
プテラノドン
あらすじ
2011年3月31日に(旧)赤坂プリンスホテル新館が閉館しました。
丹下健三氏が設計を手掛け、1983年に40階建ての新館として誕生した独創的な形のホテルは、バブルのアイコン的存在でしたが、わずか30年足らずで、歴史に幕を閉じました。
その姿を二度と見ることができない寂しさを、かつて中生代白亜紀に存在していたプテラノドンという翼竜の存在、そして苦い別れに終わった恋人との再会を重ねて創作した失恋小説です。
主人公の女性は妊娠中で、出産に向けて生活している一方、学生時代に経験した大恋愛からの手痛い失恋の痛みをどこかで引きずっています。
その主人公が、かつての恋人と赤坂プリンスホテル新館で偶然再会するところから物語は始まります。終焉に向かうホテルで、終焉した二人が何を語り合い、何を想うのか、という物語です。
恋愛からの失恋小説ですが、作中に妊娠や性描写がございますので、予めご了承ください。
その日の私の足取りは、けっして軽やかではなかった。
妊娠が判明してから4か月。すでに体重の増加は7kgを超えている。
この重い体をどうにかしなきゃ、と、有給休暇を利用して、午前9時に予約していた妊婦検診を受診後、事前に申し込みをしていたマタニティヨガレッスンを終え、ホテル五階の会場を出て、一階へと向かった。
エレベーターを降り、白い大理石の床を重々しく踏みしめながら、のしーん、のしーん、と、自分の歩くさまに勝手に心の中で効果音を入れて歩いていたとき、こちらに向かってロビーを歩いてくる一人の男と、ふと目が合った。
引き締まった体躯に、すっとした立ち姿。
長い手足はスーツを纏った本人の魅力をさらに引き立てている。
グレーのジャケットから覗く白いシャツのボタンの外し具合も様になっていて、ジャケット越しで分かるほど鍛えられたシルエットが美しい。
女がつい二度見してしまう、そんな色香を湛えた男が、こちらを見て唖然とした表情で立ち尽くしていた。
―会いたくなかった。
この男にだけは。この姿で。
しかし、目がばっちり合ってしまったので、気づかないふりはもうできそうにない。
こういう時に艶然と「あら」と言えるような性格だったら良かったんだけれど、生憎そういう演技力を私は持ち合わせていなかった。
そしてそれがあれば、違う男性の子供をお腹に宿して歩いていることも、なかったのかもしれない。
「―ミコト、か?」
名前を、呼ばれた。
うん。か、はい。か、どっちを言おうか。迷って返事を言い淀んでいる間に、男はリーチの広い足取りで、急ぎ私に歩み寄ってきた。
「久しぶり、だな…!」
その表情は、屈託のない懐かしさであふれている。
視線を右下に落としながら、黙って頷く。
昔振られた男に、妊婦となった姿で再会した場合、女はいったいどういう顔をしたらいいんだろう。
「ひさしぶり…」
「そうだな。久しぶりだな、本当。いつぶりだろ?」
―あなたに振られて以来です―
いいたいけど、いえない。
「卒業以来か? ミコト…」
感慨深そうな、温かい眼差しで、光(ひかる)が私を見つめる。
この人の視線を独り占めしたくて、必死だった時があったなぁ。
そう思ったら、二人でいた頃の感覚が甦ってきて、なんだか急に胸が締め付けられた。
「いま忙しい? もしよかったら、茶でも飲まないか? 偶然だけど、俺、会議続きで今週ここに泊まってんだ」
「う、ん…」
「あっ、予定あったか? もしそうなら悪かった、声かけて―」
光の口調は、丁寧だった。
私はそれにちょっと面喰らう。
あれ、こんな人だったっけ?
でも考えてみたら、別れてからもうだいぶ時間が経ってる。干支が一周した間に、彼も変わったのかもしれない。色々と。
昔はもっと、軽そうな印象だった。
厳密にいうと、軽薄というのではなく、むしろ飄々といった感じ。
まるで他の人類より地球の重力がかかっていないみたいな。
大学に入学したての記憶が甦る。
自分でいうのもなんだが、私たちが通っていた大学は偏差値がなかなかの国公立で、そこに通う学生は、人生において塾で過ごした時間が最も長そうなタイプが多かった。
その中で、入学当初から肉食獣のようなワイルドなオーラを無意識に放つ光はことさら目立った。
すらりとした体は、細身でありながら実用的な筋肉をちゃんと纏っていて、Tシャツから覗く引き締まった腕の筋肉は、自然と人の視線を集めた。
後で知ったが、彼は高校までバイト三昧&奨学金獲得の末に大学進学を果たしたそうで、見た目と同様、欲しいものは自ら獲りに行く狩猟派らしかった。
決して愛想が良いタイプではなく、表情からは何を考えているのか読み取りづらい雰囲気で、そのミステリアスな佇まいが端整な容姿とあいまって、周りの女の人はついつい光を意識してしまうようだった。
雰囲気あるイケメン。
まるでホイップがけのパンケーキのように、光は女子の好物を備えた男だった。
私も勿論その例に漏れず、彼は入学当初から気になる存在だった。
だからあの日、大学の新入生の親睦会で、隣に座られた時は激しく動揺し、何度もトイレに立ってしまった。
それには光も気づいていた。
「なんか水沢さん、挙動不審」
「そ、そうかな? 今日は水分摂り過ぎちゃって…」
「なにそれ。おもしろ」
普段の容姿が整っているだけに、鼻に皺を寄せてくしゃっと笑った時の落差が大きく、その可愛さに、撃たれた。
「…ミコト?」
記憶に浸っていたら、現在の光が立つホテルのロビーに呼び戻された。
「あ、―うん。少しだけなら」
「ホントか? 良かった」
一階のラウンジがいいか、四十階の展望レストランがいいかと尋ねられたので、一階でいいと答えた。
だって、体が重いので移動がしんどい。
かつての恋人の妊婦姿、光は一体どう思ってるんだろう。
ラウンジへと向かって歩く光の後ろ姿を眼で追いながら、そんなことを思った。
店員さんに人数を告げながら、三段だけある階段の前に立ち、光が私に右手を差し出す。
人妻が夫以外の人の手を握っても、いいものだろうか。
つい躊躇してしまったが、こうも意識してしまう自分が恥ずかしく、それを光に悟られたくなかったので、善良な厚意を素直に受け止める妊婦、といった微笑を湛えてその手に触れた。
とたん、その懐かしい手の感触に、まるでフラッシュバックのように思い出が押し寄せてきて、少し歩調が乱れてしまった。
「大丈夫か? 足元、ゆっくりな」
気遣わしげに光はそう言い、私の席までエスコートしてくれた。
やっぱり。
前より、やさしい。
いま、妊婦だから?
