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今自分の経験から断言できることは束子は亀の子束子に限るということ
知り合いの名前と同じ音のツールが存在するらしい。未だかつて実物を見たことがないので「らしい」としか言えないけれど。
先日、こんな話を聞いた。
友人が街を歩いていると、その知人から連絡が来てちょうどその友人がいる同じ街にその知人もいるという。友人はその知人と遭遇することを憚ったため、嘘をついて今全然違うところにいると連絡すると、すぐにその知人から「後ろ振り返ってみて」と返信があったそうだ。
量子力学の解釈では、視界に入っていないものは実は存在していないとの考えがある(厳密には存在場所が決まっていない)。詳しいことは全然理解できていないが、視野に入れることによって、そのものが存在するようになるのが本当ならば、振り返らなければ奴はいないのかもしれない。
90年代、インターネットがなく一部の人がパソコン通信をするくらいパソコンとかデジタルが家庭にほとんどなかった昔々、『振り返れば奴がいる』というタイトルの医療ドラマがフジテレビで放映されていた。主演は織田裕二さんと石黒賢さん。織田裕二と石黒賢がバチバチと対立しながら医者をやるドラマで、ちょっとバブリーな雰囲気もまだ残っているような気もしなくないドラマだった。
もし、先に述べた視界に入っていないものは実は存在していないとの考えを適用するなら『振り返らなければ奴はいない』になるんじゃないかと考えた。
じゃあ、振り返らなくて視界に入れなければそこにその人は存在しないのならば、振り返らなければいらぬ争いも生じないかもしれない。知らんけど。
21世紀に入ってブロードバンドと呼ばれる高速インターネットが普及した結果、ぼくらはSNSをするようになって、知らない人のお気持ちから意見や見解まで見たり聞いたりすることが20世紀よりも日常茶飯事となった。フォローしなければ見なくて済んだ情報を、あえてフォローして見るようになったと言っても良い。
『ぼくらワールド解体新書』を書いていることもあって、ぼくは生化学やら元素やら放射線とか理系の知識が少しだけある。中高で習うような知識の一旦があるくらいではあるけれど、基本をあるていど知っているからこそ、その基本をベースにしている人をSNSでフォローする傾向がある。
SNSからうける医療系の情報は標準医療に則ったものだし、ちゃんと論文を精読できる傾向が強い人の情報が普段から目に入る。結果、標準医療が医療の基本であることを理解しているし、そのベースに則った情報が適切であることもぼくは理解している。
しかし、反医療系の情報にどっぷりの人、特に自然を理解する気もない自然派・スピリチュアルやその傾向が強そうな人は、医療は人間がつくったものだから「人工」とだけとらえ「自然」とは真逆だと妄想している。彼らにとって人間が自然に関与して生み出したものは「自然じゃない」となる。それだったら、今食ってる農作物はそもそも人が自然に介入し品種改良を何千年とつづけた結果だから、彼らの価値観で測るなら全て「人工」なのだけれど、彼らはそこまで考えることはない。
自然派・スピリチュアルに強くお気持ちを惹かれる人たちは、同じ傾向の情報を発信する人をフォローし、その情報を普段から浴び続けている。彼らは、自然が化学でできていて、化学反応して存在していることをほとんど知らないし、さらにその事実を理解している人は少ない。人工と自然は化学的には地続きな側面があることを彼らは理解していないし、理解したくない。
自分の好きに近いか好きそのものな情報だから頭を使わなくてもすんなり受け入れることができるため、その内容に疑問を持つことは実はぼくらは少ない。これはどんな意見を持っているかは関係なく、普段から自分が目にしている情報や触れている考え方、行動志向などがぼくらの今に影響を想像以上に大きく与えるからではないだろうか?
特に、不安や恐怖を抱えている人は、普段から何度も何度も目にしている情報から受ける影響は大きくなるのではないかな? 特に不安を埋めてくれそうな情報や恐怖から目を背けられそうな情報に飛びついちゃうんじゃないかな。溺れる者は藁をつかもうとして足掻いているみたいな。それが状況に適切な、たとえば救助ボートのから差し伸べられた浮き輪やダイバーの手であれば良いけれど、木屑や藁であったなら沈んでしまう。周囲からヘルプや助言があっても、溺れている事実から目を背けている場合は、溺れているのに溺れていない大丈夫と差し伸べられた救助を拒絶し、自らさらに深く潜ってしまうってこともある。
これ、普段からどんな情報に接しているかも、けっこう大きいと思う。
類は類を呼ぶとの言葉が言われるけれど、やっぱりそうだと思うんだよね。ぼくらは自分の好きを意識していなくても自分の好きを現実にしたくて情報を仕入れ、SNSで他人をフォローする傾向があるんだと思う。
自分の好きが「正義」と信仰している人はモノや事象よりも自分の好きに近いか遠いかで正しいか悪いかを判断する。内容によっては状況に適切な判断であることもあるから、それが良いとか悪いとかという話ではない。ただ、自分の好きを「正義」って信仰していると、不適切な言動や行動した時は責任転嫁や論点ずらしをしちゃうし、自分自身の課題に蓋をする方向に動きやすい。
となると、事象を適切に把握しようとするよりも、自分の好きに近い人の言動に安心し考えを止めてしまう。結果、実際の調査と情報がかけ離れていても都合良い言い訳を信仰して結局事実を知ろうとしない。こうなるとそもそも文章を読めなくなっている可能性もあり、自分の都合の良い単語をひろってあげ足取りを始める。(マスメディアでも散見される)
自分の好きが「正義」と信仰している人は、深堀りの仕方や視点を変えて観察する能力を眠らせてしまうから、たとえ「らしい」というめちゃくちゃあやふやで的外れな情報でも自分の好きに近ければ信仰するようになる。例えばワクチン摂取した人は○○でデトックスができるらしいとの情報を(化学的、医学的に)現在判明している事実に即しているかも調べることもせずに惜しげも無く情報発信するのは、モノや事象の事実性ではなく自分の好きを重視しているからに他ならない。
ぼくらが生きているこの世界は、断言できるほどのものは意外に少ないとぼくは思っていて(これもある種の信仰とも言える)、ほぼほぼ全ては可能性が高いか低いかとの見方をしている。100%であることが本当に少ないのが歴史学でも言えるし、医療や科学の世界でも言えるんだけど、多くの人はこのあやふやさを、言葉で知っていても理解していない、というか理解することが難しいものであることを理解していない。自分がわかりやすいものに流されやすいんだということすら知らない。知らないからこそ、考えることが自体が少なくなり、好き嫌いが重視される。今自分が接している情報が、今自分が直面している状況にとって十分か不足なのかや、適切か不適切かを考えずに好き嫌いで判断しちゃうのはそういった傾向があるからだと思う。
今、ぼくがぼくの中である程度確かなことってなんだろう? と考えると、今こうして文章をタイプしていることと、パソコンのキーを触れている実感が指から伝わってくること、それから束子は亀の子束子がこれまでの人生で使ってきた束子の中で一番汚れがとれやすいという実感である。これも結局、不確かでファジーなもの、つまり感想という名の信仰でしかないものだと思うんだ。
モノや事象を適切に扱うことや判断することって難しいな〜
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