほかできることといえば、お題をもらってコミカルな悲劇を即興で語ること。パラパラのチャーハンを作れるし、おでんも作れる。あとは鳥ハムも作れる。人並みにトイレ掃除はできる(自宅とSINGLESに限る)。食器洗いもできるな・・・・・・うん意外にできることがある。

得意不得意は誰でもあるし、正しいこともダメなことってのは誰にでもあるんだなって最近思う。ある人のAがダメだからBもダメってことは必ずしもなくて、AとBがダメでも、Fは良い、むしろFについては専門で誰よりも知っていることだってある。その知っていることが万人にすぐに役立つかはわからないけれど。

日本はまず最初に100点が与えられている社会とよく言われる。失敗を重ねるたびにそこから減点されていく。成功してそれを続ければ点数が増えることだってあるとぼくは思っている。しかし、減点がすぎてマイナス100点になると、そこからプラスに持っていくのはなかなか難しい。これは別に日本だけじゃなく、他の国でもそうなんじゃないのかな? よく知らないけれど。

たとえばある人が誰かに「ダメ」のレッテルを貼ったとする。たぶんそのある人は自分が「ダメ」のレッテルを貼ったその誰かを尊敬しなくなる。たとえ自分とはちがう分野でデキることがあったとしても、一度「ダメ」の烙印を押したら、もうなんでもダメになる。レッテルを貼って単純に決めつけておけば、考えなくて済むから「楽」なんだろう。

相手と自分の意見が違うことがあると、なかなか巧く話をお互いにすることができなくなる。ぼくらはあまりにも同じであることを求めすぎているからだと思う。そんな時違う意見の人間に「ダメ」とレッテルを貼ると、あとは考えなくて済むから楽だ。そうやって楽をしがたるのは、違う考えを理解するのが面倒だから、同じ考えならすんなり理解できるからだろう。だから同じ意見であることに安心感を覚えるのかもしれない。でも、ぼくは思うのだ。違いを受け入れあう土壌はある程度必要だと。だって自分もあべこべで、良いところと悪いところ、間違って理解していることと正しく理解していることがあるからだ。

そうなると必要になるのは、やっぱり「勇気」だと思っている。違う人間に自分の言葉がいつか届くと信じる勇気と、相手の言葉を理解しようとする勇気が必要なんだと。なぜこんなことを書いているのか? それは自分には決定的に勇気が足りないからなんだ。そうつまり、ぼくはあべこべなんだ。




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