にしても、ずいぶんやさしい。
付き合い始めてしばらく経った頃、なんで私なのか、思い切って光に訊いたことがある。
私は光以前にも付き合った人が高校時代にいたし、けっして不細工ではなかったのだが、女友達が多く、キャンパス内で写真を隠し撮りされるくらいモテていたのは光のほうだった。
なので一緒に歩いていても「は? なんであの子?」という冷たい視線を痛いほど感じていたので、光が私を選んだ理由を直接本人から聞きたかったのだ。
私の問いに対する光の返事は極めてシンプルで、「手を繋いでみたかったから」というものだった。
「手?」
「うん」
正直、『顔がかわいい』とか『性格がやさしい』とか『話が合うから』とか『一緒にいると楽しい』とか、そういう、私の何らかの美点を褒めたたえる返答を期待していたので、それはフォークボール級に変化球の返答だった。
けれど、「だって、手を繋いでみたいって、触れたいって、生き物の一番シンプルな欲求じゃないの? 俺、そんなん思ったの、ミコトが初めてだし」と言われて、腰がへなっとなった。
その後、「―触って、いい?」と訊かれ、実際に手に触れられ、頬を触られ、もっと違う場所も、触られた。
光はその後、少し掠れた声で「これが初めてだから、もし下手だったら指示してほしい」と、私のベッドの上で避妊具を差し出しながら申し訳なさそうに囁いた。
初めてなのは意外だったが、ちゃんと避妊具を準備していた彼に、私は好感を持った。
分かった、と私は小さく応えた。が、指示の必要は、なかった。
初めて番ったその日。果てる直前、我知らず漏れそうになる声に彼自身動揺したのか、光が咄嗟に私の喉元に噛みついた。こちらも突然の事すぎて制御を失い、堪(こら)えていた快感が振り切れ、私はそのまま奈辺へと墜落した。
その瞬間、肉食獣に襲われて絶命する獲物の気持ちって、こんななのかなぁ、と、ぼんやり思った。
互いの荒い呼吸だけが聞こえる暗闇の中で、光が呟く声が幽かに聞こえた。
「…すっ、げぇ」
「…?」
「…ミコトの体、すげぇ」
まだ返事もできずに朦朧としていると、途切れ途切れに彼が続けた。
「…凄すぎる。…こんなん知ってたら俺、絶対、大学なんか受かってねぇわ」
その日以来、私たちは受験並みの真剣さと熱心さで、互いの体にいかに快楽を与えられるか、ひたすら研鑽を重ねた。
世間ではそれを「さかる」あるいは「サル期」と呼ぶのかもしれないが、それを嘲笑で一蹴できるほどの真剣さをもって、私と光は真面目に互いの体に向き合った。
ほかの男の人を何人も知ってるわけではなかったし、比べる話じゃないのは承知だが、光は、その道に関して、天賦の才をうかがわせるものがあった。
よく、相性うんぬんとぬかす人がいるけど、私は情交において最も大事なのは、センスだと思う。
相手が好む触れ方や、もの言い。
そういうのは絶対にあると思うし、そのセンスが、光はとにかく、初めからずば抜けていた。
私の輪郭を隈なくなぞる掌。
触れる時の、壊れ物を扱うように神妙な指先。
威圧を感じさせない、ごくごく優しい手の力。
私の体が反応する場所を、決して見逃さない精緻な五感。
体温の高さと高揚を、的確に伝える唇。
切なそうに漏らす、官能的な溜息。
息が乱れてきた私の表情にくったくなく喜ぶ表情。
戯れに唇をつけたら、身をよじって逃げた、彫像のような胸。
よくあるその類いの動画にコンタミされた男子の勘違いしたやり方とは違って、光は、なんというか、無垢な動物なら番(つがい)の相手とこう睦むんだろうなと思わせる、とっても自然な、それでいて女の人を溺れさせる健やかな獰猛さを身に着けていた。
彼の天性なのか、あるいは自己鍛錬の賜物か、それともその両方だったのだろうか。私はあっという間に光の虜になった。
最初は恥ずかしくて目をつぶっていたけれど、だんだん、こちらから熱を込めた眼差しで懇願せざるをえなくなっていくほど、彼の唇と、舌と指と、熱い芯に溺れた。
懇願して懇願して、ようやく挿れてくれても、そのままじっとして、上から私の顔をじっと見つめるのが光は好きだった。
「やなんだけど…」
と、待ち焦がれる私がその意地悪な仕打ちをなじると、
「そういわれると、嬉しい」
と、百点の笑みを浮かべてゆっくり、ゆっくり動かし始めてくれた。
「…、!」
と私が声を上げると、必ず眉をひそめて
「痛く、ない?」
と尋ねる。
「…ない」
「よかった」
と呟くと、光の動きが少しずつ早くなる。
かといって闇雲に速くなるでもなく、常にこちらの様子を観察しながら、私の心拍の上昇に合わせた望ましい速度で動いてくれた。
彼に舐められ、噛まれ、塞がれ、穿たれ、私は自分の輪郭を失うほど、彼に蕩けていった。
一階のラウンジは中庭に面していて、梅雨の合間の貴重な陽光を浴びた木々の葉が鮮やかに揺れている。
「ミコト、なに飲む?」
「この、ハーブティーを」
