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つれづれなるままに科学と人間について記してなんとなく書き終えます。

あらゆることがストップしていたけれど、なんとかかんとか再開したい気持ちがあるので、まずは書いてみることから再開しようと思う。

あくまでも仮説に過ぎないけれど、ぼくは人はなんとなくのイメージを持って生きていると考えている。実態としてはイメージにはその人が望んでいる物語とこうなるだろうなというなんとなくの予想が、言語化されるものからされないものまで、たくさんの小口の収納がある箪笥の中にそれぞれ格納されている感じ。都度その収納が開き、自分の意識の中でそのイメージが具現化されるような、それでいてその収納された中にそのイメージや望んでいる物語とは大きく異なることが発生した場合、混乱し怒り狂ったり嫉妬したり、とそんなイメージ。これを『サピエンス全史』では「虚構」と訳されていた。

虚構という言葉に上記の意味が含まれているのかっていうと、そんなことはなく、小学館の日本国語大辞典では「事実でないことを、本当のことのように仕組むこと。つくりごと。いつわり。」「文学などで、想像力によって、現実の事柄のように物語や劇を仕組むこと。つくりばなし。フィクション。」と記載されている。

想像力というところくらいしかかすってないんだけど、文脈から適切な単語が日本語にはなかったのだろうなと思う。

かと言って「物語」とするには物語は具体的すぎるし、イメージという言葉でもやはり足りない。そこを踏まえた上で、ぼくは人にこの話をする際にはあえて「物語」という単語を使っている。虚構よりかは意味がイメージしやすく、さらに実態に即していると考えているからだ。

まあ、この考えが正しいのかどうかは証明しされているわけではなさそうなので、あくまでも僕の仮説としてとらえていただきたいのだけど。ぼくらは物語をそれぞれ持っていて、というか自分が望んでいるなんらかの物語があり、さらに自分はこうなるだろうと信じている物語も所持していて、だいたいはこうなるんだろうと信じている物語にそって日々の言動をしている。

だから、大きな目標を立てても、自分の「だいたいこうなるんだろうと信じている物語」がそれと合致しない場合はだいたい目標は寝て見る夢と同じで実現することはまずない。

また、物語の一部共有もあって、それが人間関係を形成するにあたって非常に重要になる。例えば、恋人同士なんてその例なんじゃないかな。あと、友達とか。好きなアニメや音楽とか、なんでも良いのだけれど「好き」や「嫌い」を一部共有していることで、同一の物語世界にいるような錯覚に陥り、関係性維持しているなんてことはどこにでもあるし誰にでもある。

人それぞれ所持している物語は異なるんだけど、一部は同じだったり、物語を作る世界観が似ているから、関係性を作れるのであって、この世界観が大幅に異なるとなかなか関係性を作るのは骨が折れると思う。

ぼくらが所持している物語はぼくらのアイデンティティと直接繋がっているとぼくは考えている。ぼくらが所持している物語と、科学的事実が相容れない時、人は自分が所持している物語を守る方向へ動くことが多い。最近ではコロナ禍で反ワクチンを唱える人、福島県で13年ほど前に発生した原発事故の処理水の廃棄に関するデマなんてそれで、そもそも中学の理科や数学すら怪しく(四則演算すら怪しい)、へたすれば国語だって怪しい人たちが科学的事実に反してウイルスが存在しないと主張したり、ワクチンの中にマイクロチップが入っているなどと主張し、そもそも放射線被曝についても物質の崩壊単位であるベクレルで主張し実際に出るエネルギー量であるシーベルト(またはグレイ)で考えるだけの知識がないだけでなく、今だって勉強する気がないまま自分の所持している物語を作るためだけにデマを主張している。

その物語の中には当然、事実を知った上で頭が弱い人たちを騙して、自分の主張を頭が弱い人たちの物語世界と強固に結びつけて半ば洗脳し、書籍を売り、講演会でバカほど儲けたり、なんの診断もできない自称医療機器を使って相手を洗脳するために言動を繰り出し金蔓を量産するような人がまあまあいる。

中には、反ワクチンを唱えながら、自分たちは実際は接種しているケースもあるのではないかな。(少なくとも海外在住の邦人家族がある場合は何らかの予防注射を接種している。麻疹・風疹・おたふく風の三種混合ワクチンとか)

ぼくらは残念なことに白か黒かハッキリしている方がわかりやすいし信じてしまいやすい。特に政府やお金を持ってそうな医者とかそういうのを槍玉にあげて、敵認定し「自分たちは特別に正しい、正義」という主張に騙されやすいんですよね。自分たちよりも得してそうな人に劣等感があるからなのでしょうか。

それに確率的にほぼ安全、まず影響がないなどのあやふやな言葉には不安を感じてしまうんですよ。となると、嘘であっても明確な主張の方が、自分たちの物語につながりやすいんです。特に、自分が望んでいるほど世の中に認められている気がしない人とか不安を抱えている人なんて、格好の鴨で、詐欺師にとってはネギと鍋と箸と包丁とまな板とお椀を抱えた鴨です。それに彼らにとって全ての人を自分の信者にする必要なんてなくて、ごく一部の人が信者になれば良いんです。100人中1人でも十分で、アホほど儲けられるんだから。

かと言って、ぼくらは物語から逃れることもできないんです。この物語の存在が社会を作り、維持する鍵でもあるので。
だから、今でも恋愛の物語が流行するわけです。恋愛きっかけで子どもが生まれるんだから。それもこれも子孫を残すためなんですよね。わけわかんない感はあるけど。



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