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情報と物語について強引に自説を論じてみた

前回、ぼくらは自身を構成する物質(元素やアップクオーク、ダウンクオーク、電子)を情報として見るという見方を書いた。この情報という視点で物事を見ると、例えばコーヒーという情報がマグカップという情報と組みあわされて、マグカップに入ったコーヒーという情報に変化したとも捉えられる。
普段着る衣服だって、炭素等の元素が組み合わさってできた情報として捉えることもできる。

電信柱に止まって、人間にその排泄物をかけてやろうと画策するカラスだって、情報とも捉えることもできる。カラスなら、空を飛ぶ、雑食で恩を覚えて意外に夫婦仲も良い嘴に二本足の翼をもつ黒い羽毛に覆われた情報と言えるだろか。(そこはカラスの専門家がより詳しいだろうが)

ぼくら自身、ほぼほぼ違う顔をしているし、背の高さ、体重も違うことも多い。情報という捉え方で解釈するなら、ぼくらもひとつの個別の情報とも言える。

もともとはアップクオーク、ダウンクオーク、電子の3つの情報であったものが組み合わせることで別の情報へ変化し、その変化した情報が合体したりすると新しい情報が出現する。複雑に入り乱れて組み合わさった情報は個別性が高まる。その結果、特に我々ホモ・サピエンスは見た目が千差万別なのだろう。

そんなぼくらは、普段から情報にまみれているだけでなく、自分たちで情報を作りだしている。それが日常生活で利用する電車や飛行機、バスなどの交通機関もそうだし、今、みなさんが使っているだろうスマートフォンやPCもそうだ。もっと昔からあるものなら、皿、茶碗、包丁などの調理器具などもそうだ。例えば皿や茶碗などの陶器、人間が土と水を混ぜて、そこに炎という情報を加えて陶器という情報へ編集したと捉え直すこともできる。

さらに、ぼくらは自分たちの経験や他人の経験などから抽出した情報を物語として編集したり、そこから新しい情報を生み出したりもする。それが例えばテレビドラマ、映画、演劇、それから小説、マンガ、ゲーム、マイナーなところでは詩、歌手が歌う歌などもそうだろう。

このようにぼくらは情報を生み出し、その情報をまとめて物語として編集している。そして、ぼくらは普段意識していないが、この物語にまみれて生活している。

物語には実態がない。ただの情報であり、その情報を表現するために絵、マンガ、映画、演劇、小説などにする。これら実態のない情報=物語はぼくらの人生になんとなくの方向性を作ることもあり、一例ではるが、「恋人がいて当たり前」「大人になると結婚」などこれらの物語で描かれる内容が今でも強烈なメッセージとして発信し続けられている。

ちなみに、あくまでも物語そのものは誰かがイメージした情報の塊でしかなく、そこにどんな意味を見出すかは個人の好き嫌いに依存する。

ぼくらは、生まれた時点でこの情報の塊=物語に囚われることになる。これは呪いで絶対に逃れられない。生まれた瞬間はだいたいがその両親が作る物語世界、さらにその物語世界を内包する社会がつくる物語世界に自分の意思とは関係なく放り込まれ、ぼくらは自分が生きる物語世界をそこから脳内に形成する。

ぼくらがいつから普段目にしたことや経験したこと、また他人から語られた情報を編集し、物語を語るようになったのかは定かではない。ホモ・サピエンスとして地球上に出現した約20万年くらい前なのか、それともホモ・サピエンスよりも前なのかもはっきりわからないだろう。でも、事実としてこの物語の共有こそが、ぼくらの社会を形成し発展させた土台となった。ぼくらは全てに同意するかは関係なく、また好き嫌いも関係なく”なんとなくある「物語世界」”を共有している。それは昔も今も変わらない。

同じ物語を共有していることを確認するイベントはどの国にも文化にもある。その例としては神話だ。有名どころではギリシャ神話、日本神話がそれ。また宗教もそう。キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、日本ならここに仏教がはいる。
あとは、地域の祭りもそうで、その地域に住む人たちが同じ物語を共有していることを確認するために祭りは行なわれてきた。

クリスマスはキリスト教信仰者にとっては彼らの救世主の生誕を祝うことで、同じ物語を共有していることを確認する日となっているし(まあ、日本ではその意味を持つケースは非常に稀だけど)
イスラム教なら日々の礼拝やラマダンがそうだろう。

日本ではお盆の時期に行われる地方の祭りや、有名どころではねぶた祭り、天神祭なども、物語の共有を確認するイベントとなっている。祭りの準備から実行、その後の片付けなどを通じ、コミュニティが持つ物語を共有していることを確認しているのである。

つまり共有している物語があるからこそ、ぼくらは協力ができ、その協力の結果が今、我々が日々過ごしている社会である。

物語の弊害

ぼくらは、自分が好む好まざる関係なく、なんらかの物語世界にぶち込まれて生きている。生きている内はそこから逃れることはできない。そして残念なことにぼくらは自分が信じている物語やその世界観で目の前で発生した事象や他人からの情報を解釈せざるを得ない。
時に、自分が信じている物語と事実が相違することがある。

自分が信じたい物語と事実が異なる場合、多くの人は自分の物語を信じると、ぼくは考えている。

過去、地球を中心として太陽などの惑星が周回軌道を回っているとして天動説が信じられていた時代に、観測結果から地球が太陽の周りを回っている事実が明らかになってもなかなかそれを社会が受け入れられなかった。当時の人たちにとって、地球が太陽系の中心という物語を信じる方が、事実を受け入れるよりも好まれたからだ。

事実よりも自分の物語を優先するケースは現在社会でも多々あり、たとえば冤罪はその例で、過去毒ガステロが発生した際に、ろくな検証もせず某長野県警が無実の人を逮捕している。また、2011年の福島第一原発事故後の福島県への風評加害も事実を無視して自分たちが信じたい物語を優先した人たちが今でも加害を続けているのもそうだ。最近ではコロナワクチンへの陰謀論も同様だ。

彼らにとって、自分が守りたい物語があって、その物語にしがみついた結果が上記の例になっていると僕は考えている。過去も現在もぼくらホモ・サピエンスはこの物語に支配されているのである。

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