店員さんを呼んで、メニューを指さす光の薬指に、銀色の指輪が見えてハッとした。
そうか、この人も結婚したのか。
光から別れを切り出されて破局して以降、学部の違う私たちは学内でたまにすれ違う程度で、卒業後は完全に連絡を絶っていたので、二十二歳以降のお互いの情報がない。
ただ、付き合っていた頃「自分には、結婚願望がない」と告白されたことがあった。でもまだ大学生の男子に結婚願望がなくても無理はない。
そしていまではお互い三十路を越えているのだから、十余年の歳月を経て彼の考えが変わったとしても、何らおかしくはない。
だけど。
「横山くん、いつ結婚したの? ごめん、何も知らなくてお祝いもしなくて…」
名字呼びしたら、光が苦笑いして言った。
「それはお互い様だし、名前で呼んでくれないか? ミコトに名字で呼ばれると、なんか背中が痒くなる」
私が取りたい距離感は、どうやら彼には不要らしい。
「ミコトは、いつ結婚したの?」
「おととし。で、秋に出産予定」
「そうか。ダブルでおめでとう、だな」
「うん、ありがとう」
ただの同級生ならもう少し会話が弾むと思うけど、自分へのおめでとうを素直に受け止めきれない想いと、相手の結婚をなぜか手放しで祝えない気持ちが、珈琲とミルクみたいに心の中で汚いマーブル模様を描いて混ざっていく。
全面ガラス張りのコーナーで、明るい店内と穏やかな笑みを浮かべる光を前に、そぐわない感情を抱えてしまった私は思わず視線を下へ逸らした。
と、店員さんが二人の飲み物をテーブルに置いた。
「あ、お茶はそっちにお願い」と言いながら、ふと思い出したように光が口を利いた。
「そういえば、ここさ、このホテル、来年で閉館なんだって?」
「はい、来年三月に閉館を予定しております」
「まだそんなに古くないのにね」
「はい」
会話を続けるか間合いを図った後、店員さんは「ごゆっくりどうぞ」と囁きながら会釈をして去っていった。
「ここ、なくなるの?」
「うん。先月、なんかの記事で見て」
築三十年ほどだろうか。まだクラシックの域にも達していない中途半端な古さが客足を遠ざけたのだろうか。
上の宴会場にヨガマットを敷き詰めた今日のマタニティヨガレッスンは妊婦さんたちで盛況だったが、いまこのロビーラウンジには私たちを入れて三組しか客はいない。平日の午後二時という中途半端な時間ではあるけれど、都心のホテルがこれだけ閑散としているのは、やはり経営的には問題なのだろう。
「会うの、何年振りだ?」
「卒業以来だから、…十二年ぶりかな」
応えながら、湯気が立つハーブティーに口を付ける。
くさくてまずい。
本当は紅茶が好きなのだけど、カフェインが含まれているので選択肢から外していた。妊婦は冷えも良くないと書いてあったので、アイスドリンクも避けた。メニューの中でカフェインフリーのホットドリンクが他に見当たらなかったので選んだが、特にハーブティーが好きなわけではない。妊娠以来、私は飲みたいものが飲めない。
WantかDon’t wantで選べることは、シンプルで潔いが、その潔さを、私はこれからどんどん失うんだろう。それは結婚するときに自覚したことだった。
「ミコトの結婚相手、どんな人?」
「同じ会社の人。…だけど光、そんな話、本当に聞きたい?」
ティーカップを置き、目を見て訊ねる。
私が振られた側だからだろうか? 私はかつての交際相手と当時を懐かしみながらお互いの近況や配偶者について報告し合うような、生温かい会話をする気になれなかった。
「私は、あまりしたくないんだけど」
ははっ、とおかしそうに光が笑う。
「思い出した。ミコトは当たり障りのない話が嫌いだったな」
そのまま会話は途切れ、その時初めて、店内に控えめなBGMが流れていることに私は気づいた。
光が超絶巧かったからか、相性がよほど良かったからか、私たちは付き合っている間は、試験やレポート提出などの逼迫した状況を除いて、ほぼほぼどちらかの部屋に通い合った。光の住む古い大学寮より、私の住んでいたマンションのほうが設備が良く防音性も高かったので、こっちで過ごすことのほうが多かった。お互い、体を離すのが名残惜しく、いつもバイト先に向かわなくてはいけない時間ギリギリまで、巣の中の雛みたいにくっついていた。
電子音で、我に返る。光の携帯電話が鳴っていた。
鞄から携帯電話を取りだし、発信元の名を見た光が、仕方ない、といった感じで「悪い、ちょっとだけ電話取っていい?」 と私に訊く。
「どうぞ」
私に素早く手刀を切ると、光は通話ボタンを押し「Hello?」と言いながら席を立ち、通話をしても差し支えなさそうなエリアへ向かって歩いていく。
電話の相手と談笑する彼の声と姿が遠ざかる。
手持ち無沙汰になった私は、鞄から携帯電話を取り出し、夫に『ヨガのレッスンが終わったので、カフェでお茶を飲んでから帰ります。』とメールを送った。ついでにそのまま夕飯のレシピでも検索しようかと思ったが、ホテルのラウンジでの貴重なティータイムだったので、考えを改め、ゆっくりお茶を味わうことにした。
