「ふや〜」と生きていきたいのだ。
猫型ロボットは人間に近づいていくけれど、本物の猫は人間に近づくもんじゃないなと思っている。猫はぼくを見かけると、後ずさりしてだいたいは逃げる。特に自宅近所の猫は全て逃げる。犬はそうでもない、時々かまってかまってと近づいてくる犬もいる。だからぼくはかの猫型ロボットはもしかしたら犬型ロボットなのではないか? と疑いをかけている。ネズミ怖がっているのもその疑いを深めている。(ネズミに耳を破壊されたらしいが・・・)
猫の行動範囲は意外と広いらしい・・・ということをインターネットで見かけた。ぼくの実家では犬を飼っている。その犬(ももさん)は外にいるときは鎖で繋がれている。夜になると家に入り、放し飼いされている。
猫は外にいようが家にいようが鎖で繋がれているところを見たことがない。外でリードをつけているところは時々見るけれど、基本的に猫たちは自分の好きに動けるようになっている。猫たちがなにを考えてアスファルトの上を歩いているのかは、まったくわからない。彼らもアスファルトを歩いているぼくを見ても、なにを考えているかわからないだろう。彼らはぼくを普通に警戒し、近づいていくと姿を隠す。実家で暮らすももさんはぼくに近づいてくるけど、猫はぼくを思いっきり避ける。
なぜだろう? もしかして・・・彼らはぼくに自分を重ねているのではないだろうか? 猫たちは勝手気ままに生きているイメージを持たれているっぽいし、偏見かもしれないが、ぼくは彼らは犬と比べれば勝手気ままに生きてるよなと思っている。
ううむ、そうだな・・・今の自分の生活を省みてみると、引越し先を探すのにぼくのワガママがすごく障壁になっている。蔵書の多い図書館が近いこと。電源とWiFiがあるファミレスとかあれば良いなとか、自分が作業しやすいコ・ワーキングに近い(電車で3〜4駅くらい)方が良いとかとか・・・。それに今の自宅と同規模の広さと質を求めている。田舎から都会に暮らすのだから何かを妥協すれば良いものを贅沢を知ってしまったため、そこから抜け出せないでいる。なんと勝手な考えなのだろうと。
これらは元来の怠け心が原因でもあり、部屋が窮屈に感じると束縛感を感じてしまい、息苦しくなるからでもある。息苦しいのは嫌だなと思う。ワガママだけど。
窮屈に感じると、その場にいるのが苦痛になる。うまく言い表せないけれど、きっと自分に対する自信が揺らいでしまうのだろう。そこにいる自分に自信が持てなくなる。のほほんと自分のペースで日々の生活を作ることができなくなると、ぼくは過剰なストレスを感じてしまう。「ふや〜」と生きていきたいのだ。そういう意味では勝手気ままだなと自分のことを思う。だから猫はぼくを避けるのではないだろうか? いや、知らんけど。また猫カフェ行きたいな(ももさん、ごめん)
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