湯気の立たなくなったカップを持ち上げ、もう一口。
くさくてまずい。
見るべきものもなく、視線はつい光を追ってしまう。こうして遠くから彼を眺めていると、今日の今日まで封印していた二人の思い出が、まるでかさぶたを剝がすかのように次々と捲れてくる。
別れは、光から急に切り出された。
交際から二年ほど経った少し寒い季節で、それを言われたのも、私の部屋のベッドの上だった。
高時給と賄いに惹かれ、彼が夜のコンビニからバーへとバイトを鞍替えしてから数か月が経った頃だった。
いつも通り、バイト帰りの夜中にうちへ来たにもかかわらず、いつもと様子の違う光が、正座をして私に謝った。
「ごめん、最初に言ったと思うけど」
「うん?」
「俺、ミコト以外の人としたことない」
「言ってたね。前に」
「うん。でも、誘惑に駆られる、最近」
「うん?」
「でも、彼女以外とするのって、ありえないだろ。倫理上」
「そう、だね…」
「だから、ごめん、別れてほしい」
「は?」
「…正直に言う。俺、もっと色んな相手と試してみたい。女の人ごとの体の違いに、興味ある。でも、パートナーがいると、お互いにハッピーじゃないだろ?」
私は硬直していた。
「この探求心を抑えつけてたら、俺はそのことを考え続けて悶々とするだろうし、行動に移したら、ミコトは傷つく」
「―飽きたの?」
「…むしろ、逆。ミコトと付き合って、開眼した。実際、付き合ってから一度も、他の女と二人で会ったことない」
「でも、別れたらもうできないんだよ? 私たち」
苦渋の表情で彼が頷く。
「分かってる。でも、理解してほしい。ミコトが嫌いになった訳じゃなくて、俺は自分の探究心に抗えそうにない。そして、そう思った以上、ミコトに隠れて浮気するような手段は取りなくない」
「…」
理系だからだろうか。光の説明は非常にロジカルで、明快だった。
そして、本音を偽らない男の、正直という刃に剥き出しの心を斬りつけられる残酷なまでの痛みを、その時私は初めて知った。
喋ろうとすると、嗚咽になるので、私はただ黙っていた。言葉は封じられたけど、涙は、封じることができなかった。倦怠期というわけではなかった。
そんな話を切り出される直前まで、いつも通り、私たちは仲良く過ごしていたのだ。
なのに。
唐突に、二人のこのあたたかい巣から、彼だけが飛び立とうとしている。
いまここにある私との確かな快楽よりも、不特定多数との享楽を求めて。
私を無残に振った光だったが、性の求道同様に学業も決して疎かにしていなかったようで、バイオテクノロジー関連の人気企業でのインターンシップから内定獲得へと駒を進めたという話を、光と同じ学部だった田川さんから聞いた。
田川さんは続けた。
あまりにも夜がしつごすぎる光にギブアップした私から遂に振られた、と彼が周囲に吹聴していること。
結果、檻から解き放たれた犬のように、光は自由を謳歌し、言い寄ってくる相手(フリーであることが前提)は基本的に断ってないこと。そして、光と一夜を共にした女子学生は、そのあまりの巧さにおののき、噂が噂を呼んで、いまや大学内では『光詣で』という言葉ができるほどエラいことになっている、と。
—そうでしょうよ。
振った・振られた、の主述が逆転していることを除き、光の噂は眉唾ではないと私は確信し、その一方で、私にとっては巣のように心地良かった関係が、彼にとっては檻だったのかと思うと、激しく落ち込んだ。
その半年後、私たちは三月を迎え、卒業式で袴姿の女子に囲まれる光と私は、きまりの悪い会釈を交わし、そして、それきりになった。
難易度の高い男だったと、いまなら笑って受け止められるが、二十歳そこそこだった私はそうは思えず、自分に何が足りなかったのかを考え続け、その失意の穴から抜け出すまでに数年を要した。
「ごめん」
と通話を終えた光が急ぎ足でラウンジに戻ると、再び向かいの席に座る。
「あ、そういえば、俺こないだ大学の同級生と仕事で会ったよ。ミコトと仲良くしてた、名前……なんだっけな。名刺貰ったんだけど」
コーヒーカップを持って、光がふと思い出したように言った。
このコーヒーの匂い。大好きだったのに、いまは焦げたようにしか感じられなくて気持ち悪い。
「誰かな? 金沢さん? 生田くん?」
「女の人だった。同じ学部の。あー、名前思い出せない。ちょっと、部屋に置いてる名刺見せてもいい?」
「じゃあ、私待ってようか? ここで」
「いや、良かったら一緒に。ここの三十五階」
ハーブティーはまだ残っていたけれど、味に未練もなかったし、コーヒーの匂いが少し堪えていたので、私は一緒に行くことにした。
スローな私の歩みに合わせて、速度を落として彼が歩く。エレベーターでも私をエスコートし、客室のドアを開ける際も、ドアを押さえて私を先に中へと通した。身のこなしもシャツの仕立ても、いまやすっかり洗練された元恋人の進化ぶりに、過ぎた年月の長さを感じながら、私は客室へと足を踏み入れた。
このホテルに泊まったことはなかったので、客室の中を見るのは初めてだった。
室内は30㎡ほど。ベッドのほかにはコーナーデスクとチェアが一組、そして小さなソファという必要最低限のインテリアが整然と配置されていたが、調度品のデザインの古さは正直否めなかった。だが、一面に張られたパノラマ式のウィンドウからは、都心の高層ビル群から眼下の緑までが一望でき、明るい日差しと眺望がとても開放的に感じられた。
「好きなとこ、座ってくれ、いま名刺探すから」
そう言いながら、光は自分のキャリーケースの前に屈んでファスナーを開けた。
それにしても、会議続きでホテル泊まりとは。
「光、会社は、新卒の時のまま?」
「いや、一回転職した」
書類の中から名刺を捜索しながら、振り返らずに光が答える。
「二社目で、いま十年目なんだけど、社内で新規事業の立ち上げやってて、なんか忙しい。あ、あった」
書類の束の中から名刺を見つけた光が窓際のソファに腰掛けた私に歩み寄る。
「あ、違うな。これか?」
名刺が違ったようで、カードを切るように目当ての名刺を探し始める。
「いまは、どこに住んでるの?」
「〇〇〇のあたり」
そこは、平均的年収世帯が住むには敷居が高すぎる都心の駅名だった。
なるほど、できる会社員ですか。
「でも、そこならホテルに泊まらなくても帰れるんじゃない?」
「うん。でも最近は時差のある支社とWeb会議とかあるから、寝る時間もバラバラで。―あ、これだこれ! 田川さんってヒト。覚えてる?」
やっとみつけた名刺を嬉しそうに私の前に差し出す。
「え? 田川さん? ああ、第二外国語で同じ授業取ってたよ!」
破局後の光の詳細を隠密のように教えてくれていた、例の友人だった。卒業後も彼女とは食事に行ったりして連絡を取り合っていたが、互いに転居を重ね、連絡先も変わり、数年前に年賀状が宛先不明で返送されて以来、連絡先が分からなくなっていた。
「学部が同じだった、って言われて。俺覚えてなかったんだけど、ミコトと知り合いだったって話になって」
「…嬉しい」
思わず笑みがこぼれた私を見て、嬉しそうに頷くと、ジャケットを脱いで椅子に掛けながら「連絡先、撮っとけば?」と光が言った。
「ありがとう。そうする」
「ところで、ミコトはどこ住んでんの? いま」
「私はここから電車で40分くらい。光の住んでるとこより全然遠い」
「そうか。」
住所の話に続けて、ふと思いついたように、光が切り出した。
「あ、あとさ。お願いがあるんだけど」
「うん?」
軽く逡巡する様子を見せた後、私を見つめながら真剣な面持ちで彼が尋ねた。
「ミコトのお腹、触っていいか?」
「…は?」
唖然とする私の前に、光が騎士さながらに跪(ひざまず)き、再び同じことを尋ねる。
「―触って、いいか?」
「は?」
「だから」
光が一歩、私に近づいたので、思わず立ちあがり、後ずさりした。
と、踵がベッドに当たり、その上にポンと尻餅をつく。
「は? 駄目に決まってるでしょ。そんなの」
ベッドにお尻をついた私にまた一歩、光がにじり寄る。
待って。
かつて、同じことをこの男に訊かれたことがあった。だけど、いまは状況が全く違う。
友人の名刺話につられて部屋についてきた自分の迂闊さを悔やんだが、もう遅い。
なんなんだろう。
夫以外の男にお腹を触られるなんて御免だ。
それとも、自宅に帰ってないから欲求不満だとでも?
でも私、妊娠中に浮気する気なんて、さらさらないんだけど。
「もしかして、妊婦フェチ―?」
私の質問に慌てて彼が喰い気味に否定する。
「いや、俺そっちの趣味ねぇから」
「じゃあ、なんで? そんな非常識なお願い…」
「いまは、これは、性的な気持ちでお願いしてるんじゃない。ただ、ミコトのお腹の中の命に挨拶したいだけだ」
「は?」
冷たい口調で睨むが、光も真剣な面持ちで私を見つめ返す。
「…、気色悪い」
「え?」
「なに、気色悪いモノ言いしてんの? そんなメルヘンな人間じゃないくせに!」
いけない。つい大きい声で怒鳴ってしまった。妊娠中のストレスは、お腹の赤ちゃんに良くないのに。
しばしの沈黙ののち、相手が口を開く。
「…そうだよな、気色悪いよな。ごめん」
困り顔で詫びる光を見て、妙だ、と思う。
「なんか、あったの?」
私が訊くべきことじゃない気がしたけれど、思わず訊いてしまった。
傍若無人のきらいはあったが、私が記憶している限り(別れの宣告を除いて)彼はデリカシーに欠ける人間ではなかった。なので、なおのこと、この要望には違和感しかない。
光はしばらく黙っていた。が、体の奥底から長い溜息を一つ吐いて、俯いたままぽつりと言った。
「…ごめん。嘘。出張じゃないんだ、ここ。先週、離婚話になって、取りあえず家を出てきた」
「え?」
離婚?
「浮気したの?」
光が苦笑して首を横に振る。
「してない。いま俺、そんなんしてないから。まぁ、ミコトに言っても説得力ねぇよな、全然」
力なく笑う光の横顔は、相変わらず驚くほど端整だったけれど、笑いジワのせいか、年相応に疲れて見えた。
もう一度溜息を吐いて、すっと立ちあがると、光はコーナーチェアに腰かけた。長い足を組んだ瞬間、椅子がギシッと音を立てる。
「結婚したいって、ずっと思ったことがなかったんだけど」
組んだ足をブラブラしながら続ける。
「付き合い始めた相手から『生理が来ない』って言われて。まぁ、俺もいいトシだから腹括ったんだ。それで春に籍を入れたんだけど、しばらくしたら相手がすっげー落ち込んでる日があって。どうした? って聞いたら『病院に行ったら、赤ちゃんがいなかった』って。」
なるほど。
「まぁ、結婚を思い切るきっかけが妊娠だったから、正直『え?』 とは思ったけど、『そんなこともあるよ』って慰めて、その時は終わったんだ。でも、それからしばらくして、会社から帰ったら、紙を渡された」
「紙?」
「うん。不妊症の検査案内」
「―不妊?」
「『一緒に行ってほしい』って」
「…。」
窓の外を見ながら、彼が続ける。
「それで、調べたんだ。病院に行って、お互い。結果は、俺だった。…そしたら、先週言われたんだ。『離婚してほしい』って」
困った顔をして光が笑う。
「仕方ないよな。向こうは子供のいない結婚生活なんて想像もできないみたいだし、問題は俺にあるんだし。それに―」
窓の外に顔を向けていた光が、私に視線を戻して続けた。
「『不妊治療しよう』って言われたとき、うん、って言えなかったんだよ。俺の検査結果を訊いて、妊娠の確率がどれぐらいかは分かったから、そんな挑戦する気に全然なれなくて」
―そんな。
眉間に皺を寄せた私を見て、場を和ませようと光が努めて明るい声で言った。
「な。面白いオチだろ? だいたいさ、俺、人生でどんだけゴム買ったと思う?」
そうだった。
光は避妊具なしでのセックスは、絶対にしなかった。
どんな時でも、どんな場所でも、どれだけ我を忘れそうなときも、光は必ず避妊具を付けた。
待ちきれずに私が思わず「今日はいいよ」といっても、私の頭をポンポンと撫で、「ちょい待って」と言って必ず装着していた。
じりじり彼を待ち焦がれ、一秒でも早く挿入ってきてほしい私にとって、その行為は時に煩わしく、いついかなる時も装着を怠らない彼の沈着さが、時には憎らしく思えるほどだった。
「なんで絶対付けるの?」と聞いたこともあった。
「困るだろ、いま子供できたら」
光の子供なら、いいよ。そう思った時もあった。
でも、きっと一番困るのが私だというのを彼は良く分かっていた。
そしてある夜、あまり同じ質問を繰り返す私に、彼が遂に本音を吐いた。
「妊娠がさ、人生転落のきっかけになることも、あるんだよ。…俺の親みたいに」
薄暗がりで見たその時の彼の表情が、あまりにも苦しそうだったので、私は彼に本当のことを言わせた自分を恥じた。
それ以来、避妊に関して何か言うことを、私は止めた。
光が少し体を動かすたびに、彼の座っているコーナーチェアが悲鳴のように軋む。と、私の携帯電話が控えめな音でメールの着信を知らせた。それに気づいた光が動きを止めたので、室内が静かになる。
「メール? いいのか?」
「うん。後ででいい」
その静寂の中、私は何度かためらい、思い直し、そして意を決して、口を開いた。
「…お腹、触ってみる?」
「え…! いい、のか?」
自分で頼んだのに、私の返事を聞いて光が息を呑む。
「うん」
光が、物凄く真剣な顔になる。
「自分から頼んどいてアレだけど、…すげぇ緊張する」
「うん」
「あの、どの体勢が楽? 座るの? 立つの?」
「いちばん楽なのは、横」
「おお、じゃあ横になってくれ。良かった。俺まだ今日は部屋のベッドメイク崩してないから」
そう言うと、光がベッドの端に腰かけていた私の肩を介助しようと手を添えそうになって、止めた。
「―ごめん、気軽に触ったら、駄目だな」
私は無言の笑みを返して、そろそろとベッドに横たわった。
お腹の中の液体が、重力に従いポコンと横に移動するのを感じた。足が疲れていたので、体がとても楽になる。
光が、静かにベッドサイドに歩み寄り、横たわった私のお腹のあたりの位置に慎重に跪いた。
再び、室内が静寂に包まれる。
「…いいのか?」
「うん」
妊娠してから、私はありとあらゆる不調に襲われた。
食欲がなくなったり、吐き気がしたり、かと思うと、ある特定のものしか食べられなくなったり、やたら眠かったり、生まれて初めて尿漏れしたり、足がむくんで歩くのが億劫だったり。
でも―、いま、横たわる私を、まるで神々しいものを仰ぐかのような畏敬のまなざしで真剣に見つめる光を前にすると、なぜかそれらのあらゆる辛さが帳消しになるような気がした。
「―どうぞ」
息を呑む音がした後、そっと、本当にそっと、光の指先が、私の膨らんだお腹に触れた。
「…俺、生まれて初めてだ。赤ちゃんのいるお腹、触るの。」
私は黙って頷く。
「ホント、…でけぇ」
光が小さく、感嘆の声を上げた。
口が悪く、語彙に乏しい光のバカっぽい口調に反して、そこには賛嘆の念が込められていた。
そう。確かに彼と付き合っていた頃に比べると、私の胴はいまは別人のように膨らんでいる。
「…いろいろ入ってるから」
羊水とか、胎盤とか、赤ちゃんとか、未来とか。
「ミコト、…母親になるんだな」
そう言った後、光はしばらく沈黙して、そして体の底から吐き出すように呟いた。
「―良かった」
そう言って、光が俯く。
俯いて顔が見えないので、彼がいまどんな表情をしているのか、私には分からなかった。
実は、夫と交際するきっかけは、光だった。
会社の同僚という以外、なんの興味もなかった彼と、イレギュラーな緊急対応で残業をすることになり、その帰りに二人で夕飯に行った。
その夜、予定より少し多く飲んだ私は、すっかりネタと化していた光との失恋話を披露した。
この話を聞いた人は、大概「なにそいつ、サイテー」と光をディスり、お返しに自分の失恋話を披露してくれたりするので、同席した人と共通の話題が見つからない時や、会社の愚痴を肴に飲みたくない時、なぜ恋人を作りたがらないのかと圏外の男性に尋ねられた時などに提供するトピックとしてそれなりに役立っていたのだが、夫の反応は違った。
「…なんというか、器用じゃない人だね」
顔が赤くなる体質らしく、日本酒一合で、こちらが心配になるほど赤くなった顔で同僚は呟いた。
そうかな、諸々器用な人だったけど、と思いながらも、私は一男性の意見を知りたくて黙って耳を傾けた。
「大体の男は、なにか起こってからというか、バレてから別れを切り出すよね、普通。でもその彼、まだ何もしてないのに水沢さんのことを潔く振ったということは、その辺、上手く立ち回ろうと思わなかったんだね」
昔読んだミステリーの犯人の動機が実は違う、というような意外な指摘に私は驚いた。
「言われてみると、確かに」冷やしトマトにマヨネーズを付けながら、私は頷いた。
「ということは、だよ」鍋の湯豆腐をそろそろとお玉で持ち上げながら同僚が続けた。瞬間、彼の眼鏡がサッと曇る。
「その彼、振り方は最低だけど、ズルい人ではなかったんじゃないかな」
「…なるほど」私がビールグラス片手に新解釈に唸っていると、曇った眼鏡をおしぼりで拭きながら、同僚は朗らかに微笑んだ。
「好かれてたんだね。ちゃんと」
光のことを何も知らない同僚にそういわれた時、ずっと膿みつづけている傷口を道化のガーゼで覆い隠していたことを、もうそろそろ自分で許してもいいと、言われた気がした。それがただの同僚だった彼を一人の人間として意識する契機になった。
光の携帯電話が、また鳴った。ベッド脇に跪いていた彼が煩わしそうにそれを取り出し、画面を見て速攻で終話ボタンを押す。
「電話、いいの?」
「いい。…あのさ、もう一つだけ、厚かましいこと頼んでもいいか?」
再び身構える私に歩み寄った光が、私の目の位置の高さに屈んで訊ねる。
「隣、横になっていい? 実はこの一週間、ほとんど寝れてなくて」
本当に、厚かましい。
思い切り顔をしかめた私を見て、光が笑う。
「台無しだぞ、その顔」
誰のせいだと―、と言い返そうとしたとき、ふいに、切なそうに眉根を寄せて彼が口を開いた。
「そろそろ帰ろうと思ってんだろ? なら、あと少しだけ、俺にくれ。次会うの、また十年後とかかもしれねぇし。二度とないかもしれねぇし」
見 透かされていたのが癪だったが、陰りのある笑顔から彼が弱っていることが窺い知れて、その彼を一人にすることが、私にはできなかった。
結局、妊婦と離婚間近の元恋人同士でベッドに並んで横たわり、光が隣で問わず語りに話すのを、私は天井を眺めながら聞いていた。
人は横になって話すと、嘘を吐きにくい。
着地面積が広いほど、理性が働きにくくなるのだろうか。
ここまで素直に彼が話したのは、交際中でもなかったことだった。
親が、好きではないこと。
その事実は変えられないこと。
だから、努力したこと。
妊娠の報告を、正直訝しんだこと。
とはいえ、入籍したこと。
けれど、密かに煩悶したこと。
妊娠が事実ではないと知り、安堵してしまったこと。
そして、そんな自分を呪わしく思ったこと。
にも拘わらず、配偶者から不要通達されたこと。
「あ、でも言っとくけど同情とかいらないからな。本当に。そもそも、なんであんなにいちいちクソ真面目に俺が避妊してたと思う? 親になりたいって、思ったことが一度もなかったからだ。いまもそれは変わらない。だから、正直ホッとしてるんだ。だって、親になりたくない人間が親になったら、迷惑だろ。子供に。」
「…そういう気持ち、入籍前に相手に話した?」
私の問いに、戸惑った表情で彼が応える。
「―ない。誰にも」
そして、その返事の後、光が仰向けから横向きへと体勢を変え、私を見つめていった。
「ただ、確実に言えることは―、人から『あなたはもう必要ありません』って言われるの、堪えるな。無茶苦茶」
なるほど。
十二年前の私への悔悟か。
「『若気の至り』とかって、都合いい言葉があるけど」
続けて、光が二十歳の自分に吐き捨てるように続けた。
「許されねぇよ、そんなの」
光の言葉を聞きながら、私はずっと無言だった。言いたいことはいっぱいある気がしたが、何もない気もした。
「だからな。罰(ばち)が当たったんだよ。こんないい奴―」
と言いながら、光が私を見つめた。
その表情は、見たことがあった。
鼻に皺を寄せて、くしゃっと笑った顔。
私が大好きだった顔。
「―振った罰(ばち)がな」
罰(ばち)。
―そんな。
理系を専攻していた光は、常に理論的なものを愛した。
そして、その対極に位置する『存在の立証されないもの』を一切信じなかった。
幽霊然り、UMA然り、迷信然り。
その光が、罰(ばち)という言葉を使うなんて。
表情の読み取りにくい彼は今日も飄々としていたので私は気づかなかったけれど、もしかしたら彼にもずっと膿みつづけている傷口があったのかもしれない。
光。
いつも物怖じせず、堂々としていた光。
ある日、私の前に悠然と降り立ち、軽々と攫い、私を貪り尽くした後、あっさりと次の獲物へと飛び去った光。
そうか。
かつて白亜紀の空を支配した、あの翼竜(プテラノドン)のように美しく獰猛なこの男は、そのDNAを次代へ引き継ぐことなく、いずれ静かに滅びるのか。
そう悟った瞬間、なぜだか急に、胸の奥が締め付けられるような苦しさを感じた。
「…っ」
「泣くな」
そう言って、彼は微笑んだ。
「ここ。笑うとこだから」
「…そうだね」
その刹那、どうしてそうしたのか説明がつかないけれど、私は、光の頭を撫でていた。まるで生まれたての赤ちゃんを慈しむかのように。
こんな子ども扱い、光は嫌がるかな、と思ったが、彼は私の手を振り払わなかった。
静かな時間だった。
永遠のように。
そういえば、光と向かい合って横たわって、性的な気持ちが湧かないのは、これが初めてだなぁと、ぼんやり思った。
「光、」
「なに?」
「言っていい?」
光が真剣な面持ちで私を見る。
「…ざまーみろー」
そう私が言った途端、可笑しそうに、光が吹き出した。その目の端が、少し赤くなっていた。
私も一緒に、笑った。
どうしてだろう、その時は、笑顔でいたかった。
泣いて別れるのが、もう嫌だったからかもしれない。
私の体を案じたのか、光はタクシーで送ろうかと申し出たが、私はそれを固辞した。
そして、そのやり取りの間も、光の携帯が何度か鳴った。
さらに、何度も固辞したが、光は自分の名刺を私に持たせた。
「ないと思うけど、なんか本当に困った時があったら、連絡くれ。何時でも、どこにいても、すぐに行くから。あー、…畜生。そもそも妊娠中の人妻って、なんちゅう難易度だよ。…攫(さら)いづれぇ」
私はエントランスまでの見送りも固辞して、ぶつぶついっている光の部屋のドアを閉めた。
閉め際、光の盛大な独り言が聞こえた。
「ホントに、最初が最高とかって、最っ低だな…!」
光の部屋を出て、エレベーターホールへ向かって歩く。
ふかふかのカーペットを踏みしめながら、のしーん、のしーん、と、自分の歩くさまに心の中で効果音を入れる。
エレベーターに乗り込み、体調を案じる返信をくれていた夫に『これから帰るね。』とメールを送った。
ロビーを抜け、エントラスから外へ出ると、空は夕方から夜へと表情を変え始めていた。
一日でいちばん大きく場面が変わる時間。私がいちばん好きな時間。
と、車寄せの坂の下から梅雨特有の湿気を含んだ風がさぁっと吹いてきて、私の頬と髪をくすぐる。
振り返って真下から見上げると、いままでいたホテルの巨大さが際立って見える。
四角い積み木をずらしながら山型に積み上げ、そのまま縦に起こしたかのような独創的な形状は、夕闇を纏い、ひときわ異彩を放って見える。
月を背に立つその姿が、まるで翼を広げたまま化石になった、巨大な翼竜の背中のように見えた。
―進化とは、選択の結果です―
小さいころに読んだ本の一文をふと思い出す。いまある自分は、すべて選択の結果だという内容だった。
じゃあ、あの巨きな、巨きな翼で空を駆けた美しい恐竜は、いずれ滅びることを自ら選んでいたのだろうか。
もしそれが翼竜自身の選択ならば、可哀相と傍が思うこと自体、傲慢でしかない。
だとしたら。
翼を持たない私は、このまま歩いてみよう。一歩一歩、この重い体を引きずり、明日へと運び、子を産み、育ててみよう。
そして、いつかこの星に隕石が落ちるその日まで、逞しく、したたかに生きていこうと思う。
このホテルがなくなっても。
そして、傍に光がいなくても。